異世界の同時通訳者になった
金髪灼眼の女の子は、僕の手を握ると目を閉じて、聞き取れないほどの小声で何か言っている。
詠唱か?
すると、どういうわけか、彼女の手が温かくなってきた。
僕の体温で暖まったのではない。なぜなら、僕の手よりも温かいのだから。
と同時に、頭の中にザラザラしたものがザーッと流れ込んでくる不思議な感覚に襲われた。
そのザラザラした物が、消え入るように頭の中へ溶け込んでいく。
いや、無数にある引き出しの中に入っていくような不思議な感覚だ。
60秒くらい経っただろうか。彼女が目を開けて、ニコッと微笑む。
「はい、終わり」
すると、彼女の手がまた冷たくなった。
そして、握っていた手がゆっくり離された。
せっかく握ってくれた彼女の手が離れていくのはちょっと名残惜しい。
「これでいいの?」
「そうよ。この国のすべての文字と、単語にして3万くらい、文例として1万くらいダウンロードしてあげたから、会話に困らないはずよ」
すげええええっ。何という技だ。
「これでこちらの世界の言葉が読めたり話せたりするの?」
「ええ。世界と言うより、ローテンシュタイン帝国の言葉だけれど」
「君と話をするときは、どちらがいいの?」
「どちらでも」
本当に?と言おうと思ったが、それを飲み込んで、試しにこちらの国の言葉で『本当に?』って言ってみようと思った。
「ヴィルクリヒ?」
えっ? 僕は日本語じゃない言葉、しかも一度も口にしたことがない言葉を平気で口にしているではないか。
頭の中は『本当に?』と言ったつもりなのだが。
それに対して彼女は、ニコッと笑って答える。
「ヤ」
これは『ええ』って伝わった。
つまり、耳から入ってきた『ヤ』という声が、頭の中へ入って行くと『ええ』という意味の声として聞こえるのである。
その声がどういう意味か、瞬時にわかる感覚。
この言葉はこっちの国ではこの意味だ、と置き換えて理解しようとしているのではない。
もう、『そう聞こえる』としか表現できないのだ。
これって同時通訳の感覚だろうか。
「ヴェルヒェシュプラヘイストゥダス?」(これって何語?)
「エスイストゥローテンシュタイン」(ローテンシュタイン語よ)
ローの音の巻き舌が凄い。でも美しい。でも僕には無理だ。
「ローテンシュタイン。エスカンニヒトゥツーミア」(ローテンシュタイン。僕にはできない)
「ジーケネンアオホ。アイネスターゲス」(あなたにもできる。いつかは)
「ヴァルテンジー」(待ってて)
「ヤ」(ええ)
頭の中を日本語モードに戻す。
「ありがとう」
「ビッテシェン」(どういたしまして)
彼女は少し遅れて日本語モードに戻る。
「そうそう。ローテンシュタイン語は、何かと言葉をつなげて発音するの。定冠詞も単語とつなげて。たとえば、ダス シュヴェルトじゃなくてダスシュヴェルト」
「ああ、剣ね。なにげに、かっけー」
「でしょう?」
僕はそろそろ中断していた作業が気になり始めていたので、話を最初に巻き戻す。
「じゃ、そろそろ帰ってね」
「なんで?」
「お兄さんはお仕事中だから、邪魔されると困るんだ」
彼女は、細い眉を八の字にして、つまらなさそうな顔をする。
「つれないわね」
「言葉を教えてくれたから、もう大丈夫。そろそろ仕事をしないと」
「いや、まだ困っているはずよ」
「何を?」
「この国のことを知らないでしょう」
「案内してくれるとか?」
「そうよ」
この異世界がどうなっているのか気になるので、申し出は助かる。
その前に、山田さんに一言言わなくては。
何、ここ、異世界じゃん!
異世界に常駐するなんて聞いていないぞー! って。
そうだ、名前を聞いておこう。
「イアナーメ?」(お名前は?)
やばいやばい、頭の中が混乱してきた。この世界の住人になりそうだ。
彼女は嬉しそうに笑う。
「アンジェリーナ」
これは、天使のようなかわいい女の子という意味の名前だったと思う。
確かに、それに値するほど、かわいい。
「僕は台場トオル。トオルでいいよ」
とその時、彼女はビクッとして、目を見開く。
つられて僕までビクッとしたほどの驚きぶりだ。
何に驚いたのだろう?
台場か、トオルか?
ローテンシュタイン語で何かまずい意味、スラングでもあるのだろうか?
彼女はこちらに顔を近づけて、恐る恐る声を出す。
「ト、……トール?」
「トオル」
言い直したら、彼女は安心したのか、胸をなで下ろし、ニコッと笑った。
「いい名前ね」
やっぱり、名前に反応したらしい。おそらく、トオルに。
でも、なぜだろう?
気にはなるが、話を先に進めることにする。
「ありがとう。ちょっとその前に、話をつける人がいるから待っていてね」
僕は意気込んでHMDをかぶり直した。




