あの日、手紙を開いていれば
予想に反して、ヒルダの字はあまり綺麗ではなかった。
丸みを帯びた文字は、まるで幼い少女が一生懸命に書いたような筆跡で、どこか危なっかしい幼さを感じさせる。
しかも書き始めの文字はやけに大きい。書き手は四行目あたりでようやく、この淡いベージュ色の便箋にはそれほど多くの文章が入らないことに気づいたのだろう。そこから急に文字が小さくなり、後半はぎゅうぎゅうに詰め込まれたような窮屈な見た目になっていた。
ところどころ単語の綴りも間違っているし、言い回しも少し不自然だ。
普段は穏やかで落ち着いているヒルダにも、こんな失敗があるのだと思うと、ハントは妙に親近感を覚えた。
以前の彼の中でのヒルダは、いつも感情を表に出さない、静かな女性だったからだ。
そして、手紙の内容もまた、彼を驚かせた。
ハントはてっきり、領地運営に関する事務的な報告か、あるいは外交使節としての仕事の状況を尋ねるような内容が書かれているのだと思っていた。
心のどこかでは、ヒルダが少しくらい愚痴を書いていてほしいとも思っていた。
なぜあんなふうに逃げ出したのかと、責めてほしかった。
だが――。
ヒルダはただ、穏やかな午後の出来事を書き綴っていた。
少し大きすぎる、ころころとした文字で、領地の庭園の美しさが語られている。
季節の花々が咲き誇り、絨毯のように広がる鮮やかな芝生。
静かな温室。
たくさんの実をつけた果樹たち。
どうやらヒルダは庭園で友人たちと茶会を開いたらしい。
香りの良いラベンダーティー、さくりと軽い食感の焼き菓子、柔らかなケーキ――そんなものが振る舞われたと書かれていた。
決して文章が上手いわけではない。
それでも、その手紙には奇妙なほど真心があった。
書き手がどれほどその午後を楽しく過ごしたのか、どれほど幸せだったのかが、文字の隙間から滲み出ている。
読み終えた時、ハントは久しぶりに笑っていた。
ヒルダがこんなにも愛らしい女性だったとは、知らなかった。
そう思った瞬間、赴任したばかりの頃に届いていたヒルダの手紙を、読まずに処分してしまったことを、彼は猛烈に後悔した。
次の数通の手紙も、同じような内容だった。
窓辺に留まった色鮮やかな鳥のことだけで、書き手は何日も嬉しそうにはしゃいでいる。
餌を持ってきて誘い寄せようとしたら、侍女たちに止められてしまったことまで書かれていた。
さらに次の手紙では、その珍しい羽の鳥は二羽いたこと、庭の木に巣を作ったこと、屋敷の皆が雛の誕生を楽しみにしていることが綴られていた。
そのまた次の手紙には、最近は天候が不安定で、吐き気がしたり身体がだるかったりすると書かれている。
そして文末では、「ディマン王国の気候はいかがですか」と、彼の体調を気遣う一文まで添えられていた。
それらの手紙の中で、ヒルダはほとんど自分の不満を語らなかった。
ハントが逃げ出したことも。
領地を丸投げしたことも。
彼女は責めなかった。
ただ、自分が幸せだと感じた小さな出来事だけを、静かに綴っていた。
その優しさと気遣いが、冷え切っていたハントの心を少しずつ温めていく。
それでも彼は、まだ多くの手紙を開く勇気は持てなかった。
次の一通には、
「舞踏会で素敵な若い貴族と出会いました」
あるいは、
「もう待つのはやめて、自分の自由を探そうと思います」
――そんなことが書かれているかもしれない。
彼は最初の数通を手に取り、何度も何度も読み返した。
ヒルダは……。
この手紙の内容を見る限り、彼を許し、待っていてくれているのではないか。
そう思うだけで、胸が熱くなった。
逃げるように領地を飛び出してから、すでに一年。
ハントの部屋には、ヒルダから届いた手紙が山のように積み上がっていた。
