6 夜襲
夜になると、遊牧の民の天幕の真ん中に厚い毛織の布が吊るされ、男の部屋と女の部屋に分けられた。男女分かれて眠るのだ。子供が母親と一緒に寝るのは幼児までで、ハキムとマリヤムも分けられている。
王宮では一人で寝ていたシャールにとって、雑魚寝は窮屈だったが、今では慣れてしまった。
女の部屋には、腰程の高さの三本足の燭台があり、尖った足先を砂地に深く突き刺して固定している。火を灯す部分は小さな酒杯の形で、そこに蜜蝋が詰めてあった。
男女に分かれると、ギルヒバとナディヤは、だらけた姿勢になり、その日起こった些細な出来事をネタにお喋りを楽しむのだった。隣に筒抜けだが、気にせず男たちの悪口も言う。
シャールも他愛のない会話には参加する。マリヤムの年相応の可愛い質問に答えてあげるのも楽しい。身分を偽っているので、王宮の話題はなるべく避けた。
「駱駝が唾を吐いたのを咄嗟にかわしたら、後ろのキリクに当たった」とか、「岩陰で用を足していたら、岩の反対側でもヤザンが用を足していて、『おい、ここはおれ(あたし)の場所だぞ』と同時に叫んでしまった」とか、くだらない話ほど面白かった。王宮では、そんな会話をした覚えがない。あそこでは、中身の無さそうな会話にも必ず意図があり、気が抜けなかった。
いつもはマリヤムが寝付く頃には、自分もウトウトしていたシャールだったが、その夜は眠くならず、灯りが消された後の闇を見つめていた。
(死んだはずの王が生きていては困るだろう……ジャーフィルは、わたしを殺そうとするだろうか……?)
夕方、ヤザンが門内へ行って、王宮から下された正確な布告を確認してきてくれた。それによれば、正式な王が決まるまで宰相のジャーフィルが代理の王となり、亡くなった女王の王配であるハーリルが首席大臣として補佐するという。
「いつの間に結婚されたんだ?」
国王が結婚すれば盛大な御祝いが催される。それがなかったのだから、誰もが疑問を抱くのは当然だった。
(ハーリルの権威付けのために無茶を通したな)
ジャーフィルがそこまでするということは、二人はやはり手を組んでいるのだ。
(幼いわたしを可愛がってくれたジャーフィル……わたしを王位に据えて、王の有り様について厳しく指導してきた……そんな彼が、わたしを殺そうとまでするだろうか……?)
シャールにはまだ信じたい気持ちが残っていた。
そもそも王になりたいわけではなかった。兄が全員亡くなったので、王位継承権の順で担ぎ上げられただけだ。
王になってからも楽しいと思ったことはない。誰もが恭しく頭を下げるが、実際は尊敬などしていない。誰も本音を言わず、地位や利権を求めてすり寄ろうとする。庶民に施しを与えても当たり前としか思われず、罰を与えれば恨まれる。
重責に疲れ果て、決まりきった甘い言葉を吐く見た目だけの男に夜伽をさせても、心が解放されることはなかった。愛人が増長して権威を持つのを防ぐため、彼らに心の内を晒すことはできなかった。
王ではなくなった、と聞いた時、ふわりと体が軽くなった気がした。
(このまま市井で気軽に生きるのもいい……)
控えめな花の香が、すうっと鼻に流れ込み、気持ちが和らいだ。
一気に眠気が襲ってくる。
(誰か、ラベンダーの精油の瓶でも開けたか……?)
ラベンダーの香りの後から朽ちた木の芳香が追ってくる。シャールには、それが高価な白檀であることがわかったが、遊牧の民の天幕には似つかわしくない。
(それとも、ここは王宮の休息所だったか……?)
――強烈な生臭さと刺激臭が鼻の奥を刺し、シャールは嘔吐きながら目を覚ました。
ギャッ!
短い悲鳴が間近で聞こえた。天井まで裂けた天幕の隙間から夜気と共に長い腕が差し込まれ、その手から真っ直ぐに伸びた剣が、シャールの眼前にいる何者かの頭部を貫いていた。死にゆく者のハブルが翻り、短剣を取り落とす様子が、まるで影絵のように実感がなく目の前を通り過ぎた。
バキバキと天幕の骨組みを折りながら、長い腕の持ち主アシュタルテが入ってきた。
シャールはクラクラと痛む頭を押さえつつ、自分がヤザンに抱き起こされていることに気付いた。のっぺりとしたヤザンの顔が、暗さで余計に平板に見える。
「臭い! 痛い! 何なのこれ?」
「気付け薬だ」
「ひどい臭い……いったい何?」
「まあ、竜駝のナニだよ」
(ナニって何なの……?)
