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関東大会では滑走順は事前に決められている。そして未央の滑走順は最終グループの一番滑走。
ちなみに、未希ちゃんは最終グループの第六滑走、つまりオオトリだ。
そして今、第三グループまでの選手たちが演技を終えた。それを見て俺は未央にそろそろだと声をかけた。
未央の様子をうかがうと、特別緊張した様子はなく意外にも平然としていた。
リンクサイドに着くと、未央はそれまで纏っていたジャージを脱ぐ。
――まるでさなぎが孵化して羽を広げるように。
鮮烈な青色の衣装に目を奪われる。
その衣装は、特注品ではなくショップで購入した量産品だが、しかし未央の魅力と掛け合わされば、その美しさは申し分なかった。
【第四グループの選手の皆さんは六分間練習を――】
――演技直前の六分間練習がいよいよ始まる。
未央はアナウンスを聞くなり、先頭を切って滑り出す。
自信の表れだろうか、最初にダブルアクセルを跳び、その後トリプルフリップを成功させると、その後ジャンプを跳ぶことはなかった。代わりにスピンやステップを念入りに確認する。
そして練習時間が終わる1分ほど前になると、こちらが声をかける前に壁際まで戻ってきて休憩をとる。
「水飲むか」
ペットボトルを差し出すと、彼女は無言でそれを受け取り少しだけ口をつけた。
そしてアナウンスが六分間練習の終了を告げ、他の五人がリンクから出ていく。
いよいよ、高橋未央だけがリンクに取り残された。
【十九番。高橋未央さん、千葉クリスタルパレス】
「ねぇ、わたしと未希だったら、わたしのほうが可愛いんですよね」
彼女は不敵に笑ってそう言った。一週間前、あれだけ緊張していたのが嘘のようだった。
「だったら、この試合、わたしが勝つってことですよね」
あたり前だが、フィギュアスケートはアイドルのコンサートじゃない。別に可愛いことは、試合の結果には結びつかない。理論として破綻している。
でも。
試合になれば、根拠のない自信って奴も案外役に立つものだ。
「ああ、そうだな。お前が一番可愛くて、強いってことを見せてやれ」
俺が言うと、
「言われなくても」
そう言って、未央は勢いよくリンクへと飛び出していった。
会場からは少しばかりの拍手。
未央がスターティングポジションにつくと、すぐさま曲が流れ始めた。
――さぁ、始まる。
それはきっと――未央だけではなく、スケート界の運命をも決める演技だ。
ヴァイオリンのメロディに乗せて、最初のジャンプへ。
この会場の誰も、高橋未央という少女のことを知らない。
だが、今日知ることになる。
フィギュアスケートの歴史を変える、この少女のことを。
歴史の始まり、その序章。
軽やかに、けれど力強く、未央は羽ばたいた。
小さな体の一体どこからそんな跳躍が生まれるのか。何度見ても、驚嘆の一言。
そして、確実に、一回転、二回転、そして三回転と――――世界を驚かせる、半回転!
彼女の右足が再びリンクの氷を捉えた瞬間――けれど会場の反応は決して大きくはなかった。
俺と恵理子コーチだけが、大きな拍手を送る。
他の観客たちはその事実を現実として認識できていないのだ。
近藤レイカという天才少女にしかできなかったトリプルアクセルを、まったくもって無名の、しかも小学生の女の子が成功させて見せたのだから。もしかして、自分の見間違いなんじゃないか。そう思って、周りに意見を求める姿が散見された。
だが、観客が驚愕の事実を完璧に咀嚼する前に、未央はさらに技をたたき込む。
再び、アクセルジャンプの軌道。この会場にいる誰もが、今この瞬間、高橋未央という一人の少女の跳躍を凝視する。
跳躍から三回転半! だが、ジャンプはそこでは終わらない。さらにダブルトウループ!
三回転半からのコンビネーション!
「よっしゃあッ!!」
着氷した瞬間、俺はこの会場の誰よりも大きな声を出した。
今度こそ、会場の全員が理解しただろう。
この少女が跳んだのはトリプルアクセル。そしてそれは決してマグレの成功ではないのだと。
全日本ノービスの歴史上、初めて二本目のトリプルアクセルを成功させたのだ。
――未央は一番になりたいと言った。言うまでもなく、それは不可能なことだ。
だが、もしわずかにでも不可能を可能に変えられる可能性があるとしたら。彼女の圧倒的なまでの才能を今この場で最大限引き出すしかない。
それは即ち――高難易度ジャンプを畳みかける!
