第二話 止まる
水は、思ったほど減らない。
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九月十二日の朝、六時に現場へ戻った。
水は引いていたが、匂いが残っていた。
冠水した街の匂いを、知らない人は多いと思う。
泥の匂いではない。下水の匂いでもない。その二つに、油と、濡れた紙と、家の中にあったはずのものが混ざった匂いだ。
畳。段ボール。冷蔵庫の中身。
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歩道に、家から出された物が積み上げられていた。
まだ朝の六時なのに、もう積んである。夜のうちに出したのだろう。
濡れたものは重い。畳一枚を、大人が二人で運んでいた。
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道路の縁石に、線が残っていた。
水が引いたあとに、泥の線がつく。どこまで来たかが、そのまま残る。
私の腰くらいの高さだった。
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その線は、道路の反対側の建物にも、電柱にも、自動販売機にも、同じ高さでついていた。
街が、一度そこまで沈んだということだ。
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夜のあいだに排水ポンプ車が四台入っていた。国交省の地方整備局のもので、赤いタンクを積んだ大型車だ。
一台で毎分三十立方メートル抜ける。二十五メートルプールを十三分で空にできる、という説明の仕方をされる。
四台で毎分百二十立方メートル。一時間で七千二百立方メートルになる。
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音がすごい。
ディーゼルエンジンが四台、同じ場所で回っている。話をするには、耳元まで寄らないといけない。
この音が、二日目には聞こえなくなる。
人間はそういうふうにできている。
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太いホースが、駐車場の入口から道路を横切って、三百メートル先の水路まで伸びていた。
ホースは膨らんでいて、触ると硬い。中を水が通っている。
その硬さだけが、抜けている実感だった。
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駐車場の容積を、私は前の晩に計算していた。
地下一階と地下二階が、それぞれ床面積で八千平方メートルほど。天井までが二・四メートル。
二層で三万八千立方メートル。車が入っているぶん、実際はもう少し少ない。
毎時七千二百なら、五時間半で抜ける計算だった。
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ポンプ車は、朝の四時から回っていた。
六時までの二時間で、水位は四十センチ下がっていた。
一時間に二十センチだ。
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市の施設課の人が、隊長に説明していた。
周囲の地下水位がまだ高いこと。躯体の打ち継ぎ目地と、ケーブルを通す貫通部から水が入っていること。下水道の本管がまだ満管で、放流先そのものが詰まっていること。
抜いた先から、戻ってくる。
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水位を一センチ下げるのに、八十立方メートルいる。
床面積八千平方メートルに、一センチぶんの水を掛けただけの話だ。
一時間で七千二百立方メートル抜いているなら、九十センチ下がっていなければおかしい。
実際は二十センチだ。
差の七十センチぶん、五千六百立方メートルが、一時間ごとに入ってきていることになる。
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私はその数字を、隊長に言わなかった。
言っても、どうにもならない。ポンプを増やす以外に手はないし、増やすのは私の仕事ではない。
だが、頭からは離れなかった。
毎分にすると、九十三立方メートルだ。太い管が何本も口を開けていなければ、そんな量は入らない。
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柏木さんの家族が来ていた。
昨夜の女の人が、今朝はパイプ椅子に座っていた。消防が用意したテントの下だ。
息子さんらしい人が横に立っていた。三十くらいに見えた。ずっと立っていた。
私が通ったとき、その人が頭を下げた。
私は下げ返した。それだけだった。
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昼前に、その人がテントの外まで来て、私に聞いた。
「中は、どんな感じですか」
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私は答え方を探した。
真っ暗です、とは言えなかった。冷たいです、とも言えなかった。
どちらも本当だが、聞いた人が受け取るのは、本当のことではなくなる。
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「静かです」
私はそう言った。
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その人は、少しのあいだ黙ってから、「そうですか」と言った。
「ありがとうございます」
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礼を言われる筋合いはなかった。
まだ何も見つけていない。
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テントに戻っていくのを見ていたら、奥さんのほうが顔を上げた。
目が合った。
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昨夜は合わせなかった。今日は、合った。
合ってしまうと、もう逸らせない。私は頭を下げて、それから現場に戻った。
戻る途中で、自分がまだ何もしていないことを、もう一度考えた。
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二度目の潜水は、車の中を見る番だった。
一度目で、人が歩ける範囲は探した。通路、階段室、ポンプ室、その手前。柏木さんはいなかった。
次は、車だ。
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水が入ったとき、車の中にいた人がいるかもしれない。
