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水位  作者: 真核生物
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第二話 止まる

 水は、思ったほど減らない。


 *


 九月十二日の朝、六時に現場へ戻った。


 水は引いていたが、匂いが残っていた。


 冠水した街の匂いを、知らない人は多いと思う。


 泥の匂いではない。下水の匂いでもない。その二つに、油と、濡れた紙と、家の中にあったはずのものが混ざった匂いだ。


 畳。段ボール。冷蔵庫の中身。


 *


 歩道に、家から出された物が積み上げられていた。


 まだ朝の六時なのに、もう積んである。夜のうちに出したのだろう。


 濡れたものは重い。畳一枚を、大人が二人で運んでいた。


 *


 道路の縁石に、線が残っていた。


 水が引いたあとに、泥の線がつく。どこまで来たかが、そのまま残る。


 私の腰くらいの高さだった。


 *


 その線は、道路の反対側の建物にも、電柱にも、自動販売機にも、同じ高さでついていた。


 街が、一度そこまで沈んだということだ。


 *


 夜のあいだに排水ポンプ車が四台入っていた。国交省の地方整備局のもので、赤いタンクを積んだ大型車だ。


 一台で毎分三十立方メートル抜ける。二十五メートルプールを十三分で空にできる、という説明の仕方をされる。


 四台で毎分百二十立方メートル。一時間で七千二百立方メートルになる。


 *


 音がすごい。


 ディーゼルエンジンが四台、同じ場所で回っている。話をするには、耳元まで寄らないといけない。


 この音が、二日目には聞こえなくなる。


 人間はそういうふうにできている。


 *


 太いホースが、駐車場の入口から道路を横切って、三百メートル先の水路まで伸びていた。


 ホースは膨らんでいて、触ると硬い。中を水が通っている。


 その硬さだけが、抜けている実感だった。


 *


 駐車場の容積を、私は前の晩に計算していた。


 地下一階と地下二階が、それぞれ床面積で八千平方メートルほど。天井までが二・四メートル。


 二層で三万八千立方メートル。車が入っているぶん、実際はもう少し少ない。


 毎時七千二百なら、五時間半で抜ける計算だった。


 *


 ポンプ車は、朝の四時から回っていた。


 六時までの二時間で、水位は四十センチ下がっていた。


 一時間に二十センチだ。


 *


 市の施設課の人が、隊長に説明していた。


 周囲の地下水位がまだ高いこと。躯体の打ち継ぎ目地と、ケーブルを通す貫通部から水が入っていること。下水道の本管がまだ満管で、放流先そのものが詰まっていること。


 抜いた先から、戻ってくる。


 *


 水位を一センチ下げるのに、八十立方メートルいる。


 床面積八千平方メートルに、一センチぶんの水を掛けただけの話だ。


 一時間で七千二百立方メートル抜いているなら、九十センチ下がっていなければおかしい。


 実際は二十センチだ。


 差の七十センチぶん、五千六百立方メートルが、一時間ごとに入ってきていることになる。


 *


 私はその数字を、隊長に言わなかった。


 言っても、どうにもならない。ポンプを増やす以外に手はないし、増やすのは私の仕事ではない。


 だが、頭からは離れなかった。


 毎分にすると、九十三立方メートルだ。太い管が何本も口を開けていなければ、そんな量は入らない。


 *


 柏木さんの家族が来ていた。


 昨夜の女の人が、今朝はパイプ椅子に座っていた。消防が用意したテントの下だ。


 息子さんらしい人が横に立っていた。三十くらいに見えた。ずっと立っていた。


 私が通ったとき、その人が頭を下げた。


 私は下げ返した。それだけだった。


 *


 昼前に、その人がテントの外まで来て、私に聞いた。


 「中は、どんな感じですか」


 *


 私は答え方を探した。


 真っ暗です、とは言えなかった。冷たいです、とも言えなかった。


 どちらも本当だが、聞いた人が受け取るのは、本当のことではなくなる。


 *


 「静かです」


 私はそう言った。


 *


 その人は、少しのあいだ黙ってから、「そうですか」と言った。


 「ありがとうございます」


 *


 礼を言われる筋合いはなかった。


 まだ何も見つけていない。


 *


 テントに戻っていくのを見ていたら、奥さんのほうが顔を上げた。


 目が合った。


 *


 昨夜は合わせなかった。今日は、合った。


 合ってしまうと、もう逸らせない。私は頭を下げて、それから現場に戻った。


