2 復活
「ムシュフシュを貸してくれ」
アシュタルテは金色の腕輪を外し、サリマに手渡した。
二人がいるのはタラム・ジャラムの山頂だ。晴れていれば明るい黄土色の岩山だが、今は雨に打たれて深緋色に見える。長い稜線の突端からアズラ砂漠を見下ろすと、右手にサルームの街が望めた。サルームに流れ込む細い川は、タラム・ジャラムに寄り添って遡り、やがてワディ・アルマカのダムに至る。
川上を振り返ったサリマは、この砂漠の国に相応しからぬ巨大な紺青の湖を、改めて賛嘆の思いで眺めた。
ダムがなければ、ここに湖はない。雨季には濁流の大河となっても、乾季になれば消えてしまう涸れ川の一つにすぎなかったはずだ。シェルバ新王国の創建期に建設されたと言われるダムの、高度な土木技術こそ驚嘆に値する。
「――よ、わたしの願いを叶えてもらう時が来た!」
山頂の岩の上に腕輪を置き、サリマは〈真の名〉を使って魔神に呼びかけた。
硬い金色の腕輪が、ぐにゃりと解けた。小さな渦を巻いて空を目指し、中空で渦は大きくなった。
渦が消えた時、そこに立ち昇っていたのは、白い蒸気を纏った緑金色の巨大な大蛇だった。太い針を連ねたようなたてがみが大きな頭を取り巻き、首の後ろに流れてギザギザの背びれと繋がっていた。短く太い角が二本。瞳のない丸い目は大きく、身体と同じ緑金色だ。
砂漠の中のシェルバ古王国の廃城で封印を解いた時と同じ姿だった。あの時、アズベハは『龍』と呼んだ。傭兵としてペルシアの更に東へまで遠征した時、神殿の柱の彫像として見たことがあるそうだ。
「さあ、おまえの願いを言え」
あの時と同じ、ガラガラと響く声で魔神が言った。
あの日、サリマは魔神を解放する条件として、次の二つを約束させた。
一つは、あの場にいた三人、サリマ、アズベハ、アシュタルテが死ぬまで、世界を滅ぼさないこと。
もう一つは、三人の願いをそれぞれ一つ叶えること。
「おれは壊すことしかできない。それでもいいなら願え」
アズベハとサリマは願いを保留した。アシュタルテだけが即答した。
「折れない剣が欲しい。形が変えられれば、なお良い」
「お主に願い事があったとは!」
驚くアズベハにアシュタルテが反論する。
「優れた武器が必要だ。これまで剣が折れて何度も危うい目にあった」
「剣の扱いが雑だからだ。愛情がない」
そうして魔神は、条件が満たされる日までアシュタルテの武器となった。
サリマが仮の名として『ムシュフシュ』と名付けた。
リッダを出発して三日、既にサルームは近い。
整備された街道は走りやすく、アズラ砂漠を横断してリッダへ行った苦労が嘘のようだ。
行軍の遅い本体から離れ、シャールは先遣隊を率いて街道を西へ外れ、ワディ・アルマカのダムへ向かった。軍の顔である国王が本軍から離れることに異論は多かったが、シャールは反対を押し切った。
どうしてもダムの状況を確認しておきたかったのだ。
「わしが副官に付こう」
アズベハと、もう一人ムダルというマドカリブ直属の部下が副官に付いた。
シャールは朱色のチャフィーブに濃紺のハブルを纏っていた。頭に巻いたドゥループは真っ白だ。腰には細身の長剣を佩いている。柄や鞘の飾りが多く実用的ではないが、自分がまともに戦えるわけがないので、それでも構わなかった。周囲に戦ってくれる者がいなくなったら、そこまでだ。
叔母のアミナが用意してくれた服は、国王シャールの復活を喧伝するのに相応しいものだった。
叔母は王家の女が使う飾り面も用意してくれたが、シャールはそれを断った。女であっても国王は顔を隠すべきではない。
これからは顔を晒し、国民の誰もが知る者になるのだ。
ダムへ続く道は意図的に細く作られ、岩山の斜面を緩やかに上っている。先遣隊は全員竜駝に騎乗していたが、二列か一列で進むしかない。
ダムが近付くにつれ、シャールの不安は増していった。
リッダからの道中、雨は降り続いた。一時的に止むことはあっても短時間で、空が晴れた時はない。
斜面の道から時々川が見おろせるが、想像していたより水流が増えている。
雨季の涸れ川のように、茶色い濁流となっている。
乾季のダムは放流口から一定の水しか流さないはずだが、雨を考慮しても、明らかに量が多すぎる。
(放流する水量を増やしているのか? だが雨が降っているのだから、反対に放流を絞るはず……)
やがてダムの威容が見えてきた。渓谷を塞ぐ暗い灰色のダムが、霧に煙って見える。
山道は上下二つに分かれ、一方はダムの上を通る道へ、もう一方はダムの下へ続いていた。先遣隊はダムの下へ向かう。
