3 龍
緑金色の大蛇の横腹がうねり、三階建ての建物の角を抉った。
「おい、またぶつかったぞ!」
長い尻尾の先端の針山のような膨らみが、更にその建物の土台を削り、一気に崩れて瓦礫になった。
「わたしの願いは、サルームの住人を追い出すことだ! 街を壊すことじゃない!」
サリマは緑色のハブルを目深に被って顔を隠していた。怒りの声は、彼が跨る巨大な大蛇、解放した魔神の正体である〈龍〉に向けられたものだ。
「道が狭いから体が当たっただけだ。細かいことを言うな」
低い声が龍の冷たい背中から伝わってきた。その後で、
「この街は魔神サムエル様のものだ! 死にたくなかったら、今すぐ街から出ていけ!」
頭が割れるかと思えるほどの轟音が響き渡る。怒鳴っているのは龍だが、台詞を考えたのはサリマだ。恐れる対象には呼び名が必要だと考え、『サムエル』という仮の名を付けた。異国の神話に出て来る巨人の名だが、龍は気に入ったようで、世界を滅ぼす時もこの名を使うそうだ。
「なぜ、この願いにした? 洪水を防ぎたいなら、乾季のうちにダムの水を流せばいい」
サリマの後ろで龍に跨るアシュタルテが言った。サリマの指示で、彼女も黒いハブルを深く被っている。
「ダムを奪えば、取り返すためにシェルバは全力で戦うだろう。ダムの水を大量に放流すれば、小麦が全滅するのだから、シェルバにとっては死活問題だ。そして戦えば多くの犠牲者が出る」
サリマの返答は自分を納得させるためでもあった。予言は答えを教えてはくれない。災厄にどのように対応するかは、自分で考えるしかないのだ。
「放流しても時期が変わるだけで洪水は避けられない。雨水が多すぎるのだ。できることは、サルームの人々を避難させることだけだ」
洪水の起こらない未来は〈時の狭間〉で視た幻影の中には無かった。だから洪水は避けられないと断定したが、自分の行動が正しいのか自信があるわけではない。
「では、なぜ今まで待っていた? タラム・ジャラムには七日前に着いた。人を追い出すなら、もっと早く始めればいい」
「魔神が街を支配するというのは、ただの脅しだからな。脅しと勘付かれれば人々は戻ってきてしまう。洪水が起こる直前の、今がいい」
「おれは本当に壊してもいいがな。住めなくなれば、人は去るだろう」
龍が言葉を挟む。小声のつもりのようだが、耳もとで怒鳴られたような大声だ。
「街は壊さない、と言ったぞ! 洪水もやがて収まる。シャール様がサルームを再建し、シェルバは生き残るだろう」
「おまえはアズラッドの人間だろう?」
「国など、どうでもいいんだ」
サルームの中心に近付き、門内の市場に入り込むと、逃げ惑う人々が増えた。
「この街は魔神サムエル様のものだ! 死にたくなかったら……」
再び轟音が響き、龍の体が商店を壊す。逃げる人波に押されて転んだ老女を、気付かぬ群衆が踏みつける。
追い立てた群衆の背後から彼女に気付いたサリマは、
「止まってくれ!」
龍に呼びかけたが、
「急には止まれない」
めまぐるしく飛びまわる龍は、あっという間に老女がいた路地から遠ざかってしまう。
サリマは強い口調で言った。
「この際、建物は壊してもいい! 人は傷つけるな!」
「放流する!」
シャールは警備隊と先遣隊を二つに分けて、それぞれを放流口へ向かわせた。穴の開いたダムは、そこから崩れるかもしれない。できるだけ貯水量を減らさなければならない。
「おれは、あちらの様子を見てこよう」
アズベハが手近の放流口へ行く一団を追ったので、シャールはもう一方の放流口を見ることにした。
そちらの放流口へ行くには川を渡らなければならないが、竜駝は川を恐れるようだ。嫌がるドニの胸を叩き、なんとか渡らせた。徒歩の警備兵は膝下まで水に漬かっていた。
(これで今年の小麦は全滅だ。ダムが壊れなければ、判断を誤った無能な君主として殺されるかもしれない。だがダムが壊れれば、サルームは……)
シャールは虚ろな気持ちで、トボトボとドニを進ませた。作業は警備隊が把握している。彼女が急ぐ必要はない。
(食料をかき集めなければ……値が上がる前にアズラッドで買い占める。船を雇い、クシュロアやペルシアまで行かせる……)
シャールは、ハッと我に返った。
(アズベハを拘束しなければ!)
