月下、壊れた恋人たちは
ハントはヴィクトリアの後を追った。
周囲の同僚たちが向けてくる、探るような視線にも気づかぬまま。
ヴィクトリアは宴会場を抜け、夜風の吹き込む露台でようやく足を止めた。
月光に照らされた白い大理石の欄干へ片手をつき、彼女は乱暴な手つきで髪飾りを外し始める。
翡翠。真珠。銀細工。
豪奢な髪梳。幾重にも重ねられた簪。
一つ外すたび、乾いた音が石床へ落ちた。
まるで、自分を飾り立てていた何かを、必死に剥ぎ取ろうとしているようだった。
「ヴィクトリア……?」
ハントが声をかける頃には、彼女はすべての装飾品を外し終えていた。
銀色の長髪が、夜の闇へ溶け込むように流れ落ちる。
月光を浴びたその髪は、かつて学園で見惚れた頃と同じように幻想的だった。
いや――むしろ今の方が、美しかった。
壊れかけたものほど、人は美しく見えてしまう。
ヴィクトリアは俯いたまま、小さく何かを呟いた。
「……もし」
「え?」
聞き取れず、ハントは思わず近づく。
ヴィクトリアはゆっくり顔を上げた。
涙に濡れた紫水晶の瞳。
月光の下で見るその顔は、現実の女というより、森に迷い込んだ妖精姫のようだった。
――まるで恋物語ではないか。
ハントは息を呑む。
父に隠れて読んでいた数々の恋愛小説。
運命に引き裂かれた恋人たちが、遠い異国で再会する場面。
互いを忘れられぬまま、大人になった二人が再び巡り会う場面。
今の自分たちは、まさにその一節のようだった。
もしかすると。
自分とヴィクトリアの再会は、本当に運命なのではないか。
そんな愚かな考えが、ハントの胸を甘く痺れさせる。
ヴィクトリアは涙を零しながら、震える声で言った。
「……あの時、あなたが私を連れて逃げてくれていたらよかったのに」
その言葉は、あまりにも簡単にハントの胸へ入り込んだ。
――私もそう思っていた。
反射的に、そう答えかける。
だが。
唇が動く寸前で、別の顔が脳裏をよぎった。
柔らかく微笑む、茶色の髪の女性。
ヒルダ。
彼女は今も、リタール王国で伯爵家を守っている。
自分の帰りを待ちながら。
もしここで、自分が隣国の王太子側妃と密会していると知られればどうなるか。
傷つくのは、自分だけではない。
ヘクトール伯爵家を一人で守るヒルダが、社交界で嘲笑される。
侮られる。
陰口を叩かれる。
ハントはヒルダを愛してはいない。
――そう、自分では思っている。
だというのに。
彼女を思い浮かべた瞬間、左胸が締めつけられるように痛んだ。
それが何なのか、ハントには分からなかった。
ヴィクトリアは、ハントの沈黙を敏感に察した。
紫の瞳が大きく見開かれる。
その中へ、新たな涙が溜まっていく。
「……学園で、あなたが私に誓ってくれたこと、忘れてしまったの?」
ハントは苦しげに目を伏せた。
あの頃の自分は、本気だった。
永遠に彼女だけを愛するのだと、疑いもせず信じていた。
だが今。
目の前のヴィクトリアを見ていると、奇妙な違和感が胸の奥に広がる。
彼女は確かに美しい。
今でも憧れの女性だ。
けれど。
昔のように、「彼女だけのためにすべてを捨てたい」とは思えなかった。
むしろハントは、ヴィクトリアの涙の奥にあるものを感じ取ってしまっていた。
彼女は、自分を愛しているわけではない。
ただ、孤独なのだ。
王太子に冷遇され。
異国で味方もなく。
誇りだけで立ち続けることに疲れ果てている。
だから今、昔の恋人へ縋ろうとしているだけだ。
そして、自分もまた。
彼女自身ではなく、“恋愛物語の続きを演じる自分”に酔いかけている。
その事実に気づいた瞬間、ハントは急に恐ろしくなった。
「ヴィクトリア側妃殿下」
ディマンへ来て初めて、彼は正式な呼称を使った。
そして一歩後ろへ下がり、二人の距離をわずかに開ける。
「宴でお疲れなのでしょう。侍女を呼びましょうか」
ヴィクトリアは一瞬、信じられないものを見るような顔をした。
次の瞬間。
彼女は再び泣き出した。
今度は先ほどよりもずっと幼く、取り繕うこともなく。
肩を震わせ、大きな声で。
「……私は、ただ誰かと話したかっただけなのに」
月光の下で泣き崩れる彼女は、もう高貴な側妃には見えなかった。
「ソロモン殿下は私に興味なんてないわ……お父様もお兄様も、私のことなんてどうでもいいの……」
彼女は涙を拭おうともせず、縋るようにハントを見上げる。
「この国で、本当に一人ぼっちなのよ……」
ハントの胸が鈍く痛んだ。
拒絶すべきだ。
距離を置くべきだ。
そう理解している。
だが。
昔、自分が愛した少女が、こんなにも弱々しく泣いている。
それを見捨てられるほど、ハントは強くなかった。
彼は数秒間迷い、やがて静かに頷いた。
「……少しだけなら」
その返答を聞いたヴィクトリアは、涙の残る顔で微笑んだ。
その笑みは、かつて学園で見せていた無邪気なものによく似ていた。
けれどハントには、それがひどく遠いもののように思えた。




