1、厳しい寒さに鍋の優しさ
「おい。なんですか、これは。」
季節は冬。
古い貸家では、満足に風をしのぐことすらできないらしい。カタカタと鳴る窓が俺の機嫌を逆撫でするようで、どうも気に食わん。昨年の夏から壊れたエアコンでは暖を取ることも叶わず、年々高騰する灯油を買う気にもなれない。先ほどから、着込んだ裏起毛が肌に触れて、妙に落ち着かない。
俺を苛立たせるのは何もそれだけではなかった。この男―高野浩太郎のだらしない姿も、先ほどからひどく癪にさわる。
「何って、…靴下だよ。」
炬燵から出た無駄に良い顔が、俺を軽くあしらおうとしているようだった。使用済みの衣類は洗濯カゴに入れておけと、さんざ口にしたのに。改善する気配がない。ロングウルフの銀髪を器用に結わえ、レンズの大きい丸眼鏡を掛けた顔だけが炬燵からのぞく。かなり人を選ぶファッションだろうに、なかなかどうして似合っている。今は、奴のそんなところすらも憎らしかった。
「片付けてください。」
「今忙しいー。」
俺から視線を外し、スマホを構い始めた。最新より二代ほど前の機種だが、俺よりかははるかに新しい。何なら俺は最近新しく買ったものなのに、金が無いから古い機種しか買えなかった。いつもくだらないマウントを取ってくるのを思い出し、余計に腹が立った。
「ちょっと、なにその持ち方!」
「汚いものを持つ持ち方です。」
「汚くないし!」
「汚いし臭いです。」
「臭くなーい!」
こんなやり取りも何回目だろうか。毎回毎回、我ながらよく飽きないなと感心してしまう。両者とも黙って睨みつけること数十秒。自分に非があると自覚している浩太郎の目が泳ぎ始めてきた。
―ビビビビビ
「はーい!」
冷戦の幕を静かに下ろしたのは、不意に鳴ったインターホンだった。これ幸いと言わんばかりに、浩太郎がドアに飛びつく。今日も逃れやがった。
…いやしかし、今日は来客の予定もなかったはずだが。
「伊織、見て見て!」
数分後、浩太郎によって居間に運ばれたのは、雑に開けられた段ボール。ガムテープで丁寧に梱包されていたようだが、彼の手によって開け口はボロボロだった。カッターナイフならここにあると言うのに、なぜそう乱暴に開けたがるのだろうか。
「…おや」
彼に言われるがまま段ボールの中を覗くと、そこには野菜がぎっしり詰まっていた。なるほど、コイツが喜ぶのも当然だ。
「仕舞ってくるねー」
「ええ。」
冷蔵庫に向かう彼の後ろに付いて行き、冷蔵庫の中を覗き込む。使用するのは三回目のパックから抽出した薄い麦茶に、塩やケチャップ、マヨネーズ等定番の調味料。そして少しの酒類。冷蔵庫の中身はこれだけ、…酒?
「あなた…」
「んー? 痛たたっ!」
野菜を丁寧に仕舞い込む浩太郎の頭を鷲掴む。しゃがんで冷蔵庫の最下段に気を取られていた彼には、状況が掴めていないようだった。
「また酒を買ってきましたね、ただでさえ金が無いと言うのに。」
「痛っ、痛いよー! 良いじゃん、こないだ僕頑張ったんだもん!」
「なにが『もん』ですか、気色悪い。」
彼が俺の腕を掴み、立ち上がった。彼の身体で、冷蔵庫の明かりが遮られる。俺の腕を掴んだその手を、今度は俺の頭に乗せた。コイツはどうも、人をチビ扱いする性質らしい。
「まーまー。よし、今日はお鍋にしよ!」
なに、聞き捨てならないぞ。
浩太郎はキッチンの下の収納から土鍋を取り出していた。先ほどから家に入り込む冷たい風が、一気に食欲を増加させる。
なんだ、すきま風も悪くないじゃないか。
「ふふ、分かりやすいなー、伊織ってば。」
「ふん。…仕事、片付けてきます。」
趣味の悪いエプロンを着けた浩太郎を置き去りに、奥の自室に閉じこもった。仕事という仕事は無いが、あの生ぬるい顔を向けられるとどうも落ち着かない。
パソコンを開き、いくつかの制作途中のファイルを漁る。そこにあるのは、十ページほど書いてそのままになっている作品たちばかり。どれもいまいちピンとこない。彼には悪いが、もういっそ、新しいものに手を出すべきか…
