7.覚悟
「わたくしは、朝は食堂で食事をします」
アデラインが言うと、トマスは「承知いたしました」と頷いた。
ヒューガードがどの程度の権限を認めたのかという問いには、トマスは明確には答えなかった。
「奥様に不自由がないようにと仰せつかっております」との返事は、肯定的に受け止めると女主人の全権を認めるとなるし、否定的に受け止めると単なる客人の扱いだとなる。
アデラインはどちらなのかと問いただすことはしなかった。その代わり、確認すればよいのだ。
「屋敷の誂えを整えたいわ。屋敷の維持費や改修費の予算を見せてもらえるかしら」
その要望にも、トマスは黙って頷いた。
アデラインはその動作を見て、満足そうに頷いた。
トマスの答えで、旦那様はそれなりに自分に裁量を任せてくれている——アデラインはそう確信することができた。
「夕食前に使用人を集めてちょうだい。挨拶がしたいわ」
「かしこまりました。全員、玄関ホールに集まるよう申し伝えます」
「お願いね」
アデラインが言うと、トマスは目元で微笑んで見せた。目尻に皺が寄るのを見て、父のアルマン侯爵が懐かしくなったが、別れたのはつい昨日のことだ。
それなのに、これからここが自分の生活する場所なのだと思うと、もう数か月も会っていないかのような切なさが胸を締め付けた。
これが結婚というものなのだろうか。
これまで一緒に過ごした温かい家庭からでて、新しい環境で1人の大人の女性として生きていく。そこにはもう、愛しい父や妹たちの温もりはなく、代わりに得た新しい家族の手を取って歩く。それが結婚なのだと亡くなった母から教えられた。
だが、アデラインはすぐに否定した。
何故なら、結婚とは1人でするものではない。そして、自分の夫は手を取るどころか、初夜はもちろん、結婚したばかりの朝にすら顔を出さないのだ。
いくら世間知らずなアデラインにもわかる。こんなのは普通じゃない。
アデラインはトマスの目尻の皺から目を逸らして、小さく両手を重ねて握った。
それでも——
もう結婚生活は始まってしまったのだ。
それならば、少なくともこの屋敷の女主人として、そして、次期アルマン侯爵夫人として堂々と振舞わなければならない。
アデラインは深く息を吸い込むと、ぐっと胸を張った。
「夕食のお召し替えはいかがいたしましょう。ミセスポーラを呼んでまいりましょうか?」
部屋に戻ると、ナタリーが尋ねた。
「いいえ。それには及ばないわ。どうせ旦那様はお戻りにならないのだし、このままで十分よ」
ナタリーは、そう答えたアデラインのむき出しになった腕に、そっと視線をずらした。
昼間はともかく、陽が傾きだしたこの時間に半袖は寒いのだろう。
平気そうな顔をしているが、粟肌が立っているのを見て、ナタリーはクローゼットへの扉を開いた。
そして、数分もしないうちに、縁がうさぎの毛で飾られた可愛らしいスペンサージャケットを手に戻ってきた。
「お寒うございましょう。まだ暖炉に火を入れる時期ではありませんので、こちらを羽織られてくださいませ」
可愛らしいそのジャケットは、外出用のしっかりした作りではなく、サテンの柔らかいジャケットで、袖を通すとその軽さと温かさに感動すら覚えるほどだった。
「ありがとう、ナタリー。とても暖かいわ」
アデラインはそう微笑んだが、ナタリーは仏頂面を崩しもせずに「他に御用はございますか」と尋ねた。
アデラインは何もないとナタリーを下がらせると、部屋に置かれた大きな机に座った。
事前にトマスに伝えて部屋に持ってきてもらった、ヒューガードからの贈り物の目録と、貴族たちからの結婚祝いの目録が、書類トレイの上に整然と並べられている。
先ずは目を通しておかなければ。
数日のうちに、侍女と侍従を手配してもらおう。無理なら、商会から人手を借りることも考えなくては。
夫からの贈り物はともかく、貴族たちからの贈り物への返礼が、既婚者となった女性の最初の仕事なのだ。
そして、それは社交界にデビューしていないアデラインが、社交界に踏み出すための儀式でもあった。
本来なら母親や、義母が一緒になって教えてもらい名が行うものだが、今のアデラインにはそのどちらもいない。
だから、自分でやるしかないのだ。
「手伝いを頼むにも、まずは目録に目を通さなきゃね」
アデラインは机の上の蝋燭で目録を照らすと、その中から見覚えのある懐かしい名前をいくつも見つけた。
侯爵家が貧しくなるまでは付き合いのあった家の名だ。
木々が繁り花が咲き乱れる時期には、多くの来客で賑わっていた屋敷を思い出す。
1年また1年と、年を越すごとに侯爵邸を訪れる者は減り、最後には誰も来なくなった。
その頃の思い出が、手元の目録にはある。
アデラインは、滲む視界を堪えながら作業を続けた。
窓の外がすっかり暗くなった頃、扉を叩く音が聞こえたのでナタリーが時間を知らせに来たと思ったが、扉の前にいたのはトマスだった。
「使用人達が揃いました」
トマスの言葉に、アデラインは小さく息を呑んでから頷くと、その背中について行った。
玄関ホールにはフットマンやメイド、庭師に下働きの使用人まで総勢30人ほどが整然と並んでいた。
アデラインは階段をゆっくり降りると、踊り場で立ち止まり、全員を見た。
誰一人みすぼらしい恰好はしていない。
だが、使用人たちのアデラインを見る目は訝しげなものだった。
彼らはアデラインを女主人と見てよいのか、決めあぐねているのだろうと、アデラインはすぐに理解できた。
「皆にも知っているとおり、旦那様はこの度のご結婚において、アルマン侯爵家に婿入りされ、アルマン卿となられた。そして近いうちに、アルマン侯爵家の正式な後継者と認められ小侯爵と呼ばれることになる」
トマスが張りのある声で告げると、使用人たちの間にどよめきが沸き起こった。
「紹介する。この御方が、昨日からこの屋敷の女主人となられたアデライン・アルマン小侯爵夫人だ」
トマスの言葉に、使用人たちに小さなざわめきが起こったが、すぐに全員が口を閉じてトマスとアデラインを見た。
アデラインが頷くと、最前列にいた侍従が礼儀正しく頭を下げた。
それが合図だったかのように、全員が慌てて同じように頭を下げるのを見て、アデラインはやっと軽く息を吐くことができた。
「ここにいる全員が、アルマン侯爵家に連なる者として恥じぬ働きをしてくれることを期待しています」
アデラインの言葉に顔をあげた使用人たちの表情が、どこか緊張を帯びたように感じて、アデラインは満足してトマスについて食堂へと向かった。




