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2、山あり谷あり大葉あり

 今日はなんて良い日だ。

 世界が俺に優しい。

 いつもはあれほど鬱陶しい寒さも、今の俺には何の障害にもなり得ない。耳が千切れそうなくらい攻撃的な風に、心地良さすら覚えるほどだ。


『―良いですね、これでいきましょう。』


 先ほどの言葉を、幾度となく反芻しては顔が綻ぶ。

 さんざ一発屋と言われてきた俺も、二発目の大作を放つことになってしまうかもな。


「戻りました!」


 にやけ面の俺を出迎える者はいなかった。

 はて。今日、浩太郎(こうたろう)は休みだったはずだが。トラオルのメンバーと、どこかに出かけているやもしれない。居間にも、浩太郎の影はなかった。

 特に気に掛けることなく、スーパーで安売りしていた食材たちを冷蔵庫に放り込む。


 現在、雀の涙ほどでも儲かっている浩太郎とは違い、俺には一銭の稼ぎもない。一度出版した小説がベストセラーにまで上りつめ、貯金は少しばかりある身だが、それももうごく僅か。呑気にしている場合ではないと知りつつも、今日もスーパーで浪費にいそしんでしまった。


「おかえり…」

「うおぉ!」


 唐突にソファーの向こう側から、浩太郎の顔が覗いた。

 いつものウザったいくらいの元気はどこへやら。擦れた声に、泣き腫らしたのか真っ赤になった酷い顔。ヨレヨレのスウェットの上で元気に跳ねる銀髪は、主人とはまるで正反対。到底アイドルとは思えない格好だ。

 これは、確実に何かあったな。


「吃驚した。どうしたんですか、そんなところで。」


 浩太郎は何も言わず、またソファーへと沈み込んだ。ソファーの背もたれに肘をつくと、うつ伏せに寝る浩太郎の顔付近がきれいに湿っているのが見えた。


 凹むのは良いが、このソファーは、君のような長身が寝転ぶには向いていないと思うぞ。現にほら、膝から下が飛び出ているじゃないか。


「起きてください、顔がふやけますよ。」


 浩太郎の横に回り込むと、彼の視線が一瞬こちらに向いた。切れ長で捕食者のような目が、そこに蓄えた涙と垂れ下がった眉毛のせいで子犬みたいだ。涙に濡れた下まつ毛は、涙袋の上に張り付いている。

 こりゃ相当やられてますね。


「夜ご飯、一緒に作りましょう。」


「…やだ。」


 良い提案だと思ったが、そっぽを向かれてしまった。今日のは、そっとしておくのが正解かもしれない。


 仕方ないので、麦茶を注いだコップを彼の横に置いてから、餡作りを始めた。食材を刻む間、数回ムクリと起き上がってコップに手を伸ばす彼の姿が見えた。

 生きる気力はあるようで何より。

 そんな彼を横目に、餡を詰め込んだボウルと水、そして皮を居間のテーブルに並べ、果てしない作業に取り掛かった。


「…なに、それ。」

「何って、ギョーザです。」


「…」


 無言でソファーから離れ、ボウルの中を覗いている。そんなに珍しいものではないだろうに。


「僕も作る。」


「なら、手を洗ってきてください。」


 ドタバタと音を立てながら、洗面台に消えていった。

 キッチンで洗えば良いものを、頭が回っていないようだ。

 少しして、髪をクリップでまとめ、洗った手を汚さないように居間に戻ってきた。


「洗ってきた。」

「はいはい。まずは餡を、これくらい取って…」


 俺の言う手順通りに餃子を包む浩太郎は、まるで子供のようだった。目じりがうっすらと赤くなっている。後で冷やしタオルを当てなければ。


「今日は大葉を入れました。食べたくなったので。」

「ふふ、いいね。僕、大葉好きだよ。」


 ええ、知ってますとも。

 口には出さなかった。ここでまた機嫌を悪くされては、堪ったもんじゃない。

 少しずつ戻ってきた笑顔と口数に、どこか安心した。やはり浩太郎はそうじゃないと。


「小説、どうだった?」


「…まあまあです。」


「そう。僕はねー、最悪だよ。」

「そうでしたか。」

「なんだよ、聞いてくれないの?」

「聞いてほしいんですか?」


 浩太郎はフフッと笑った。無理に上げた口角に、彼の感情が全て乗っていた。どうも俺は、この表情に弱い気がする。


「やっぱ、無理あるよね。僕がオレサマキャラなんて。」

「そうですか? 似合ってると、思いますよ。」

「あー、絶対思ってないやつ。」

「思ってますとも。」


 浩太郎は、仕事の話をすることはなかった。聞いて欲しいのか、欲しくないのか、よく分からない奴だ。そうこうしているうちに、全ての餃子を包み終えていた。


「餡、ぴったりだったね。」

「計算しましたから。」


 無駄遣いと節約の間を取った結果、スーパーで十分ほどスマホに向き合って計算する時間が生まれてしまった。精肉コーナーでの恥ずかしさと言ったら、思い出したくもない。


「全部焼きます?」


 五十個ほど作っただろうか。最初はアルミホイルの上に並べていたが、量が多くなるにつれて適当に山盛りにしてしまった。冷凍保存でもするかと思って冷蔵庫上の収納を確認すると、フリーザパックを切らしていた。