ピロンッ
Wordの新規作成にカーソルを当てたとき、丁度メールが届いた。
誰だ…いや、相手は分かり切っている。
『新作の進捗状況について』
タイトルから嫌な感じだ。差出人は思った通り、一瀬大樹。俺の担当者。メールの内容は、要は「原稿どうなってますか」。一瀬サンは丁寧かつ弱気な人であるが故に、毎回強い言い方はしてこない。がしかし、担当編集という立場ならもう少し上からでもいいと思う。そうすれば俺のような者に舐められなくなる。
扉の向こうから、味噌の香りが漂ってきた。今日の鍋は味噌味か。いいチョイスじゃないか。先ほどから包丁の音が聞こえなくなったところを思うに、完成は近いんだろう。
…さて、どうしたものか。現時点で手を付けている作品は三つ。どれも世に出すには恥ずかしい出来に感じる。ファイルを開いては閉じ、開いては閉じを繰り返すこと数十回。俺の頭と腹は、既に限界を迎えそうだった。
「伊織ー、ごはーん!」
「っはい!」
勢いよくドアを開けると、居間には味噌の香りが充満していた。暖かさを感じさせる味噌と、時折吹き込む北風が妙に合っている。不思議と苛立ちはなかった。
「お米なかった! さ、召し上がれー。」
お玉とお椀を両手に、エプロンを外した浩太郎が炬燵に滑り込んだ。鍋を挟んで俺も座り、中を覗き込む。
「今日は最初からラーメン入れてみたんだー。早く食べないと伸びちゃうよ。」
白い土鍋の中は、茶色のちぢれ麵が半分を占めていた。横には味の染みていそうな豆腐に大切りの白菜、ネギ、油揚げに、彩りを増す人参。当たり前に、肉は入っていない。
「豪華ですね。」
「でしょ? いただきまーす。」
「頂きます。」
お椀に白菜とネギ、そしてラーメンを盛った。俺はネギが大好物だが、浩太郎はそうではなかったはず。こうして入れてくれるのはありがたいことだ。
「…ん?」
これ、味噌味か?
一口食べて、違和感があった。味噌味と片付けるにはまろやかでコクがある。味噌を変えたのか? いや、なにか混ぜた…?
「ふふ、伊織、真剣すぎ。」
笑う浩太郎は、お玉で鍋の底をかき混ぜた。小さな黄色の塊が、彼によって掬い上げられた。
「バター、入れたんだ。」
「ああ、なるほど。」
そうか、バターか。どうりで。
「…美味い。」
浩太郎は満足げに笑っていた。これまた癪にさわる顔ではあるが、この鍋に免じて見逃してやろう。それからしばらく、俺らは鍋に向き合っていた。米と卵を入れて雑炊にしたいが、肝心の米を一週間程前に切らしてしまった。当然、買う余裕があるわけもない。コイツが酒を買わなければ、買えたかもしれないのに―
「ん、どうしました?」
恨みの念を込めて彼を見ると、テレビと時計に視線を送りながらソワソワしていた。リモコンが欲しいのだろうか。
「リモコンなら、あなたの方が近いですよ。ほらソファーに―」
テレビのリモコンは、俺の右に置かれたソファーの端にあった。テレビに向かって右側の、浩太郎に近い方に置いてある。にしても、珍しい。食事中は滅多にテレビを見ないのに。というか、炬燵が手放せなくなった今、電気代を節約するためにテレビを付けないようにしたんだった。
「…付けて」
「はあ?」
赤らめた頬を曝け出しながら、リモコンを手渡してきた。何なんだ、気色悪い。自分で付ければ良いものを。
「…チャンネルは?」
聞きながらテレビを付けたところ、見知った顔がでかでかと映し出された。音楽番組、だろうか。有名なお笑い芸人が司会を務めている。
「おや、テレビ出てたんですね。」
「…うん、ふふ。」
照れくさそうに鍋の汁を啜っていた。
テレビに映っているのは、駆け出し中の若手アイドル、『Triqual.』。去年くらいから話題に上がるようになった王道のアイドルユニットで、キレのあるダンスと歌唱力の高さが評価されている。三人組で、グループ内での人気格差がエグいと、別の意味でも話題になっていた記憶がある。
『トラオルの三番手、衣泉ラオだよ~!』
『ハハハハッ』