まず最初の二本は成功した。だが、これで終わりではない。
ここまでも確かにすごい。だが、過去それを可能にした人間は、少ないながらもいた。人類にとって既知の世界だ。
そして、ここからはまったく未知。誰も成し遂げたことのない、フィギュアスケートの歴史を塗り変えるような挑戦。
実は、未央自身もまだちゃんと成功させたことがない技だ。
だが、それでも俺たちは今日その技に挑戦することを決めていた。
転んでも回りきればそれなりの点数になると言う目論見もあったが――それ以上に、勝つためにはこれを成功させるしかないと思ったのだ。
失敗は必至。だって練習でさえほとんど成功させたことがないのだから。
練習できないなら本番でもできない。
奇跡なんて起こらない。それが常識。
でも俺は祈った。
神様――どうかこの一本だけ。
たった一本だけでいいから、奇跡を――。
ストロークからターン。カーブを描き、鋭くトウを氷に突き刺す。
高みへと上っていく彼女に、会場の全ての人間の視線が吸い寄せられた。
美しい放物線は、確かに未来への架け橋のように――
彼女のか細い足は再び氷を捉えて、舞い戻る。
――四回転トウループ!!
世界で初めて、たった11歳の少女がその技を成功させたのだ。
練習でもほとんど決まっていなかったのに、この土壇場で成功をたぐり寄せたのだ。
それでようやく観客たちは気が付いた。
――このリンクで滑っているのが、本物のバケモノなのだと。
たった11歳の子供が、四回転と、二本の三回転半を跳んで見せた。天才、なんて平凡な言葉で捉えようとするのがおこがましいほどの、圧倒的な才能。
そう、それが高橋未央なのだ。
だが、これだけでは終わらない。さらに高難易度のジャンプを畳み掛ける。
少し長めの助走から、ターン、そして直後にトウをついて跳び上がる!
――トリプルフリップ! からの、ワンモアジャンプ! トリプルトウループ!
三回転+三回転!
超高難易度ジャンプの連続に、場内は茫然として拍手もまばら。人間は驚きすぎると、正しい反応ができなくなる。俺がつい一か月半前に体感したのと同じ驚きを、観客も追体験しているというわけだ。
さぁ、次はトリプル+ダブル+ダブルの三連続。
まずは、トリプルループ。
だが、すぐに異変に気が付いた。
着氷した次の瞬間、右足のトウをつくのではなく――半回転で足を換える!
――ハーフループッ!
再び右足に体重が乗り、そこからサードジャンプはなんと――トリプルフリップ!
これはまったく予定していなかったコンボだった。
シークエンスの三番目にフリップを持ってくるのは、男子選手でもなかなかできない超高難易度の技。
彼女はこの過密スケジュールの中で、一体いつこんな大技を習得したというのだ。
――これが、真の天才の演技。彼女は俺の陳腐な想像なんて簡単に超えてくる。
そして演技は後半へ。
“誰も寝てはならぬ”の劇的なメロディに乗せて踊る。
そのステップはつたない。けれど圧倒的な熱力をもって。
彼女がひとたび身を斬り返すたびに、氷のかけらが飛び散り低い音が残響する。
この会場のすべての目が今、高橋未央という少女の演技にくぎ付けになっていた。
曲が鳴りやんだ瞬間――光り輝くニュースターの誕生に会場は歓喜した。観客たちもようやく、天才少女がスケート界に現れた事実を認識したのだ。
未央は疲れ切った様子で、形式的にお辞儀をして、リンクサイドに引き上げてきた。完璧な演技をしたという感慨に浸る余裕はないようだった。
「すげぇよ! まじで!!」
氷から上がってきた未央を、俺は否応なし抱き寄せた。と、彼女は拒絶の声をあげる。
「ちょッ! キモい! 離せ!」
「いや、あんまりにもいい演技だったから」
「死ねロリコン」
彼女は俺を殺意のこもった眼で見上げてきた。
「そこまで言わなくても……」
いったい未央以外の誰とこの喜びを共有すればよいのだ。
「いや、でも本当にスゴイ演技だった。最高だ。最も高いと書いて最高だ!」
俺が言うと、未央は「はいはい」と適当にあしらって歩いていった。
長椅子が用意されただけのキスアンドクライに二人で腰かける。俺が距離を詰めると、弟子はわざわざ「キモい」と言ってから横にズレて距離を取ってきた。
「ジャンプシークエンスなんて、いつ練習したんだよ」
俺が聞くと「昨日何回か練習した」と未央はそっけなく答えた。
何回か、という言葉で改めて弟子の才能に驚く。
そうだった、彼女はフィギュアスケートの神様に愛されているんでした。
「あー緊張するなぁ」
自分の演技の後よりも、はるかに緊張する。
主観的には、ブッチギリの一位だった。そりゃもう、どの選手よりも素晴らしい演技だった。
でも客観的に見れば穴はたくさんあった。スピンやステップはレベル4には程遠いし、振付の完成度も正直高いとは言えない。
そしてなにより、彼女には周りの選手と違って実績と言うものがないから、演技構成点で高い得点は望めない。
だから手ごたえとかい離した点数が出る可能性は十二分にある。
【――高橋未央さんの得点】
次の瞬間、具体的な点数が述べられる。
続いて、電光板にもその結果が表示される。
「おおお!」
――暫定一位!