アズラッド王に知られたら、この機会を逃さず攻めてくるかもしれない。
そこまでしなくても、シェルバの小麦が入らない、と知ったら、アズラッドの食料を売らなくなる。
「アズベハ!」
思わず声が出る。
顔を上げると、アズベハが竜駝の上からこちらを見ていた。笑みを浮かべて、鷹揚に頷く。
(だめだ……アズベハは強い)
リッダの兵でも拘束できないだろう。それにリッダの兵はアズベハと親しい。シャールの命令には従わないかもしれない。
放流口を開けるのに、少し時間がかかった。
ダムの水が経験のない高さに達し、その重みが放流口の石蓋を圧迫しているのだ。だが警備兵だけでなく、リッダ兵も滑車の引き手に加わると、ようやく石蓋が動いた。石蓋と放流口の隙間から吹き出す水の勢いは凄まじく、近くで見物していたリッダの男を竜駝ごと撥ね飛ばした。
怯えて羽をバタつかせる竜駝たちの鳴き声と、それを宥める男たちの声で騒然となる。
ウゴルゲーッ!
ドニがひと声大きく叫ぶと、他の竜駝たちの鳴き声がピタリと止んだ。
「おまえ……竜駝たちの親玉になってたのか!」
ドニは、リッダの飼育場の中での序列争いに勝っていたらしい。シャールを乗せたドニが岩山の方へ退避すると、他の竜駝たちもぞろぞろと従った。
大蛇はサルームの路地から路地へ飛び回り、建物を壊し、住民を恐怖で追い立てていった。
街を巡回していた兵士が駱駝に乗って追ってくることもあったが、龍の速さは駱駝の比ではない。
勇敢な兵士が前を塞いだこともあったが、龍のたてがみに剣を跳ね返され、その直後アシュタルテに胸を蹴り飛ばされて遠ざかる。兵士が龍の尻尾の針に刺されるのを防いだのだ。
「この街は魔神サムエル様の……」
龍の声が急に止まる。
「どうした?」
サリマが尋ねると、少し間を開けて、
「……飽きた」
サリマの股下の大きな体躯から、声が直接響いてくる。
「飽きただって? 三千年も封印されていたお前が?」
「自由になったので、かえって、これ以上意に沿わぬことをするのが耐えられないのだ」
「大人しくアシュタルテの剣になっていたじゃないか!」
「剣になっている間は半分寝ているようなもので、存外気楽だった。食べて殺すだけでいいし」
「契約を破るのか?」
「約束は守る。半日同じ台詞を言い続けることに飽きただけだ。できないこともある、と言ったろう? このまま飛ぶから、おまえが叫べ」
仕方なくサリマが、龍に代わって叫ぶ。
「この街は魔神サムエル様のものだ!」
だがサリマの声はやや高く、龍より声量も迫力もだいぶ落ちる。人々は龍の姿には驚くが、気付くのが遅く、逃げる間もなく呆然としている。
「なんだ、その弱々しい声は! おれと交渉した時の迫力はどうした!」
サリマは声を張り上げ続けたが、だんだん掠れてきてしまった。
後ろを振り返ると、アシュタルテと目が合った。
「わたしが代ろうか?」
サリマは驚いた。何となく、アシュタルテはそういうことはしない、と思っていたのだ。
「いいのか?」
「声を出すだけなら、わたしにもできる」
だがアシュタルテの一声を聞いた途端、サリマは意識が遠くなった。
「何だこの声は! 頭に突き刺さる!」
龍は大きく蛇行して、アシュタルテを大厦の壁に叩きつけようとした。
アシュタルテはサリマを抱えて一瞬宙に飛び、龍と大厦の衝突をやり過ごした後、再びその背に戻った。
「死にたくなかったら、今すぐ街から出ていけ!」
龍に言われたせいか、アシュタルテは声量を抑えて叫んだ。それでも、龍に負けない大声だ。
だが何か、おかしい。逃げる人より、建物に隠れたり、閉じこもる人が多い。
「何と言うか……冷静なんだよな」
「そうか、声が大きくても切迫感がないから、人が慌てないんだ」
龍とサリマが呟く。
「どうすれば切迫感が出るのか?」
アシュタルテに問われて、サリマが答えた。
「もっと速く言えばいいんじゃないかな……」
だが、それは聞き取り辛くなっただけだった。
「もっと、抑揚を付ければ……」
だが不自然な抑揚は不快で、龍が怒鳴った。
「止めろ! 感情がこもってないんだよ、感情が!」
「感情がないのだから仕方がない」
「魔神よ、頼む。今日の日没まででいいから」
サリマの懇願に、龍は答えない。だがしばらくすると、また怒鳴り始めた。
「この街は魔神サムエル様のものだ!」




