5.身支度
トマスが馬車に乗り込んで20分ほど進むと、首都の中心部分に堂々と建つベッカー商会に到着した。
使用人の案内も待たずに、足早に商会長の部屋の前に立つと、手袋をしたままの手で扉をノックした。
「旦那様。トマスでございます」
一呼吸を終える前に、中から「入れ」と、聞き慣れた主人の声が聞こえた。
トマスは丁寧な所作で扉を開けると、眉間に皺を寄せて新聞を読む主人の前に立った。
「昨日のことがもう新聞に出ている。この程度のことで騒ぐなど馬鹿馬鹿しいことだ」
新聞を机の上に乱暴に放り投げると、引き出しからパイプを取り出して、慣れた手つきで葉を詰めた。
新聞には、昨日アルマン侯爵領でベッカー商会の馬車が小高い崖から下の道路に転落したことが書かれていた。
トマスは昨夜遅くに戻った主人の姿を思い出した。
花嫁であるアデラインだけが、夜も更けた頃に屋敷に到着したことにも驚いたが、深夜に上等な花婿衣装を泥だらけにして戻ったヒューガードにも驚いた。
朝読んだ記事には、積み荷の下敷きになった使用人たちは全員無事に救出されたことと、夜遅くまでベッカー商会によって散乱した積み荷は撤去されたことが書かれていた。
「奥様のことですが」
トマスは前置きを嫌う主人の性格を熟知していたので、新聞から目を逸らすと単刀直入に話すことにした。
「侍女がおりません。そのため、お召し替えひとつにも苦労されているようでございます」
「アルマン家から連れて来ているんじゃないのか?」
パイプに火をつけると、ゆっくりと煙を燻らせながら、トマスを正面から見つめた。
「アルマン侯爵家には使用人は最低限しかおりません。侍女も1人しかおらず、3人の令嬢の世話をしているため連れてはこれないと以前お伝えしました」
「そうだったか?」
トマスの言葉にヒューガードは眉根を寄せた。
そういえばそう言っていたような記憶もある。
だが、結婚の準備は全てトマスに任せていたのだ。いちいち覚えてはいなかった。
「メイドではだめなのか」
「侍女とメイドでは全く違います」
トマスは溜息をつきながら首を横に振った。
ひと月前に奥様の侍女をどうするのかを尋ねた際に、もっとしっかりと聞けばよかったと、トマスは強く後悔した。
『奥様の侍女ですが、ご用意はいかがいたしましょうか。アルマン侯爵家であてがあるのでしたら結構ですが』
そう尋ねた際に、ヒューガードは『問題ないだろう』と答えた。
恐らくこの主人は、アルマン侯爵家に侍女がいることで、その侍女が付いてくるものだと思っていたのだろう。
「新しい侍女にと以前から声をかけていた人物がおります。旦那様がよろしければ、その方に明日からでもお仕えいただけるか確認いたします」
「そうしてくれ。令嬢——いや、妻には不自由のないよう配慮を。ただし、当面の間の決裁は全てお前が行うように」
ヒューガードの言葉に、トマスは少しだけ怪訝な表情をしたが、すぐに真顔に戻って丁寧に頭を下げ、部屋を出て行った。
軽い昼食を済ませたアデラインは、鏡の前で仕立てあげたばかりのドレスを着て上機嫌だった。
ナタリーが持ってきたモスリンの生地は、思った以上に柔らかく頼りなかったが、そのおかげで針も糸も引っかかる事なく、すんなりと縫い上げることができたのだ。
もっとも、簡易なこのドレスは、殆どが直線だったし、作業効率を考えて袖も半袖にしたおかげでもある。
少し肌寒くはあるが、結果的に午前中だけで仕立てあげることができたのは、侯爵家で妹たちにシュミーズやドレスを作ってあげていたおかげだろう。
教養のつもりで学んだ裁縫が、貧しさを助け、そして今はこの状況からも救ってくれている。
何が自分を助けてくれるのか、その時にならなければ分からないものだと、アデラインはなんとなくおかしくて1人で笑ってしまった。
「お呼びでございますか、奥様」
静かにドアを開けて朝と同じ仏頂面で入ってくるナタリーにも、慣れた気がした。
「見て、ナタリー。シュミーズドレスよ。これなら1人で着られるでしょ?似合うかしら」
裾を持ってひらひらと体を翻して見せる女主人を、ナタリーは表情を崩さずにじっと見つめた。
「奥様が仕立てられたのですか?」
「ええ。新聞で見たことがあったのだけど、着るのは初めてよ。おかしくないかしら?」
ナタリーはアデラインが着ているモスリンのドレスが、何の飾り気もなく、ただありあわせの材料で仕上げただけであることに気付いた。
だからといって、粗末な仕上がりではなく、質素だが美しいプリーツが全体を洗練された上品さに見せているようだった。
「とても素晴らしい腕前でございます。少々お待ちいただけますか」
そう言うと、ナタリーは寝室に続くクローゼットから、薄い青や可愛らしいピンクや黄色で染められたシルクのリボンを手に戻ってきた。
「こちらをお使いくださいませ。少しは華やかになります」
アデラインは、その中から金茶色のリボンを手に取った。
昨日わずかに見た夫の目の色に似た色だと気付くと、慌てて薄い青のリボンに持ち替えた。
「そちらでよろしいのですか」
ナタリーの静かな声に、アデラインは何かを見透かされた気分になったが、「ええ」と平然と微笑んで見せた。
「このお屋敷に家令と家政婦はいるのかしら。挨拶をしたいわ」