未央は最終グループで滑って、暫定一位に立ったのだ。
「まじか! おい! やったぞ!」
なんとなんと、ビックサプライズ。
技術点はブッチギリでトップ。やはり、演技構成点は低くつけられたが、それでも公式戦初出場であることを考えれば、十分な得点だった。
しかも、この大会の演技順はまったくのランダムで、最終グループにトップ選手が集まっているというわけではない。既に全日本ノービス出場経験がある有力選手たちも何人か滑っているが、それをなぎ倒しての暫定一位なのだ。
未央は、そこでようやく笑みを浮かべた。
「メダル行けるんじゃないか」
後に五人も残っているわけだが、それでも俺はそんな言葉を口にしていた。
俺たちは安心感と、そして期待感を胸に、続く選手たちの演技を見守った。
【現在の順位は、第二位です】
未央の後の少女たちも懸命に滑るが、一人、また一人と、優勝争いから脱落していく。
そして、四番滑走の選手が未央を抜けなかった時点で、メダルが確定。
もうサプライズを通り越して奇跡だ。
だが、奇跡はそれでは終わらなかった。
五番滑走の選手、昨年全日本ノービスにも出場した強豪だが――彼女も未央を抜けなかった。わずかに0.11の差で二位につける。
これでなんと、未央の銀メダル以上が確定。
「夢を見てる気分だよ」
だが、まだ夢は終わらないかもしれない。
もしかしたら――いやそんなことはないとはわかっているが、でもどこかで期待してしまう。
【24番、高橋未希さん、横浜プリンセスフィギュアスケートクラブ】
彼女の名前がコールされた瞬間、一斉にカメラの音が鳴り響いた。
チャンピオンの登場だ。当然ながらその注目度は極めて高い。
だが未希ちゃんは、いつも通りの落ち着いた表情でリンクを滑る。
そして定位置につくと、――再び、トゥーランドットの旋律が鳴り響く。
未央と同じく“北京の民よ”から物語が始まる。
まず感じたのは――その圧倒的な速さ。リンクが小さくなったような錯覚。圧倒的なスケーティングスキルから生み出される演技のスピード感は群を抜いている。
だが――それはあくまで“周りとの比較において”だった。
確かに今日滑ったどの選手と比べても速いのだが、“いつもの彼女”と比べると少々遅く感じられた。
――もしかして。都合のいい邪推が頭をよぎった。
最初のジャンプは、彼女の代名詞ともいえるトリプルルッツ+トリプルトウループのハイパーコンビネーション。
だが、ファーストジャンプの時点で――ほんのわずかにだが――軸がそれていた。
本当に小さいズレだが、しかし12歳の少女が空中で直せるほど小さくはなかった。結果、回転が足らず、前向きに降りてくる。
場内から悲鳴が上がった。王者の転倒はおそらく誰も予想していなかっただろう。
「未央の演技、めちゃくちゃすごかったのかもな」
リンクに目線を向けたまま、隣の未央に話しかけた。
もちろん、どんな選手でも――いや、一人だけ例外がいるけど――転倒をゼロにすることはできない。だから、今の未希ちゃんの転倒だって、たまたま失敗しただけじゃないかと思う人もいるだろう。
だが、それは違うと断言できた。
彼女はあきらかに硬くなっているからだ。
演技を終了しさえすれば全日本ノービス出場はほぼ確定。そんな状況で彼女に緊張する理由があるとしたら――明らかに高橋未央という新たな天才を意識しているのだ。
未央の演技を見て、おそらく未希ちゃんは今までに感じたことがないほどの脅威を感じただろう。
未希ちゃんは、同世代の中でも群を抜いた才能を持っているし、人並み外れた努力もしてきた。
だが、突然自分よりもはるかに才能に恵まれた少女が目の前に現れたのだ。きっとこう思うだろう。自分はどれだけ努力しても、この少女には勝てないのではないかと。
圧倒的な天才を前にしたとき、人はどうしようもない無力感に襲われる。今まで血のにじむような努力を重ねてきたのであれば、なおさらだ。
そして、そんな葛藤の中で滑っていれば、必然的に演技にほころびがでる。
曲とのわずかな不調和。ジャンプのわずかな力み。そうした小さな差が、転倒という大きな失敗へとつながってしまう。
