雨に沈む使節館
翌日。
ハントたちは大使に同行し、王宮へ向かった。
「見ろよ、“カフェの外交官”だ」
「おい失礼だろ。ヴィクトリア側妃殿下と王太子殿下は大変仲睦まじい。あの男はただ第一側妃をカフェまで護衛しただけだ。“カフェの騎士”と呼べ」
「舞踏会の夜に逃げ出した男だろ? 本当に情けない」
「故郷にも居場所がなかったらしいぞ。三日で戻ってきたそうだ。奥方にも見捨てられたんじゃないか?」
「ヴィクトリア側妃が倒れた時、殿下はすぐ抱き上げて宮殿へお戻しになったらしい。なんと美しい夫婦愛だろうな。美波王太子妃殿下も、あれほど優れた女性に子を産んでもらえるなんて誇らしいだろう」
「それに比べて、あの“カフェの付きまとい男”ときたら……」
ディマン貴族たちは容赦なく笑った。
リタール使節団が回廊を歩くたび、左右から嘲弄が飛ぶ。
だが、大使が視線を向けると、彼らはすぐ互いに向き直り、何事もなかったかのように会話をやめた。
大使は抗議することすらできなかった。
ソロモン王太子と毛側妃は、建設予定の華唐国系国際学院へ、大使の長男の入学枠を既に用意していた。
気づけば、弟妹たちの家は華唐国との商業関係に深く絡め取られていた。弟などは妻と離縁し、自分より遥かに若く、美しすぎる華唐国の女性を新たに迎えている。
一家全体が、すでに支配されていた。
エリカ王妃が、この事態を見逃すはずがない。
いずれ自分は失脚する。
下手をすれば、反逆罪だ。
その未来を思うたび、大使は眠れぬ夜を過ごした。
そんな時、ヨランダ夫人は赤薔薇を胸に飾り、香り高い薬草茶を運んでくる。
「王妃殿下の奥宮より賜ったお茶でございますよ」
彼女はいつも、穏やかにそう微笑んだ。
ハントはそんな大使の苦悩など知らない。
彼はただ、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
だが、現実は彼の想像以上に悪辣だった。
舞踏会での騒動を鎮めるため、ディマン王室は新たな醜聞を必要としていた。
第二側妃が奴隷を使って第一側妃を侮辱し、妊娠中の第一側妃を公衆の面前で倒れさせた――その事実を覆い隠すために。
さらに、ヴィクトリアの胎児の父親を疑われないよう、ハントとの噂そのものを書き換える必要があった。
茶会、舞踏会、新聞、酒場。
至る所で、新しい物語が流され始めた。
―ハントは妄想癖のある危険な男だった。
ヴィクトリアとはただの学友だったにもかかわらず、一方的に恋愛関係を思い込んでいた。
ヴィクトリアがディマンへ嫁いだのも、彼から逃れるため。
それでもハントは妄想を捨てられず、家柄とジェイソン王の旧友という立場を利用して使節団へ潜り込み、再び彼女へ接触した。
ヴィクトリアがカフェで彼に会っていたのは、穏便に諦めさせるためだった――。
その噂が広まると、ハントの行ける場所は消えた。
かつて通っていたカフェも、書店も、図書館も、彼を拒絶した。
通り過ぎる人々は彼を見て笑い、彼が絶対にしていない会話を、さも真実のように囁き合う。
ついには大使から外出禁止を命じられ、彼は使館で書類仕事だけを任されるようになった。
不安と恐怖で、彼は集中力を完全に失っていた。
愛読していた恋愛小説にも手が伸びない。
眠れず、起き上がれず、食欲も消えた。
ヨランダ夫人自慢の苺ケーキも、薄荷茶も、味がしなかった。
朝起きた瞬間から疲労感に押し潰され、時には死を考えることすらあった。
そしてある雨の日。
廊下で洗いたてのタオル籠を抱えたヨランダ夫人と出会った時、彼女は静かに言った。
「お部屋へ戻られてはいかがです?」
暗く湿った廊下の中で、彼女の顔はよく見えなかった。
黒いメイド服は闇へ溶け込み、胸元の赤薔薇だけが異様に鮮やかだった。
「ですが、まだ仕事が……」
「書類でしたら、お部屋へ運ばせます。お辛い時は、柔らかな毛布の中へ逃げ込むのも大切ですわ。自分だけの小さな空間は、外の世界から心を守ってくれますもの」
それ以来、ハントはほとんど部屋から出なくなった。
三食は運ばれ、呼び鈴を鳴らせば誰かが来る。
ヨランダは三日に一度、処理済みの書類を回収し、新しい仕事を持ってきた。
大使も時折訪れ、最低限のやり取りだけを交わした。
ヒルダからの手紙は、変わらず届き続けていた。
だが彼は開けられない。
―もし、そこに。
「もう待てません。離縁してください』
そう書かれていたら?