 戻る途中で、自分がまだ何もしていないことを、もう一度考えた。


 *


 二度目の潜水は、車の中を見る番だった。


 一度目で、人が歩ける範囲は探した。通路、階段室、ポンプ室、その手前。柏木さんはいなかった。


 次は、車だ。


 *


 水が入ったとき、車の中にいた人がいるかもしれない。


 電子キーの車は、水に浸かると開かなくなることがある。窓も、パワーウィンドウなら上がらない。


 いなければいないで、それを確かめないと次に進めない。


 順番というのは、そういうふうにできている。


 *


 装備を変えた。


 フルフェイスマスクにした。顔全体を覆うやつで、口からレギュレーターが外れる心配がない。水中電話も、これのほうがよく通る。


 背中に、小さいボンベを背負った。ベイルアウトという。ホースが切れたときに、それだけで上がるためのものだ。


 三分から五分ぶんしかない。


 三分あれば、たいていのところからは出られる。


 *


 たいていのところ、というのは、出口までの距離が知れているところだ。


 *


 平田さんが潜水指揮についた。


 受話器は二川が持って、私の息の音をずっと聞く。平田さんは横に立っていて、指示を出すときだけ二川から受話器を受け取る。


 声が二人ぶん入るのは、そういう理由だ。


 うちで潜水士免許を持っているのは三人だけで、そのうちの一人が平田さんだ。もう十年以上潜っていないが、免許は生きている。


 「無理はするな」


 「しません」


 「柏木さんはもう亡くなってる。急がなくていい」


 平田さんは、そういう言い方をする人だ。


 残酷に聞こえるが、これは潜る人間を守るための言い方だと、私は知っている。


 *


 十三時五分に入った。


 昼だからといって、水の中が明るくなるわけではない。


 地下の水に、日は届かない。スロープの入口から二十メートルも進めば、昼も夜もない。


 *


 列の端から始めた。


 一台ずつ、窓に手を当てて、顔を近づける。


 濁っているので、ライトを窓ガラスにぴったり当てる。ガラスに接触させると、水中の粒に散らない光が、少しだけ中に入る。


 それでも見えるのは、手のひらくらいの範囲だ。


 *


 一台目。空。


 二台目。空。


 三台目は、後部座席に段ボールが積んであった。


 四台目。空。


 五台目。空。


 *


 窓が開いている車が、一台あった。


 運転席の窓が、十センチほど下りたままだった。


 夏に、換気のつもりで開けて出る人がいる。私もやる。


 そこから水が入って、車の中は完全に満たされている。


 *


 開いている隙間に、手を入れた。


 入れてから、なぜ入れたのかわからなくなった。


 中を見るなら窓の外からライトを当てればいい。手を入れる必要はなかった。


 *


 指先が、ハンドルに触れた。


 それだけだった。


 私は手を抜いて、次の車に移った。


 *


 六台目で、人がいた。


 運転席に、頭がある。


 私は一度、体を引いた。引いてから、もう一度近づいた。


 ヘッドレストだった。


 *


 心臓の音が、耳の中で鳴っていた。


 フルフェイスマスクの中は、自分の呼吸で少し曇る。曇ると、余計に見えない。


 私はしばらく、そこで止まっていた。


 止まっているあいだも、空気は減る。


 *


 七台目の後部座席に、チャイルドシートがあった。


 空だった。


 空なのは見ればわかるのに、私は二度確かめた。


 二度確かめてから、次に行った。


 *


 十四台目まで見て、そこで一度、区画を変えた。


 東側の列に移る。移るときに、柱に手が当たった。


 *


 昨夜、間隔が合わないと思った柱だ。


 私は手で幅を測った。柱の一辺は、七十センチほどある。前の柱までの距離は、六メートルより明らかに長い。


 *


 上がってから、隊長に聞いた。


 隊長は図面をもう一枚出してきた。


 平成三十年の耐震補強の図面だった。柱が二本、後から足されている。


 私が持っていたのは、竣工時の図面だった。


 *


 「すみません、古いのを渡してました」


 隊長は頭を下げた。


 私は、なんでもないですと言った。


 実際、なんでもない話だった。柱が増えていただけだ。


 *


 そういうものだ、と私は思っていた。


 地下の図面は、たいてい古い。増築して、補強して、配管を通して、そのたびに現物だけが変わっていく。


 図面のほうは、誰かが直さないと直らない。


 直さなくても、誰も困らない。困るのは、何か起きたときに入る人間だけだ。


 *


