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アシュタルテと砂漠の女王  作者: ヤマモト マルタ
第五章 帰還
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3 龍

 緑金色の大蛇の横腹がうねり、三階建ての建物の角をえぐった。


「おい、またぶつかったぞ!」


 長い尻尾の先端の針山のような膨らみが、更にその建物の土台を削り、一気に崩れて瓦礫になった。


「わたしの願いは、サルームの住人を追い出すことだ! 街を壊すことじゃない!」


 サリマは緑色のハブルを目深に被って顔を隠していた。怒りの声は、彼がまたがる巨大な大蛇、解放した魔神ジンの正体である〈ロン〉に向けられたものだ。


「道が狭いから体が当たっただけだ。細かいことを言うな」


 低い声がロンの冷たい背中から伝わってきた。その後で、


「この街は魔神ジンサムエル様のものだ! 死にたくなかったら、今すぐ街から出ていけ!」


 頭が割れるかと思えるほどの轟音が響き渡る。怒鳴っているのはロンだが、台詞せりふを考えたのはサリマだ。恐れる対象には呼び名が必要だと考え、『サムエル』という仮の名を付けた。異国の神話に出て来る巨人の名だが、ロンは気に入ったようで、世界を滅ぼす時もこの名を使うそうだ。


「なぜ、この願いにした? 洪水を防ぎたいなら、乾季のうちにダムの水を流せばいい」


 サリマの後ろでロンまたがるアシュタルテが言った。サリマの指示で、彼女も黒いハブルを深く被っている。


「ダムを奪えば、取り返すためにシェルバは全力で戦うだろう。ダムの水を大量に放流すれば、小麦が全滅するのだから、シェルバにとっては死活問題だ。そして戦えば多くの犠牲者が出る」


 サリマの返答は自分を納得させるためでもあった。予言は答えを教えてはくれない。災厄にどのように対応するかは、自分で考えるしかないのだ。


「放流しても時期が変わるだけで洪水は避けられない。雨水が多すぎるのだ。できることは、サルームの人々を避難させることだけだ」


 洪水の起こらない未来は〈時の狭間はざま〉で視た幻影ビジョンの中には無かった。だから洪水は避けられないと断定したが、自分の行動が正しいのか自信があるわけではない。


「では、なぜ今まで待っていた? タラム・ジャラムには七日前に着いた。人を追い出すなら、もっと早く始めればいい」


魔神ジンが街を支配するというのは、ただの脅しだからな。脅しと勘付かれれば人々は戻ってきてしまう。洪水が起こる直前の、今がいい」


「おれは本当に壊してもいいがな。住めなくなれば、人は去るだろう」


 ロンが言葉を挟む。小声のつもりのようだが、耳もとで怒鳴られたような大声だ。


「街は壊さない、と言ったぞ! 洪水もやがて収まる。シャール様がサルームを再建し、シェルバは生き残るだろう」


「おまえはアズラッドの人間だろう?」


「国など、どうでもいいんだ」


 サルームの中心に近付き、門内の市場スークに入り込むと、逃げ惑う人々が増えた。


「この街は魔神ジンサムエル様のものだ! 死にたくなかったら……」


 再び轟音が響き、ロンの体が商店を壊す。逃げる人波に押されて転んだ老女を、気付かぬ群衆が踏みつける。

 追い立てた群衆の背後から彼女に気付いたサリマは、


「止まってくれ!」

 ロンに呼びかけたが、


「急には止まれない」


 めまぐるしく飛びまわるロンは、あっという間に老女がいた路地から遠ざかってしまう。


 サリマは強い口調で言った。

「この際、建物は壊してもいい! 人は傷つけるな!」





「放流する!」


 シャールは警備隊と先遣隊を二つに分けて、それぞれを放流口へ向かわせた。穴の開いたダムは、そこから崩れるかもしれない。できるだけ貯水量を減らさなければならない。


「おれは、あちらの様子を見てこよう」


 アズベハが手近の放流口へ行く一団を追ったので、シャールはもう一方の放流口を見ることにした。


 そちらの放流口へ行くには川を渡らなければならないが、竜駝(ティンタム)は川を恐れるようだ。嫌がるドニの胸を叩き、なんとか渡らせた。徒歩の警備兵は膝下まで水に漬かっていた。


(これで今年の小麦は全滅だ。ダムが壊れなければ、判断を誤った無能な君主として殺されるかもしれない。だがダムが壊れれば、サルームは……)


 シャールは虚ろな気持ちで、トボトボとドニを進ませた。作業は警備隊が把握している。彼女が急ぐ必要はない。


(食料をかき集めなければ……値が上がる前にアズラッドで買い占める。船を雇い、クシュロアやペルシアまで行かせる……)


 シャールは、ハッと我に返った。

(アズベハを拘束しなければ!)