だから彼は、恋愛小説を読み続けた。
幸福な結末だけを信じるように。
ヒロインは最後まで待ち続ける。
傷ついた男主人公は、最後に本心を告げる。
そして二人は結ばれる。
ヒルダも、きっとそうだ。
彼はそう信じるしかなかった。
やがてハントは、自分の過去を思い返すようになった。
幼い頃、母と絵本を読んだ記憶。
王子と姫が困難を乗り越え、幸福に暮らす物語。
だが成長すると、父は大量の教師を呼び寄せ、彼の一日を学問と訓練で埋め尽くした。
家庭教師たちは、誰もが同じことを言った。
ヘクトール伯爵は偉大なお方だ。国王陛下の腹心であり、領地の税収を倍にした名君だ。お前も成長したならば、父君を見習わねばならない、と。
ハントは、自分にできる限りの力で、それに応えようとした。
小説を読んでいたことで父に鞭打たれた時、彼は美しい恋を描いた本を手放した。
母がそれに異を唱え、父の命で使用人たちに部屋へ閉じ込められ、時には食事さえ与えられなかった時でさえ、ハントはそれを受け入れるべきことだと思っていた。
母は最後まで屈しなかった。
その後の数年間、正式な晩餐会など、どうしても出席が必要な場を除いて、母は屋根裏部屋に閉じ込められたままだった。
それでもハントは、それを正しいことだと思っていた。
家庭教師たちは皆、こう教えていたからだ。
貴族夫人にとって最も大切な務めは、夫と息子に従い、彼らを支えること。従わぬ女には、相応の躾が必要なのだ、と。
学院へ入ると、ハントは必死にジェイソン王子の輪へ入り込もうとした。
たとえ、何一つ悪いことをしていないにもかかわらず、元平民というだけで嘲られていた子爵令嬢ノラを、彼らと共に傷つけることになっても。
たとえ、本来なら授業に励むべき時間や、正式な婚約者であるヒルダと過ごすべき時間の大半を、彼らとの遊興に費やすことになっても。
父から家の「商売」を手伝うよう命じられた時も、ハントは一度たりとも疑問を抱かなかった。
「皆やっていることだ、息子よ。これは商品だ。金になる。もともと何者であったかなど関係ない。名札を付ければ、それは奴隷になる」
父はそう言った。
地下室で父が飼っていた“愛玩犬”が逃げた時も、ハントは父と共にそれを捕らえた。
父は、言うことを聞かない雌犬と、彼女が産み育てた仔犬にひどく失望していた。
二匹は縛られ、船へ乗せられた。
二匹が連れ去られたあと、父はハントに約束した。
お前こそが、ヘクトール家ただ一人の後継者だ、と。
父の葬儀が終わると、母は一度も振り返らずに屋敷を去った。
その後、母と顔を合わせるたび、ハントは彼女の視線を感じた。
探るような眼差し。
会話の端々から、彼が父と同じことをしていないか、その痕跡を探そうとする目。
母は何度も問い、何度も疑った。
そのことが、ハントにはひどく苦しかった。
そして、ある日。
ハントはついに、部屋の隅に積まれていた手紙を開いた。
日付の最も古いもの――彼が逃げるように使館へ戻った直後、最初に届いた一通を選び、読み始めた。