 ポンプ室の奥に、開口があった。


 これは図面のどちらにも載っていなかった。


 *


 ポンプ室の、いちばん奥の壁。腰の高さのところに、四角い穴がある。


 人が一人、身をかがめて通れるくらいの大きさだ。


 縁を手でなぞった。コンクリートではなく、鉄の枠だった。錆びている。


 *


 あとで市の人に聞いたら、旧市民会館の設備ピットだろう、という話だった。


 いまの市民会館は二代目で、建て替えのときに、地下の一部をそのまま使ったらしい。


 埋め戻す予算がつかなかったのか、埋め戻す必要がないと判断したのか、そこまではわからないと言われた。


 *


 私はその穴に、ライトを入れた。


 中に光は届かなかった。届かないのではなく、返ってこなかった。


 濁った水の中では、光は数十センチで散って、白く戻ってくる。返ってこないというのは、跳ね返る面が近くにないということだ。


 思っていたより、広い。


 *


 「沢口さん、四十分です」


 平田さんの声だった。


 「奥に空間があります。今日は入りません」


 「そうしてくれ」


 *


 入らなかったのは、ロープが足りなかったからだ。


 迷路のような場所に入るときは、必ず入口から糸を引く。糸がなければ入らない。


 それだけの話だった。


 それだけの話だと、私はいまも思っている。


 *


 もうひとつ、決まりがある。


 三分の一の決まりという。


 持っている空気の三分の一で行けるところまで行く。三分の一で戻る。残りの三分の一は、何も起きなかった場合でも使わない。


 *


 なぜ三分の一なのかというと、帰りは行きより時間がかかるからだ。


 濁る。疲れる。ロープを外しながら戻る。誰かを連れて戻ることもある。


 行きと同じ時間で帰れると思っている人間から死ぬ、と教わった。


 *


 あの穴に入っていたら、往復で三分の一に収まらなかった。


 収まらないことは、入口に立った時点でわかっていた。


 *


 だから入らなかった。


 入らなかった理由は、それで足りている。


 *


 足りているのに、私はいまでもときどき、あの穴のことを考える。


 考えるときに思い出すのは、光が返ってこなかったことだ。


 *


 水の中で、光が返ってこない場所というのは、そんなに多くない。


 *


 引き返そうとしたときに、息が止まった。


 *


 正確には、吸えなかった。


 吸おうとして、マスクの中が動かない。空気が来ない。


 *


 送気式は、地上のコンプレッサーから空気が来る。それが止まると、こうなる。


 私は右手を背中に回した。ベイルアウトのバルブを開ける。


 開けた。空気が来た。


 時間にすれば、三秒か四秒だった。


 *


 この手順は、体で覚えている。


 右手を肩の後ろから回して、バルブに指をかける。反時計回りに二回転。手袋をしているので、指の腹では回らない。手のひらごと当てて回す。


 訓練では一秒半でやる。


 *


 実際にやったのは、たぶん三秒だった。


 一秒半でできない理由は、暗いからでも、水が冷たいからでもない。


 吸えなかった、という事実のほうを、脳が先に処理してしまうからだ。


 *


 空気が来ないというのは、痛くない。


 痛くないのに、体が全部そっちを向く。


 指がバルブを探しているあいだ、私の頭の中には何もなかった。柏木さんのことも、二川のことも、出口のことも、何もなかった。


 *


 空気が来たとき、私は一度だけ、深く吸った。


 深く吸ってはいけない。ベイルアウトは三分しかない。


 わかっていて、吸った。


 *


 その三秒か四秒のあいだ、私は上を見た。


 *


 見てはいけないと決めていたのに、見た。


 人間は、息ができないと上を見る。


 *


 天井に、私の吐いた空気がたまっていた。


 昨夜よりも厚かった。四十分ぶんの呼気が、天井の梁と梁のあいだに集まって、銀色の面になっている。


 ライトを当てると、鏡のように光る。


 *


 その面に、顔が映っていた。


 *


 私は、自分だと思った。


 水中で上を向けば、自分のマスクが映ることはある。天井の気泡の面は、下から見れば鏡だ。


 だから、自分だと思った。


 *


 私は手を上げた。


 映ったほうも、手を上げた。


 *


 少し、遅れて。


 *


 私は手を下ろした。


 映ったほうは、下ろさなかった。


 *


 「沢口さん」


 水中電話で、平田さんの声がした。


 「送気、戻りました。コンプレッサーの吸気が詰まってました。すぐ上がってください」


 「了解」


 *