電子キーの車は、水に浸かると開かなくなることがある。窓も、パワーウィンドウなら上がらない。
いなければいないで、それを確かめないと次に進めない。
順番というのは、そういうふうにできている。
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装備を変えた。
フルフェイスマスクにした。顔全体を覆うやつで、口からレギュレーターが外れる心配がない。水中電話も、これのほうがよく通る。
背中に、小さいボンベを背負った。ベイルアウトという。ホースが切れたときに、それだけで上がるためのものだ。
三分から五分ぶんしかない。
三分あれば、たいていのところからは出られる。
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たいていのところ、というのは、出口までの距離が知れているところだ。
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平田さんが潜水指揮についた。
受話器は二川が持って、私の息の音をずっと聞く。平田さんは横に立っていて、指示を出すときだけ二川から受話器を受け取る。
声が二人ぶん入るのは、そういう理由だ。
うちで潜水士免許を持っているのは三人だけで、そのうちの一人が平田さんだ。もう十年以上潜っていないが、免許は生きている。
「無理はするな」
「しません」
「柏木さんはもう亡くなってる。急がなくていい」
平田さんは、そういう言い方をする人だ。
残酷に聞こえるが、これは潜る人間を守るための言い方だと、私は知っている。
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十三時五分に入った。
昼だからといって、水の中が明るくなるわけではない。
地下の水に、日は届かない。スロープの入口から二十メートルも進めば、昼も夜もない。
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列の端から始めた。
一台ずつ、窓に手を当てて、顔を近づける。
濁っているので、ライトを窓ガラスにぴったり当てる。ガラスに接触させると、水中の粒に散らない光が、少しだけ中に入る。
それでも見えるのは、手のひらくらいの範囲だ。
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一台目。空。
二台目。空。
三台目は、後部座席に段ボールが積んであった。
四台目。空。
五台目。空。
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窓が開いている車が、一台あった。
運転席の窓が、十センチほど下りたままだった。
夏に、換気のつもりで開けて出る人がいる。私もやる。
そこから水が入って、車の中は完全に満たされている。
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開いている隙間に、手を入れた。
入れてから、なぜ入れたのかわからなくなった。
中を見るなら窓の外からライトを当てればいい。手を入れる必要はなかった。
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指先が、ハンドルに触れた。
それだけだった。
私は手を抜いて、次の車に移った。
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六台目で、人がいた。
運転席に、頭がある。
私は一度、体を引いた。引いてから、もう一度近づいた。
ヘッドレストだった。
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心臓の音が、耳の中で鳴っていた。
フルフェイスマスクの中は、自分の呼吸で少し曇る。曇ると、余計に見えない。
私はしばらく、そこで止まっていた。
止まっているあいだも、空気は減る。
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七台目の後部座席に、チャイルドシートがあった。
空だった。
空なのは見ればわかるのに、私は二度確かめた。
二度確かめてから、次に行った。
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十四台目まで見て、そこで一度、区画を変えた。
東側の列に移る。移るときに、柱に手が当たった。
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昨夜、間隔が合わないと思った柱だ。
私は手で幅を測った。柱の一辺は、七十センチほどある。前の柱までの距離は、六メートルより明らかに長い。
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上がってから、隊長に聞いた。
隊長は図面をもう一枚出してきた。
平成三十年の耐震補強の図面だった。柱が二本、後から足されている。
私が持っていたのは、竣工時の図面だった。
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「すみません、古いのを渡してました」
隊長は頭を下げた。
私は、なんでもないですと言った。
実際、なんでもない話だった。柱が増えていただけだ。
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そういうものだ、と私は思っていた。
地下の図面は、たいてい古い。増築して、補強して、配管を通して、そのたびに現物だけが変わっていく。
図面のほうは、誰かが直さないと直らない。
直さなくても、誰も困らない。困るのは、何か起きたときに入る人間だけだ。
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ポンプ室の奥に、開口があった。
これは図面のどちらにも載っていなかった。
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ポンプ室の、いちばん奥の壁。腰の高さのところに、四角い穴がある。
人が一人、身をかがめて通れるくらいの大きさだ。
縁を手でなぞった。コンクリートではなく、鉄の枠だった。錆びている。
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あとで市の人に聞いたら、旧市民会館の設備ピットだろう、という話だった。
いまの市民会館は二代目で、建て替えのときに、地下の一部をそのまま使ったらしい。
埋め戻す予算がつかなかったのか、埋め戻す必要がないと判断したのか、そこまではわからないと言われた。
