八、あまじょっぱい魔法の言葉
静かだ。
気を抜くと、全てが呑まれそうなほどに、静かで寒い。
今朝、浩太郎と些細な喧嘩をしてから、話し合う間もなく浩太郎は仕事に出かけた。
喧嘩こそ茶飯事だが、こんなに長く続いたのは初めてだ。浩太郎が家を出てから、十時間が経とうとしている。
こうも嫌に静かだと、あの日々を思い出す。
俺が浩太郎に出会う前、親父の嫌味を聞き流せないまま執筆を続けていた、地獄の様な日々を。
―五年前
「んだよ、これ」
大学から帰ってきた俺を出迎えたのは、一通の分厚い便箋。今日もつまらない授業を乗り越え、一瀬さんからの厳しいメールを一読した、瀕死状態のメンタルにはかなり堪える。
送り主は、神野雄二。ポストからそれを取り出すと、呪われたかのように体が重くなるのを感じた。
やっとのことで入った冷え切った部屋に、暖房器具と呼べるものはない。恥を捨て去った、一番暖かいファッションに身を包んだ。
手紙を読む気にはなれない。かと言って、酷評された小説に手を加える気も起きない。
飯を食う事すら、億劫に感じる。
スマホは持っていない。家を出るときに、家の風呂に沈めてきた。そうしないと、俺はいつまでも監視されているように錯覚してしまうから。
親父からの一方的な接触はいつも、時代にそぐわない文通だった。
「…チッ」
乱雑に便箋を開け、中に入った紙の束を取り出す。随分多い手紙かと思っていたが、実際に手紙は三枚のみ。あとは大きな紙を折りたたんで仕舞っていたようだ。
よく見ると、手紙は二人分あるようだった。一つは親父の字だが、もう一つは見覚えがない。母親のものでもない気がする。
一枚目には、親父の字でこうあった。
『相馬が婿に行った。事実上の勘当だ。お前がこの家を継げ。』
「…は?」
兄貴が婿入り? 俺が当主?
事態を呑み込めないまま、紙をめくった。丁寧な字だが、馴れ馴れしい文面だった。
『親愛なる伊織様』
誰だ、この字の主は。親愛と呼ばれるほどの間柄の人間はいない。勢いのまま、折りたたまれた紙を広げた。その紙に挟まっていた写真が、床に落ちた。
着物を着た女性の写真だ。見たことない女。穏やかそうな笑みの裏に、浅ましい魂胆が覗いている。開いたその紙は、婚姻届だった。
「あぁっ…」
『夫になる人』以外の欄が綺麗に埋め尽くされたその紙切れに、吐き気がした。視界がぼやけ、目が回る。立っているのもやっとだった。
そんな俺を、写真の女が嘲笑っているように見えた。そんな顔に無性に腹が立ち、写真を破り捨てた。あっさりとそれらの破片は、床に散らばった。
「ああああああああっ‼」
気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い…
なぜ会ったこともない女と結婚しないといけない。
なぜ、声も知らない女からの恋文を読まなければいけない。
なぜ、
…なぜ俺を、見捨ててくれない‼
足がもつれ、机に倒れ込んだ。ダンッという大げさな音と共に、放置していたコップが割れ、破片が飛び散る。
「…痛ぇ」
鋭い痛みと共に熱を帯びた右の頬を抑えた。
兄貴にそんな度胸、あったのか。
机の上に寝転び、天井を仰ぎながらそう思った。
いやに心が凪いでいる。小説も、終ぞ形にはならなかった。兄貴も、俺を見捨てて家を出て行った。俺には、もう何もない。
何もかも、終わりにしてしまいたい。
―ピンポーン
「だ、大丈夫ですかー?」
誰だ。隣の奴か、下の階の奴か。
確か、右の部屋は空き部屋だったはず。
隣の奴は一度会ったことがあるが、愛想の悪い男だった。隣から大きな音がしたからと、様子を窺いに来るとは思えない。
ドンドンドンッ
「大丈夫ですかぁ!」
ガチャガチャとドアノブを回す音まで聞こえてきた。
んな事したら、このアパートの扉は壊れるぞ。
「開けますよ⁈」
「ちょっと待て!」
思わず叫んでいた。
鍵の締まった扉をこじ開けようとすんな。弁償するの誰だと思ってる。
居留守をした手前、顔を合わせるのは避けたかったのだが。しぶしぶ玄関に向かう。チェーンロックを掛けたまま、扉を開けた。
「あ、良かったー!」
前に立つ男は、確かに隣人の男だった。だが、以前見かけたときと雰囲気が全く違う。180はありそうな上背に、愛嬌のある顔が乗っていた。かなり違和感がある。
「何なんだ、アンタ。」
「あ、初めまして。隣に住んでます、高野って言います。あれ、ほっぺ大丈夫ですか?」
男は、自分の左の頬を指差した。
「そうじゃねぇ」
「え?」
ドアを一度閉め、チェーンを外してから男と再び向き合った。
「人ん家のドア、壊そうとすんじゃねえ。」
「えー、でも、大けがしたのかと思って。」
「…チッ。ご心配おかけシマシタ。」
そのまま目線を外し、ドアを閉めようとしたのだが、男にドアを掴まれた。右腕一本に対し、俺は両腕の力を使っているのに、ビクともしない。