 しまった、さっき買うか迷ってたヤツだ。買っておけばよかった。


「焼こーよ。パーッと食べたい気分。」


 ソファーに座る彼の顔は見えなかったが、嫌なほど落ち着いた声だった。窓から差し込む赤い夕陽が、彼を包み込んで輪郭が朧げに見える。今にも消えてしまいそうな背中だった。


「…食べきってくださいね。」

「任せて!」


 勢いよく振り返った彼の顔には、また笑顔が張り付いていた。いやに眩しく見えるのは、逆光のせいにしておこう。


 ジュウウウウ…


「良いにお―い」


 フライパンに並べた餃子たちが、一斉に色を変え始めた。

 足先は冷えるが、上半身は熱気で汗ばんでいる。厚着が裏目に出たな。


「なあ、少しフライパンを…」


 着替えに行くために変わってもらいたかったのだが、彼はソファーに項垂れて寝息を立てていた。

 隙あらば寝やがって。


 急いで着替えた後、餃子を焼き続けること数十分。冷めては勿体ないと浩太郎を起こそうとしたが、あまりにも気持ちよく眠っていたためそっとしておいた。大皿三つに綺麗に並べ焼いた餃子を盛り付け、居間に運ぶ。

 匂いで起きるかと思ったが、よほど疲れているらしい。


「…できましたよ、浩太郎。」

「んー? …わあ、良い香り!」


 呆れるほど寝起きが良い。羨ましい限りだ。飛び起きた浩太郎は、手を洗うついでに二人分の箸を持って来てくれた。キッチンで手を洗えるほどの思考力は戻って来たようだ。


「いっただきまーす!」

「頂きます。」


 片栗粉を溶いて焼いた餃子には、申し分ないほどパリパリの羽が映えていた。対照的に皮はもっちりしていて、中からは少しだけ入れた肉の汁が零れてくる。大葉を入れたのは正解だった。季節外れではあるが、さっぱりとした大葉と肉汁が絶妙にマッチしている。

 我ながら、良い出来だと思う。


「うっま…」


 あの煩い浩太郎も、言葉を失うほどには美味いらしい。まあ、悪い気はしないな。


「今日も、頑張ったんですか?」


「え? …どうだろ。」


 少し冷めた方の餃子を頬張り、麦茶を流し込んでいだ。その動作が、何か言いたいことを我慢しているようで、思わず問いただしたくなる。


「言われちゃった、んだよね。」


 何を? という言葉を、餃子と共に呑み込んだ。


「僕ら二人は、所詮引き立て役なんだって。」


 もしかしなくとも、トラオルの話だろう。随分と歪な笑顔だった。

 それを誰かから言われた時も、こんな顔で受け止めたのだろうか。


 トラオルの一番人気、氷海(ひうみ)レオ。彼のファン数は文字通り圧倒的で、リオ、ラオと比べると十数倍にも上るとか。

 なぜそこまでに格差が生じたのかは分からないし、俺は興味もないが、やはり当事者として思うところはあるんだろう。


「どうしたら良いんだろうね。」


「…さあ。」

「さあって、冷たいなぁ」


 冷蔵庫に向かう俺の背後で、浩太郎がむくれていた。

 全く、普段は何も考えていないような顔をしておいて、存外繊細だな、高野浩太郎という男は。


「ほら、」

「えっ!」


 俺も俺だ。

 浩太郎とは長く付き合っていると自負しておきながら、コイツを励ます手立てをまだ酒しか知らないとは。聞いて呆れる。


「冷たーい!」

「ふん、俺は冷たい男らしいですから。」

「もー、伊織(いおり)の冷たいは良い冷たいだよ!」

「んだそれ、意味わからん。」


 ビールをあおった浩太郎の顔からは、わざとらしい笑みが消えていた。アルコールで機嫌が取れるなんて、単純な男だ。


「伊織は、僕推しだよね~」

「さあな。」

「んだよ、やっぱ冷たいじゃん!」


 いつの間にか、餃子を盛った皿が二つ空いていた。

 ほぼコイツが食べたようだが、太っても知らんぞ。


「俺は、高野浩太郎しか知りませんから。」


 どうやら俺にも酔いが回っているらしい。柄にもないことを口にした。

 浩太郎の顔を見ないよう、そそくさと皿をシンクに運ぶ。後ろでギャーギャーと何かわめいているが、ここは聞こえないふりだ。


「んふふ、ありがとーね。」


 居間に戻った俺に、浩太郎が溢した。どうしてコイツは酔うとすぐに感謝を伝えたがるんだろうか。緩み切った顔にイラっとして、濡らしてきた手ぬぐいを奴の目元に叩き付けた。浩太郎は相変わらず口角を上げている。


「僕も、神野伊織しか見てないからねー。」

「へーへー。」


 決して悪くないむず痒さを鎮めるように、鼻から大葉の香りが抜けた。


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