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私はその穴に、ライトを入れた。
中に光は届かなかった。届かないのではなく、返ってこなかった。
濁った水の中では、光は数十センチで散って、白く戻ってくる。返ってこないというのは、跳ね返る面が近くにないということだ。
思っていたより、広い。
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「沢口さん、四十分です」
平田さんの声だった。
「奥に空間があります。今日は入りません」
「そうしてくれ」
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入らなかったのは、ロープが足りなかったからだ。
迷路のような場所に入るときは、必ず入口から糸を引く。糸がなければ入らない。
それだけの話だった。
それだけの話だと、私はいまも思っている。
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もうひとつ、決まりがある。
三分の一の決まりという。
持っている空気の三分の一で行けるところまで行く。三分の一で戻る。残りの三分の一は、何も起きなかった場合でも使わない。
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なぜ三分の一なのかというと、帰りは行きより時間がかかるからだ。
濁る。疲れる。ロープを外しながら戻る。誰かを連れて戻ることもある。
行きと同じ時間で帰れると思っている人間から死ぬ、と教わった。
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あの穴に入っていたら、往復で三分の一に収まらなかった。
収まらないことは、入口に立った時点でわかっていた。
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だから入らなかった。
入らなかった理由は、それで足りている。
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足りているのに、私はいまでもときどき、あの穴のことを考える。
考えるときに思い出すのは、光が返ってこなかったことだ。
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水の中で、光が返ってこない場所というのは、そんなに多くない。
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引き返そうとしたときに、息が止まった。
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正確には、吸えなかった。
吸おうとして、マスクの中が動かない。空気が来ない。
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送気式は、地上のコンプレッサーから空気が来る。それが止まると、こうなる。
私は右手を背中に回した。ベイルアウトのバルブを開ける。
開けた。空気が来た。
時間にすれば、三秒か四秒だった。
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この手順は、体で覚えている。
右手を肩の後ろから回して、バルブに指をかける。反時計回りに二回転。手袋をしているので、指の腹では回らない。手のひらごと当てて回す。
訓練では一秒半でやる。
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実際にやったのは、たぶん三秒だった。
一秒半でできない理由は、暗いからでも、水が冷たいからでもない。
吸えなかった、という事実のほうを、脳が先に処理してしまうからだ。
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空気が来ないというのは、痛くない。
痛くないのに、体が全部そっちを向く。
指がバルブを探しているあいだ、私の頭の中には何もなかった。柏木さんのことも、二川のことも、出口のことも、何もなかった。
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空気が来たとき、私は一度だけ、深く吸った。
深く吸ってはいけない。ベイルアウトは三分しかない。
わかっていて、吸った。
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その三秒か四秒のあいだ、私は上を見た。
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見てはいけないと決めていたのに、見た。
人間は、息ができないと上を見る。
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天井に、私の吐いた空気がたまっていた。
昨夜よりも厚かった。四十分ぶんの呼気が、天井の梁と梁のあいだに集まって、銀色の面になっている。
ライトを当てると、鏡のように光る。
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その面に、顔が映っていた。
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私は、自分だと思った。
水中で上を向けば、自分のマスクが映ることはある。天井の気泡の面は、下から見れば鏡だ。
だから、自分だと思った。
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私は手を上げた。
映ったほうも、手を上げた。
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少し、遅れて。
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私は手を下ろした。
映ったほうは、下ろさなかった。
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「沢口さん」
水中電話で、平田さんの声がした。
「送気、戻りました。コンプレッサーの吸気が詰まってました。すぐ上がってください」
「了解」
*
「沢口さん」
もう一度、声がした。
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同じ声だった。同じ間合いで、同じ高さで。
私は返事をしなかった。