最初の数通を開いただけで、彼の勇気はほとんど尽きかけている。
それでも彼は思った。
そろそろ、自分もヒルダへ手紙を書くべきではないか、と。
これほど一途に待ち続けてくれた彼女に、何か返さなければならない。
そうして、実に十一ヶ月ぶりに、ハントは部屋の扉を開けた。
彼が部屋に閉じこもるようになってから、行動範囲は廊下の途中にある浴室と便所までだった。
こんな遠くまで歩くのは、本当に久しぶりだった。
記憶を辿る。
確か、この長い廊下の突き当たりを曲がれば厨房があり、その先に皆が集まる大広間があるはずだ。
大使の言葉は正しかったのだ。
もっと早く、ヴィクトリアへの執着を捨てるべきだった。
優しく忠実なヒルダと、きちんと向き合うべきだった。
彼はあまりにも多くの時間を無駄にした。
この職に就いてから、もう二年近くが経とうとしている。
もし過去に囚われず、素直にヒルダと向き合っていたなら――今頃、自分たちには子供がいたかもしれない。
ハントは思う。
大使に相談しよう。
ヒルダへ、本心から謝罪する手紙を書こう。
できることなら、この仕事も早めに辞めて、彼女のもとへ帰ろう。
「ハント様?」
聞き慣れた声が、廊下の奥から響いた。
影の中から姿を現したのは、ヨランダ夫人だった。
暗闇の中から徐々に浮かび上がるその顔には、使節団の“母”として皆に向ける、あの優しい微笑みが浮かんでいる。
だが、彼女の着ているメイド服は、ハントが初めて見るものだった。
黒い布地には繊細な赤薔薇の刺繍が施され、胸元に飾られた生花の赤薔薇と、不気味なほど美しく調和している。
なぜか、その瞬間、ハントの背筋を冷たい恐怖が走った。
自分がヨランダ夫人を恐れる日が来るなど、思ってもみなかった。
部屋に閉じこもり続ける彼を、決して責めず、穏やかに世話をしてくれていた女性なのに。
「何か御用ですか、ハント様?」
ヨランダが静かに尋ねる。
「ぼ、僕は……大使に会いたくて……」
「あら、旦那様なら、ちょうど私の後ろにいらっしゃいますよ」
そこで初めて、ハントはヨランダの隣に立つ男に気づいた。
先ほどまで彼女の豊かな体格に隠れて、見えていなかったのだ。
だが、その男は、ハントの知る大使とはまるで別人だった。
髪はほとんど白くなっている。
かつて艶やかだった金髪は、今では乾いた藁のようにぱさつき、持ち主の衰弱をそのまま映し出していた。
もともと大使は年齢を感じさせない体格を維持していた。
だが今は、身体そのものが痩せ細り、顔も首も手足も、骨の形が皮膚の下から浮かび上がっている。
目も変わっていた。
以前は自信に満ちて輝いていたその瞳から、光が消えている。
六十歳とは思えぬ若々しさを持っていた男が、今では八十歳近い老人にしか見えなかった。
「どうした」
大使が低い声で問う。
「妻に……ヒルダに手紙を書きたくて。今までのことを謝りたいんです。どう書けばいいか、相談したくて……」
「ようやく、まともなことをする気になったか」
大使は疲れたように息を吐いた。
「来い。執務室で書け。部屋に閉じこもって腐っていても、まともな文章なんて書けん」
ようやく執務室へ入った瞬間、ハントは思わず息を呑んだ。
そこに座っていた人間の半分以上が、見知らぬ顔だったからだ。
男女の若い使節たちが整った制服姿で座り、興味深そうに彼を見ている。
一方、以前から知っている同僚たちは、誰もが俯き、わざと仕事に集中しているように見えた。
普通なら、一年で使節団の半数が入れ替わるなどあり得ない。
本能的に、ハントは悟った。
―ここから逃げなければならない。
だが彼は黙って席に座り、便箋を広げた。
そして、震える手で書き始める。
―家に帰りたい。
―帰った時、一番最初に君の顔を見たい。
最後に、そう書き添えた。