さぁ、もう一度、トリプルルッツ――今度は着氷、だがわずかに乱れた。そのままステップアウト。これは大きい失敗だった。二度のルッツが二つとも単独ジャンプになったことで、ルール違反になり大幅なマイナス。
そこから次のトリプルフリップはさすがに成功させるが、いつもの余裕はどこにもなかった。
さらに続くジャンプはトリプルループ+ハーフループ+トリプルサルコウの三連続の予定だったが、ファーストジャンプでぐらついた結果、最後のトリプルはとってつけたようなシングルジャンプに。
その後はなんとか立て直して大きな失敗はなかったが、いつもの彼女の演技を知っているだけに、精彩を欠いた印象は否めなかった。
誰より彼女自身が信じられないという表情で、キスアンドクライに戻ってくる。
しかし、未希ちゃんには本当に申し訳ないが、こうなってくるとコーチとしては期待に胸が膨らんでしまう。
演技構成点は当日の出来がどれだけ悪くても、大幅に下がることはない。もちろん、いつものように6点台というわけにはいかないだろうが、急に4点台にはなるまい。
だが技術点は、これだけ失敗を重ねれば低くならざるを得ない。しかも転倒や回転の抜けなど、致命的なミスが目立った。そうなってくれば、このフリー一発勝負のノービスにおいては――
【高橋未希さんの得点】
その点数が出た瞬間は、まだ理解できなかった。
だが、画面に表示された順位の一覧に、未希ちゃんの名前が加えられた瞬間、理解した。
「優勝だ!」
隣にいた未央をおもいっきり抱き寄せた。
なんてこった。
初めて出場した公式大会で優勝。そんなことが起こるのか。
未央は、目を丸くして画面に映った得点を見つめていた。まだ実感がわかないのだろう。
「優勝だぞ!」
これで、この天才少女がフィギュアスケートを続けられる。
今この瞬間、歴史が動き始めたのだ。
「一番に、なったんだ」
ようやく、未央はそんなことを口にした。
「ああ、一番だよ!」
俺は子供の様に足をバタバタさせる。いてもったってもいられない。
――と、茫然としていた未央の顔が急にこわばった。
未央の視線の先に目を向けそこにいた女性の姿を見て、俺は「あ」と情けない声を漏らした。
「お母さん……」
前回会ったときはビシっとしたスーツ姿が印象的だったが、今日の服装は黒いスカートに灰色のカーディガンだった。
一応、今日試合に出るということはコーチが伝えていたが、ちゃんと未央の演技を見に来ていたのだ。
「優勝、おめでとう」
未央の母親は、温かくも冷たくもない声でそう言った。
「ありがとう」
自分がスケートをやることに反対していた母を見て、未央の顔がこわばる。
そして、一瞬の間があったあと、未央の母親はこう言った。
「未央はどうしてフィギュアスケートをやりたいと思うの」
突然。お母さんは、未央に対してそんな質問を投げかけた。
母の目は、まっすぐ娘を見つめる。
――未央はたっぷり数秒時間をおいて、そして、母の目をしっかりと見つめ返した。
「一番になりたいから」
未央は力強くそう答えた。
ものすごくシンプルな理由。
けれど、それを口にするのは簡単ではない。
一番は、世界にたった一人だけ。一番になるということは、他のすべての人を斬り捨てて、自分が唯一無二の存在になるということなのだから。
でも、このわずか11歳の少女はキッパリと言い切ったのだ。
「なら、頑張りなさい」
母は娘にそう言った。
娘は小さくうなずいた。
二人の間にあった氷は解けてしまった。それもすべて、未央の演技の熱量が成し遂げたことだ。
俺は、安堵のため息を漏らした。
「それと、今週末は帰ってきなさい。ママもパパも家にいるから」
そういう母親のトーンはいつもと変わらない低いものだった。けれど、その言葉からは娘に対する温かさが確かに感じられた。
「白河さん、娘の指導をしてくださってありがとうございました」
と、彼女は俺に深々と頭を下げた。
「いえ、そんな」
正直教えたのが誰でも、多分同じ結果になっただろう。
未央の圧倒的な才能と熱意が、このとんでもない結果を生み出したのだ。
でも、ほんの少しでも、未央がフィギュアスケート選手になるお手伝いができたのなら、それは素直にうれしかった。
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