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ガイドロープをたぐった。
たぐりながら、私は数えていた。数えることに意味はない。意味はないが、数えていないと、別のことを考える。
柱を三本。車の列を二列。スロープ。
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頭が水面に出たとき、平田さんと二川が並んで立っていた。
二川の顔が白かった。
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器材を外しながら、私は聞いた。
「さっき、二回呼んだか」
平田さんは、首を横に振った。
「一回だ。送気が戻ったときに一回」
「そうか」
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二川が言った。
「俺、聞こえました」
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「何が」
「二回目のほう」
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二川は、水中電話の受話器を持っていた。連絡員は、潜っている人間の音をずっと聞いている。
呼吸の音が止まらないかを、聞いている。
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連絡員というのは、暇な役ではない。
潜っている人間の呼吸音を、ずっと聞き続ける。ごうっ、ごぼごぼ、ごうっ、ごぼごぼ。それが四十分続く。
その音が乱れたら、止めなければならない。止まったら、引き上げなければならない。
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二川は、私の息の音を四十分聞いていた。
途中で三秒か四秒、それが止まったのも聞いている。
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「送気止まったとき、めちゃくちゃ怖かったです」
二川はそう言った。
「沢口さんの息が消えて、そのあとにベイルアウトの音がしたんですけど、そのあいだ何も聞こえなくて」
「何秒あった」
「わかんないです。長かったです」
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私は三秒だと思っていた。
あとで記録を見たら、四秒だった。
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「平田さんが呼んで、そのあとにもう一回、沢口さんって」
「平田さんの声だったか」
「はい」
二川はそう言ってから、少し考えて、言い直した。
「平田さんの声で、平田さんじゃない喋り方でした」
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平田さんは何も言わなかった。
言わずに、コンプレッサーの吸気フィルターを外して、中を見ていた。
葉と泥が詰まっていた。雨のときに吸ったのだろう、というのが平田さんの説明だった。
実際、そのとおりだったと思う。
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夕方まで、水位は下がらなかった。
ポンプ車は四台とも回っていた。一時間に七千二百立方メートル抜いて、二十センチ。
どこかから、同じだけ入ってくる。
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市の人が、水位計のグラフを見せてくれた。
三十分ごとに記録されている。折れ線が、ゆっくり右下がりになっている。
ゆっくりすぎて、下がっているようには見えない。
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一か所だけ、段がついていた。
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夜中の、二時十四分から二時四十二分。
そこだけ、線が階段のように落ちている。三十分足らずで、四十センチ下がっていた。
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四十センチというのは、ポンプ車四台を二時間回して、やっと下がる量だ。
その二時間ぶんが、二十八分で落ちている。
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「これは」
私が指すと、市の人は身を乗り出して、それからしばらく黙った。
「ポンプ車、この時間はまだ来てないんですよね」
「来てないです。四時からです」
「じゃあ、なんですかね」
「センサーの誤作動かな」
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二時十四分から二時四十二分。
二十八分だ。
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私が一度目に潜っていた時間だった。
*
誤作動だと思う。
水位計は水に浸かる機械だ。浸かれば狂う。前の晩は、まだ水が動いていた。
私はそう考えた。考えて、それ以上は考えないことにした。
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家に帰って、風呂に湯を張った。
冷えていた。九月でも、地下の水は冷たい。
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湯船に入る前に、私は水面を見た。
湯気が立っていて、何も映らなかった。
映らないというのは、いいことだった。
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湯を抜くとき、栓を引いた。
排水口のところで、水が渦になる。
渦は、右回りだった。
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真ん中に、穴があく。
水が落ちていく音がして、湯船の底が見えてくる。
私はその渦を、最後まで見ていた。
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見ていたのは、覗きたかったからではない。
覗かれていないことを、確かめたかったからだ。
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その夜も、私は喉が渇いた。
台所で水を汲んだ。
汲んでから、私は流しの明かりを消した。
暗ければ、映らない。
*
映らないことにして、飲んだ。