 アズラッド王に知られたら、この機会を逃さず攻めてくるかもしれない。

 そこまでしなくても、シェルバの小麦が入らない、と知ったら、アズラッドの食料を売らなくなる。


「アズベハ!」


 思わず声が出る。

 顔を上げると、アズベハが竜駝ティンタムの上からこちらを見ていた。笑みを浮かべて、鷹揚おうよううなずく。


(だめだ……アズベハは強い)


 リッダの兵でも拘束できないだろう。それにリッダの兵はアズベハと親しい。シャールの命令には従わないかもしれない。


 放流口を開けるのに、少し時間がかかった。


 ダムの水が経験のない高さに達し、その重みが放流口の石蓋を圧迫しているのだ。だが警備兵だけでなく、リッダ兵も滑車の引き手に加わると、ようやく石蓋が動いた。石蓋と放流口の隙間から吹き出す水の勢いは凄まじく、近くで見物していたリッダの男を竜駝ティンタムごと撥ね飛ばした。


 怯えて羽をバタつかせる竜駝ティンタムたちの鳴き声と、それをなだめる男たちの声で騒然となる。


 ウゴルゲーッ!


 ドニがひと声大きく叫ぶと、他の竜駝ティンタムたちの鳴き声がピタリと止んだ。


「おまえ……竜駝ティンタムたちの親玉になってたのか!」


 ドニは、リッダの飼育場の中での序列争いに勝っていたらしい。シャールを乗せたドニが岩山の方へ退避すると、他の竜駝ティンタムたちもぞろぞろと従った。





 大蛇はサルームの路地から路地へ飛び回り、建物を壊し、住民を恐怖で追い立てていった。

 街を巡回していた兵士が駱駝らくだに乗って追ってくることもあったが、ロンの速さは駱駝らくだの比ではない。


 勇敢な兵士が前を塞いだこともあったが、ロンのたてがみに剣を跳ね返され、その直後アシュタルテに胸を蹴り飛ばされて遠ざかる。兵士がロンの尻尾の針に刺されるのを防いだのだ。


「この街は魔神ジンサムエル様の……」


 ロンの声が急に止まる。


「どうした?」


 サリマが尋ねると、少し間を開けて、


「……飽きた」


 サリマの股下の大きな体躯から、声が直接響いてくる。


「飽きただって? 三千年も封印されていたお前が?」


「自由になったので、かえって、これ以上意に沿わぬことをするのが耐えられないのだ」


「大人しくアシュタルテの剣になっていたじゃないか!」


「剣になっている間は半分寝ているようなもので、存外気楽だった。食べて殺すだけでいいし」


「契約を破るのか?」


「約束は守る。半日同じ台詞せりふを言い続けることに飽きただけだ。できないこともある、と言ったろう? このまま飛ぶから、おまえが叫べ」


 仕方なくサリマが、ロンに代わって叫ぶ。


「この街は魔神ジンサムエル様のものだ!」


 だがサリマの声はやや高く、ロンより声量も迫力もだいぶ落ちる。人々はロンの姿には驚くが、気付くのが遅く、逃げる間もなく呆然としている。


「なんだ、その弱々しい声は! おれと交渉した時の迫力はどうした!」


 サリマは声を張り上げ続けたが、だんだんかすれてきてしまった。

 後ろを振り返ると、アシュタルテと目が合った。


「わたしが代ろうか?」


 サリマは驚いた。何となく、アシュタルテはそういうことはしない、と思っていたのだ。


「いいのか?」


「声を出すだけなら、わたしにもできる」


 だがアシュタルテの一声を聞いた途端、サリマは意識が遠くなった。


「何だこの声は! 頭に突き刺さる!」


 ロンは大きく蛇行して、アシュタルテを大厦たいかの壁に叩きつけようとした。


 アシュタルテはサリマを抱えて一瞬宙に飛び、ロン大厦たいかの衝突をやり過ごした後、再びその背に戻った。


「死にたくなかったら、今すぐ街から出ていけ!」


 ロンに言われたせいか、アシュタルテは声量を抑えて叫んだ。それでも、ロンに負けない大声だ。


 だが何か、おかしい。逃げる人より、建物に隠れたり、閉じこもる人が多い。


「何と言うか……冷静なんだよな」

「そうか、声が大きくても切迫感がないから、人が慌てないんだ」


 ロンとサリマがつぶやく。


「どうすれば切迫感が出るのか?」


 アシュタルテに問われて、サリマが答えた。


「もっと速く言えばいいんじゃないかな……」


 だが、それは聞き取り辛くなっただけだった。


「もっと、抑揚を付ければ……」


 だが不自然な抑揚は不快で、ロンが怒鳴った。


「止めろ! 感情がこもってないんだよ、感情が!」


「感情がないのだから仕方がない」


魔神ジンよ、頼む。今日の日没まででいいから」


 サリマの懇願に、ロンは答えない。だがしばらくすると、また怒鳴り始めた。


「この街は魔神ジンサムエル様のものだ!」

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