 「沢口さん」


 もう一度、声がした。


 *


 同じ声だった。同じ間合いで、同じ高さで。


 私は返事をしなかった。


 *


 ガイドロープをたぐった。


 たぐりながら、私は数えていた。数えることに意味はない。意味はないが、数えていないと、別のことを考える。


 柱を三本。車の列を二列。スロープ。


 *


 頭が水面に出たとき、平田さんと二川が並んで立っていた。


 二川の顔が白かった。


 *


 器材を外しながら、私は聞いた。


 「さっき、二回呼んだか」


 平田さんは、首を横に振った。


 「一回だ。送気が戻ったときに一回」


 「そうか」


 *


 二川が言った。


 「俺、聞こえました」


 *


 「何が」


 「二回目のほう」


 *


 二川は、水中電話の受話器を持っていた。連絡員は、潜っている人間の音をずっと聞いている。


 呼吸の音が止まらないかを、聞いている。


 *


 連絡員というのは、暇な役ではない。


 潜っている人間の呼吸音を、ずっと聞き続ける。ごうっ、ごぼごぼ、ごうっ、ごぼごぼ。それが四十分続く。


 その音が乱れたら、止めなければならない。止まったら、引き上げなければならない。


 *


 二川は、私の息の音を四十分聞いていた。


 途中で三秒か四秒、それが止まったのも聞いている。


 *


 「送気止まったとき、めちゃくちゃ怖かったです」


 二川はそう言った。


 「沢口さんの息が消えて、そのあとにベイルアウトの音がしたんですけど、そのあいだ何も聞こえなくて」


 「何秒あった」


 「わかんないです。長かったです」


 *


 私は三秒だと思っていた。


 あとで記録を見たら、四秒だった。


 *


 「平田さんが呼んで、そのあとにもう一回、沢口さんって」


 「平田さんの声だったか」


 「はい」


 二川はそう言ってから、少し考えて、言い直した。


 「平田さんの声で、平田さんじゃない喋り方でした」


 *


 平田さんは何も言わなかった。


 言わずに、コンプレッサーの吸気フィルターを外して、中を見ていた。


 葉と泥が詰まっていた。雨のときに吸ったのだろう、というのが平田さんの説明だった。


 実際、そのとおりだったと思う。


 *


 夕方まで、水位は下がらなかった。


 ポンプ車は四台とも回っていた。一時間に七千二百立方メートル抜いて、二十センチ。


 どこかから、同じだけ入ってくる。


 *


 市の人が、水位計のグラフを見せてくれた。


 三十分ごとに記録されている。折れ線が、ゆっくり右下がりになっている。


 ゆっくりすぎて、下がっているようには見えない。


 *


 一か所だけ、段がついていた。


 *


 夜中の、二時十四分から二時四十二分。


 そこだけ、線が階段のように落ちている。三十分足らずで、四十センチ下がっていた。


 *


 四十センチというのは、ポンプ車四台を二時間回して、やっと下がる量だ。


 その二時間ぶんが、二十八分で落ちている。


 *


 「これは」


 私が指すと、市の人は身を乗り出して、それからしばらく黙った。


 「ポンプ車、この時間はまだ来てないんですよね」


 「来てないです。四時からです」


 「じゃあ、なんですかね」


 「センサーの誤作動かな」


 *


 二時十四分から二時四十二分。


 二十八分だ。


 *


 私が一度目に潜っていた時間だった。


 *


 誤作動だと思う。


 水位計は水に浸かる機械だ。浸かれば狂う。前の晩は、まだ水が動いていた。


 私はそう考えた。考えて、それ以上は考えないことにした。


 *


 家に帰って、風呂に湯を張った。


 冷えていた。九月でも、地下の水は冷たい。


 *


 湯船に入る前に、私は水面を見た。


 湯気が立っていて、何も映らなかった。


 映らないというのは、いいことだった。


 *


 湯を抜くとき、栓を引いた。


 排水口のところで、水が渦になる。


 渦は、右回りだった。


 *


 真ん中に、穴があく。


 水が落ちていく音がして、湯船の底が見えてくる。


 私はその渦を、最後まで見ていた。


 *


 見ていたのは、覗きたかったからではない。


 覗かれていないことを、確かめたかったからだ。


 *


 その夜も、私は喉が渇いた。


 台所で水を汲んだ。


 汲んでから、私は流しの明かりを消した。


 暗ければ、映らない。


 *


 映らないことにして、飲んだ。

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