『ツッコミずらいわ!』
ベージュの髪を揺らしながら、可愛らしい男の子が言った。もはや自虐ネタと化しているのか、ソレは。その子の隣で、見たこともない顔で座っているのがこの男、高野浩太郎。
『トラオルの二番手、鷹山リオだ。』
「ふっ」
「あ、笑うなよー。」
あまりにも現実とかけ離れている。こののんびり屋の浩太郎が、世間では俺様系(笑)の鷹山リオとは。現実とは残酷なモノだな。
『おい、この流れ言いにくいよ、もう。』
「どうだったんですか?」
一番人気のメンバー、氷海レオの自己紹介もそこそこに、テレビの音量を下げた。会ったことはないが、どうもコイツはいけ好かない。別にイケメンへの僻みではない。なぜなら俺はそれ以上のイケメンと同居しているからだ。
「…ん、まあまあかな。やっぱレオの独壇場って感じ?」
「そうですか。」
目の前に座る高野浩太郎は、力のない笑みを浮かべた。コイツのこの顔を見ると、どうも調子が狂う。重い腰を上げて、冷蔵庫に向かった。浩太郎が酒を飲むときは、決まってこういう日。酒に弱いから、芸能人だから、外じゃ気軽に飲めないと溢したこともあったか。
「確かに、頑張ったんですね。今日は飲みましょう。」
「うん!」
カシュッと軽い音に紛れて、アルコールの匂いが漂う。今日の味の濃い鍋には、酒が良く合うだろう。俺も明日は用事がないし、久しぶりに付き合ってやろうじゃないか。
「そうだ、浩太郎のご両親にお礼を言わなければ。」
「え、どうして?」
ビールを一口飲んでほろ酔い状態の浩太郎が言った。口の周りには器用に泡を蓄えているが、一口目からそんなになるか?
「どうしてって、お野菜こんなに頂いたんですから。」
「ウチじゃないよぉ」
えびす顔の浩太郎を前に、嫌な予感がした。浩太郎は「僕の両親、僕に興味ないしー」と続けている。そうだ、なぜ忘れていた。
急いでキッチンに向かい、ボロボロの段ボールを確認した。辛うじて読めた宛名は『神野雄二』。その文字列に、寒気が走った。
「親父か…」
油断していた。まだ、諦めていないのだろうか。あれから何年経ったと思っている。本当に、勝手な奴…
「伊織―? どしたの?」
能天気な浩太郎の声で、身体に熱が戻った気がした。そうだ、食べちまったもんは仕方ない。知らないフリでもしておこう。
「なんでもない。…おい、俺の分まで飲まないで下さいよ。」
「んふふ、え~?」
だめだ、完全に酔っぱらってる。
「もう寝てください、ベッドまで連れて行きますから。」
俺の部屋とは反対の扉を開け、奥のベッドに浩太郎を放り投げた。ビール一本でここまでなるとは。キャラ崩壊を阻止するためにも、絶対外では飲まないで欲しい。…そう言えば、他のメンバーは知っているのだろうか。本当の浩太郎を。
「伊織ぃ、ありがと…」
寝言なのかも怪しい言葉を放つと、小さな寝息が聞こえてきた。酔って出る言葉がそれとは、恥ずかしい奴め。
何とか浩太郎を寝かしつけ、少し温もりの残った居間に戻って、食器をキッチンに運んだ。鍋いっぱいに入っていた具材たちが、綺麗になくなっている。少し食べ過ぎたかもしれない。痛いほど冷たい水で食器を洗いながらも、身体は暖かいままだった。時刻はそろそろ零時を回る。いつもより少し早いが、俺も寝るか。
部屋に戻ると、暗闇の中パソコンの画面が光っていた。さっきシャットダウンするのを忘れていたようだ。画面の右端には、新規メールを知らせる通知が一件。そうだ、一瀬サンに返信するのを失念していた。
『進捗いかがでしょう』
メールのタイトルから、ただならぬ圧を感じる。これに関しては只々申し訳ない。
椅子に座り、しばらくパソコンに向き合った。新規作成でまっさらな文書を表示する。タイトルは、そうだな…。
『日々生々活々』なんてどうだろう。
タイトルとあらすじを本文に書き、一瀬サンに送信した。これで心置きなく眠れる。
冷たい布団に潜り込み、電気を消した。
―これは、売れないアイドルと一発屋の小説家の二人による、現実逃避の日常のお話。