そんなことが聞きたいわけではないのに、頭が働かない。
天幕の中心の支柱がアシュタルテに蹴り倒され、満点の星空が一気に視界に広がった。
痩せた月も出ており、闇に慣れた目には明るく感じられた。砂混じりの冷たい風が吹き込み、頭の中の霞も払われた気がする。
「刺客だ。囲まれている」
ヤザンの声は落ち着いている。
(あれはハドラムの眠り薬。ハーリル、やはり、わたしを殺すのか……)
シャールはヤザンの腕から離れ、立ち上がろうとしたが、片手が誰かの頭に触れた。
見ると、すぐ隣にキリクが横たわっている。薄く目を開け、うーん、と唸った。
(あれ、こいつ、何で隣で寝ているんだ?)
まさかとは思うが、肉屋の女主人の様子を思い出すと疑わしい。
「狙われる、立ってはいけない!」
ヤザンに肩を押さえられ、シャールは姿勢を低くして片膝立てで座った。
「皆は?」
「あらかた起きている」
見回すと、潰れた天幕の皮を押しのけ、同じように片膝をついているギルヒバの姿があった。両腕にハキムとマリヤムを抱いている。ナディヤの姿が見えない。
双子は目を閉じたまま頭を振っていた。泣き声とも悲鳴ともつかない声を上げ、ギルヒバの腕の中で体を捩っている。
「子供にはきつかったようだが、すぐに目を覚ますだろう」
「市場で足が付いたね! あそこで五十金貨の商いがあれば、目立つに決まってるよ!」
ギルヒバが不愉快そうに怒鳴った。
「ヤザン、数が多い。全員守ることはできないだろう」
唯一立ち姿のアシュタルテが、黒いハブルから金色の細剣を覗かせて言った。
「おれたちは自分で何とかする。あんたはシャリマさんを守ってくれ」
「それは契約とは違う」
「頼むよ、アッシュ。狙われているのは彼女なんだ」
横たわったまま、自分の頭を叩きながら顔をしかめてキリクが言った。
天幕の周囲の何もないように見えた地面がモコッと膨れ、キラリと光った。
アシュタルテが剣を振り、キンッ、と音を立てて何かが上空に弾かれた。きらめきながら落ちてきた物をアシュタルテは左手で掴み、振りかざして投げた。
悲鳴と共に地面に人が現れ、転がった。
それがきっかけになったのか、周囲の荒野に次々と人影が立ち昇った。地面と同じ色のハブルで偽装し潜んでいた数十人の刺客たちが、一斉に正体を現したのだ。
「伏せろ! 同時に来るぞ!」
ヤザンが声を張り上げる。
この国の男たちが普段使う短剣は、先端が三日月のように曲がっているが、刺客たちが投げてくる短剣は、鍔のない細長い爪のような形をしていた。
それがアシュタルテに集中する。
既に二人斃しているため、優先的に倒す相手とみなされたのだろう。
金色の剣はしなやかな鞭に変わり、アシュタルテの周囲を高速で旋回した。彼女自身は鞭よりも緩やかに回り、ハブルを膨らませた。
硬い金属音が鳴り続け、バラバラと短剣が落ちる。さすがに投げ返すことはできない。
短剣の一斉攻撃が止む。
何本かの短剣が、留め針のようにハブル超しにアシュタルテの腹や脇に突き刺さっていた。
「アシュタルテ!」
アシュタルテの傷を看ようと、シャールが上体を起こす。
「まだだ!」
その声はヤザンのものだったが、それに反応するようにキリクの体が伸びあがって、立ち上がりかけたシャールの視界を塞ぎ、頭を押さえた。
うぐ!
シャールの眼前で、キリクの体が沈む。その胸の真ん中に短剣が突き立っていた。
「キリクッ!」
叫び声は重なっていた。シャールとギルヒバの。
短剣の刺し口から血が滲んでくる。