遠くからは灰色の平らな壁に見えたダムが、近くで見ると無数の石を積み上げたものであることが分かる。多くが目の粗い白黒斑の石で、一つ一つの石が角張っている。長い年月が経っているであろうに、丸みを帯びた石はない。
隙間を埋める漆喰は茶色く変色しているが、それでも石よりは白い。場所によって漆喰の白さが異なるのは、補修の時期の違いだ。
「霧ではないな」
ダムの底から百キュビ(約五十メートル)はありそうな壁を見上げて、騎乗のアズベハが言った。
ダムの上端の中央は、幅全体の四分の一ほどが、やや凹んでいる。
ダムの水が許容量を超えた場合に中央に誘導し、無秩序に溢れるのを防ぐための構造だが、今までそれが機能するほど水が溜まったことはないという。
だが今は、その凹みから水が溢れ、ダム中央の傾斜面を走って空中に飛び散り、飛沫となってダムを霞ませていた。
ダムの真下には滝壺ができており、そこから川が始まっている。
地面と接するダムの最下部には放流口が二つあり、巨大な石蓋を上下に滑らせて開閉する仕組みになっているが、手前の放流口は閉じていた。川を挟んだ渓谷の反対側の放流口からも流れ出す水は見えず、閉じているようだ。
おそらくジャーフィルが閉じさせたのだ。
この長雨から小麦を守るために。
たとえ裏切り者でも、政務を疎かにする男ではない。
「ということは……上から溢れた水だけで、この濁流の川を成しているのか!? 」
「何者だ? ダムに近付くな!」
放流口の横の小屋から、十人程の兵士が槍を手に駆け寄ってくる。
ダムの警備兵だ。
隊長服の男の声は大きかったが、明らかに及び腰だった。
先遣隊は五十人。しかも全員、竜駝に乗っている。
「われは国王シャール・アク・アネンだ!」
ドニに跨ったシャールが名乗ると、警備兵たちは顔を見合わせた。
「陛下は先日亡くなられた! 王の名を騙る者は死罪だぞ!」
隊長が怒鳴る。
(やはり飾り面など着けるべきではなかった。視察の時に声を掛けたのに、わたしだと気付かぬ)
「まあまあ、我々はリッダの兵だ。敵ではない。ダムの視察に来ただけだ」
そう言って、アズベハは背後の男たちを指し示した。実際、彼らはリッダの男たちで、雑多な色のドゥループと土色のハブル、背負った長剣がいかにも傭兵らしい。
戦って勝てるわけもなく、隊長は態度を決めかねているようだ。
シャールは、なるべく穏やかな声音で言った。
「三年前の今時期か、われはここに視察に来たぞ。どこを補修したのか、と問うと、おまえはあそこを指したな?」
シャールが指差した場所は、もう一つの放流口の上方だ。今は、雨とダムの水飛沫で壁面は見えづらい。
隊長の顔に驚きの表情が浮かぶ。単調な仕事の中で、王の視察は最も晴がましく、責任も問われる行事だ。顔は見られなくても、王とのやりとりを忘れるはずがない。
「ずいぶん、水が汚えなあ……」
後ろにいるムダルが呟く。
マドカリブが付けてくれた小柄な男だ。太っているわけではないが、丸みのある体型で、手足もモチモチと太い。丸顔で、目鼻も丸い。童顔で髭が無ければ少年に見えそうだ。
だが言葉を交わせば、さほど若くないことがわかる。あまり強そうには見えないので、護衛と言うより相談役あるいは監視役として選ばれたのだろう。
シャールは彼の言葉が気になった。
ダムの上端からこぼれ落ちる水は白く澄んでいる。だが、下の滝壺と川の水は茶色く濁っている。ダムの壁面を流れ落ちる水を目で追うと、ダムの半ばあたりから茶色く染まっていた。
シャールは、ぞっとして身震いした。
(まさか、あそこから水が漏れている!? )
もしダムが決壊したら……サルームの街が流されるか、水没するか。そうなったら、シェルバそのものが滅びるかもしれない。
(そんなことはあり得ない! 予言に引きずられているのだ! )
「さて、どうされる?」
隣のアズベハが尋ねる。
「千年保ったダムだぞ! 補修すればよい!」
シャールは強気で突っぱねた。
「放流口を開けられては?」
隊長が不安そうな顔で言った。だが、その結果を理解しているとは思えない。
放流口を開放すれば、ダムにかかる水の圧力は弱まる。しかし、これ以上川の水が増えれば小麦畑は水没するだろう。王といえども責任を問われる。
(ジャーフィルが命じたことにして、彼を処分するか? どうせ、わたしが王座に戻れば、生かしておくことはできぬ……)
咎めるように、ゴゴゴゴ……と地鳴りが響き、ダムと岩山全体がぶるっと震えた。
ダムの中央の茶色く汚れた場所から、勢いよく水が迸り、ダバダバと大きな音を立てて川に落ちた。




