デバッグが終わるまで帰れません
お疲れの山田さんは、顔を上げておもむろに切り出した。
「……では、早速今から作業をしてもらいます」
もちろん最初から知っていたことなので、僕たちはうなずく。
ただし、何でもOKと言うわけにはいかない。
まず、聞いていない無理な条件があるかもしれないので、会話からうまくそれを引き出す。
もしそんな条件が飛び出してきたら、『無理』と言って帰る。
これが自分の身の安全を守る上での得策なのだ。
僕は山田さんの方へ向き直って質問する。
「この作業って、いつ頃を目安に終わればいいのですか?」
「終わるまで」
「えっ?」
「クリアするまで」
「ええっ?」
「クリアできない場合は、泊まり込んでください。デバッグ室に仮眠の設備があります。食事は近くにコンビニがありますし」
やっぱりね。
つまり……、
これは今から缶詰ってこと。
デバッグが終わらないと帰れませんってやつ。
宣告された。
マジかあああああっ……。
僕は山本さんに目だけで助けを求めたが、『頑張れよ』という顔をされた上に、主に山田さん向けの感謝も兼ねた言葉まで贈られた。
「よかったな。仮眠の設備まで用意してもらって」
だめだこりゃ……。人の気持ちを考えていない。
もし、今すぐ家に帰って外泊に備えて何かすべきことがあれば、いったん帰宅を提案したのだが、残念なことだが、今から泊まり込みになっても、僕の家では困ることがない。
アパートの一人暮らしで、冷蔵庫の中は空っぽ。だって、コンビニが冷蔵庫の代わりだし。
ペットもいない。観葉植物もない。干し物も干していない。
急な泊まり込みになっても大丈夫なように、万全を期していたのは、生活の知恵のおかげ。
これは、日頃の経験で身についた知恵なのだ。
山田さんは、もう退出モードになっているらしく、時計をちらちら見る。
「何かご質問は?」
と言われても、今はありきたりの質問しか思い浮かばない。
「夜中でも出入りが自由ですか?」
「非常階段が中から開いてしまいますが、今度は外から入ってこれなくなるので、一応は守衛室の前を通ってください」
「セキュリティカードは、いついただけますか?」
「今渡します」
用意周到だ。
「他の作業者は?」
「あなた一人です。HMDが人数分用意できないので」
「バグレポートは?」
「バグが見つかったら、ゲーム内のチャット機能で知らせてください。開発チームが待機しています」
「その機能って、操作方法は説明していただけるのですか?」
「要らないでしょう」
「説明なくて触れるものですか?」
「それを探して触るのも作業の一つです」
ということは、つまるところ、マニュアルなしでどこまでできるかのテストのようだ。
これは、先ほど聞かされた説明にはなかったのだが。
「開発チームの待機は24時間ですか?」
「はい」
待機しないなら、僕も帰りますって言おうと思ったが、残念。
相手もお泊まりのようだ。
そうだ。肝心なことを聞き忘れていた。
「最後までクリアできなかったらどうなりますか?」
「それはないでしょう」
「レベルはイージーで?」
「いいえ。ハードです」
「ハード!? いきなりですか」
「はい」
「初めてでハードは……」
「できる人を推薦していただきましたから、それはないと思いますが」
僕は『なに盛ってるの』と山本さんをちょっと睨んだ。
山本さんは右手だけを顔の前に出して、その半分の手で拝むようなまねをする。
そういうことか。
たぶん、うちに適任者がいます、とかなんとか話をつけたと思われる。
ここで顧客を前に内輪もめしたら、会社の顔がつぶれる、……かもしれない。
プロパー社員じゃないから、こういうときはちょっと立場が面倒。
言うか言うまいか。
でも、断ったところで、『君ならできるはず』とかなんとか、うまいことを言われそうだ。
仕方がない。
そろそろ議論は出尽くしたと判断されたらしく、山田さんがA4の用紙2枚を僕と山本さんに向かって1枚ずつスッと差し出した。
紙は机の上を滑って、器用に僕と山本さんの前でピタリと止まった。
「では、誓約書にサインしていただきます」
用紙を手元に近づけて見ると、守秘義務等に関する誓約書だった。
ざっと読んだ感じでは以下の通り。なお、甲とは山田さんの会社のことである。
・甲の一切の情報に対して不正にアクセスしたり、外部に持ち出してはならない。
・公開情報を除き、本業務で知り得た内容の一切は、業務遂行中はもちろん業務終了後も外部に漏らしてはならない。
・業務中に甲の許可なく、有線・無線を問わず、外部とのネットワーク接続を行ってはならない。
・業務中はカメラ、携帯電話、録音機器等で情報を記録してはならない。
・上記に違反した場合、損害賠償の責任を負う。
普通に見かける誓約書と、どこか厳しめなところがある気もするが、サインを拒否するような代物でもなさそうだ。
「印鑑を持ってきていないのですが」
僕の困った顔をちらっと見た山田さんが不思議そうな顔をする。
「印鑑は誰でも押せるので、普通は押しません。自筆サインでお願いします」
山田さんのいう『普通』は違う気がする。
普通は自筆サインと印鑑の両方なのだが、印鑑が要らないとは初めてである。
僕の準備不足を非難されたのなら仕方ないが、常識のなさを疑われたようで気分が悪かった。
打ち合わせも終了となり、全員で会議室を出た。
出るとすぐ、山本さんが「じゃ、よろしく」と言って一礼し、スタスタと去って行く。
もしかしたら数日帰ってこれない別れになるかもしれないのに、つれなかった。
棚上げになった僕の作業は、引き継いでいないので、知りませんからよろしく。
取り残された僕は、山田さんに案内されて作業部屋、つまりデバッグ室へと向かった。
さて、どんな部屋なのだろう。
心臓がドクンドクンと音を立てる。
その音が喉にまで伝わってくる。
こんなことは普段は起こらないのだが、今日はなぜか鼓動が収まらないのだ。