「あのー…」
「ああ⁈」
男は一瞬ビクッとしたが、腕の力が緩まることはなかった。何だコイツ、どんだけ鍛えてやがる。
「食べ物、下さい…」
ギュルルルル…
申し訳なさそうな声と、これまた居心地の悪そうな虫の声が聞こえた。
「お願いしますッ! もう二日固形物食べてないんです!」
男は馴れ馴れしくも、俺の両手を握った。振りほどいてやりたい…。が、俺の両手は、枷が付いたかのように動かなかった。
グルルルル
「あ、…えへ」
なぜ今恥ずかしがる。さっきも、もの凄い音鳴らしてただろうが。
コイツ、厄介だ。この男といると、調子が乱れる。早急に追い返さねば。そう思うのに、俺の両手に力は入らなかった。なぜだろう、冬の北風の中に、少しの温もりを感じた気がした。
「…はぁ。…どうぞ。」
俺の返答に、男は少しの躊躇いも見せずに部屋に入り込んできた。遠慮の欠片も感じられない振る舞いを見て、表情筋が解れたように錯覚した。何かの間違いだろう。
「ホントにありがとう! お礼に部屋片づけとくね!」
「ちょっと、勝手に…!」
男がしゃがみ込んだところには、コップの破片が散乱していた。どうせ放置してても、俺は片付けないだろうし、コイツにやらせるのも良いか。
「ケガ、すんなよ。夢見わりぃから。」
「はーい。…あイタッ」
「言わんこっちゃねえ!」
男の指には、小さな切り傷が一つだけあった。
なんだ、大げさな。
涙目の男を置いてキッチンに戻り、冷蔵庫を開けた。どれも微妙に残っている食材ばかりで、単体だと一人分には到底及ばない。…仕方ない。俺が楽しみに取っておいたアレを、少し分けてやろう。たまにはと、少し多めに買ってあるし。
「ほら、これでいいだろ。」
「一緒に食べよー!」
声だけが聞こえてきた。なんて図々しいんだ。
「一人のご飯って、寂しくない?」
今度は居間から男の顔が覗いた。その顔を見て、思わず返事をしてしまった。
「…そう、だな。」
ため息を一つ吐いて、冷凍庫から米を二つ取り出し、面倒なので同時にレンジにかけた。掃除を終えた男に茶碗と箸を二つずつ手渡し、冷蔵庫からアレを取り出す。解凍を終えた米とソレを入れ替え、米を茶碗に盛った。
「本当にありがとうね。改めて、僕は高野浩太郎。二十歳です。」
ハタチって、コイツ年上かよ。どうもそうは見えない。
「神野伊織、十九、っす…。」
ピーッ、ピーッ
レンジを開けると、酸味の効いた香りが漂ってきた。高野さんも、目を輝かせている。
やっぱり年上には見えない。
そんな高野さんの顔が、ラップを外した瞬間に真顔になった。
「なに、これ」
「何って、酢豚っすよ。好きなんで。」
「あ、僕酢豚苦手…。」
高野さんは、顔の前で控えめに両手を振ってみせた。よく見たらこの人、めちゃくちゃ顔が整ってるんだな。
ま、それはそうと―
「出ていけッ‼」
「―おり、いおり!」
「ん…」
「伊織!」
瞼を開けると、目の前に浩太郎の顔があった。毎度の事ながら近すぎる。浩太郎の顔を押しのけながら時計を見ると、一時間ほど眠っていたようだった。時刻は十九時を回ろうとしている。
「あ、すみません。今夕飯の準備を…」
「大丈夫だよ、買ってきたから。」
浩太郎の指さす先には、随分懐かしいビニール袋があった。そう言われると、久しく嗅いでいなかった匂いも香っているのに気づいた。
「…買ってきてくれたんですか、酢豚。」
照れくさそうに、頬を掻いていた。
「仕事でたまたま、前の家の近くに行ったから。ついでに。」
「そうでしたか、ありがとうございます。」
袋を覗くと、米も一緒に買ってくれていた。なんて気の利く奴だ。割り箸も入っているじゃないか。
そういう事で、何も準備せずとも夕飯の時間となった。
「あの、今朝はごめんね。」
「え、ああ。私も、言い過ぎ…てないですね。あれはあなたが悪いです。」
「わぁ、流されてくれない…」
「当たり前です。トイレットペーパーの連続ミリ残しは重罪です。」
久しぶりに、この店の酢豚を食べた。好みの分かれるパイナップルを存分に入れてくれるあの店には、昔よくご褒美として行ったものだ。浩太郎には一度しか出していないのに、まさか覚えていたとは。
「これ、伊織と初めて会った時のやつ。覚えてる?」
「ええ。乞食に来たと思ったら選り好みし始めて、とにかく変な人でしたね。」
「うう、それはゴメン。でも、伊織も尖ってたよね。」
「はっ倒しますよ。」
思い出の味は、五年ぶりに食べたとは思えないほどに鮮明だった。あの頃は思い出したくもないはずなのに、不思議と今は悪い気はしなかった。
「ねえ、伊織」
「はい。」
「二人のご飯は、美味しいね。」
…コイツ、よくもまあ昔のことを覚えてるもんだ。ただの鳥頭だと思っていた。
上手そうに酢豚を頬張る浩太郎を前に、ほのかにパイナップルの甘みを感じた。
「そうですね。」




