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水位  作者: 真核生物
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第一話 上がる

 水は、上から来ると思われている。


 *


 実際には、下から来ることのほうが多い。


 川が溢れる前に、町のほうが先に溢れる。降った雨が下水に入りきらなくなって、行き場をなくして、地面に戻ってくる。内水氾濫という。


 マンホールから水が噴くのを、見たことがある人は多いと思う。あれだ。


 水は低いところへ行く。低いところというのは、この国では、たいてい地下だ。


 *


 九月十一日の夜、南川市には一時間で百十ミリの雨が降った。


 私はそのとき、事務所の二階で伝票を整理していた。屋根を叩く音が途中から音ではなくなって、面になった。窓の外が白い。街灯が滲んで、輪郭がなくなっている。


 平田所長が下から上がってきて、消防から電話だ、と言った。


 *


 市営の中央地下駐車場が水没した、という話だった。


 地下二階まである駐車場だ。私も何度か停めたことがある。市民会館の下にあって、スロープが二本、道路から下りている。


 行方不明者が一名いる。設備点検の業者が、地下二階に下りたまま出てきていない。


 「潜れるか」


 平田さんはそう言った。


 私は、水位を聞いた。


 *


 水位を聞くのは、深さを知りたいからではない。


 止まっているのか、まだ上がっているのかを知りたいからだ。


 上がっている水には入らない。それだけは決めている。


 平田さんは「止まったそうだ」と言った。


 止まった、というのは、上がりきったという意味でもある。


 *


 潜水士というのは、そんなに多くない。


 市内で、潜水士免許を持って実際に潜っている人間は、うちの会社に三人いるだけだ。あとは県外から呼ぶことになる。


 橋脚の点検と、水門の補修と、堰の土砂上げ。それが普段の仕事だ。年に一度か二度、こういう電話が来る。


 *


 現場に着いたのは、日付が変わってからだった。


 道路がまだ水を被っていて、消防車の赤いランプが水面に伸びていた。伸びて、揺れて、切れる。


 スロープの入口に、黄色いバリケードが並んでいた。その向こうは、ただの黒い面だった。


 入口の看板が半分沈んでいる。「南川市営中央駐車場」の「中央」までが水の上に出ていた。


 *


 人が集まっていた。


 こういう場所には必ず人が集まる。傘をさして、少し離れたところから見ている。誰も声を出していない。


 水を見ているのだと思う。


 道路の上に水があるというのは、それだけで見る価値のあるものになってしまう。私も昔は見ていた。


 *


 消防の指揮所で、若い隊長が図面を広げていた。


 地下一階が三百台、地下二階が二百七十台。地下二階は完全に水没している。地下一階も天井まで五十センチほどしかない。


 水位はまだ下がっていない、と隊長は言った。


 排水ポンプは動いている。だが外の水位が下がらないので、汲んでも戻る。


 *


 「入口の止水板は」


 私が聞くと、隊長は少し黙った。


 「動かなかったそうです」


 点検で不具合が出ていたが、修理されないままになっていたらしい。四年近く、そのままだったという話が、あとから出てきた。


 *


 水が入り始めてから満杯になるまで、十分もかかっていない。


 監視カメラの映像が残っていた。スロープの奥から、茶色い面がせり上がってくる。車のあいだを流れるのではなく、床全体が持ち上がるように上がってくる。


 人が走っている姿は映っていない。


 映っていないというのは、逃げ切ったという意味ではない。


 *


 映像はその十秒後に切れる。


 カメラの電源が水に浸かったからだ。


 最後のコマは、天井の蛍光灯が水面に映っているところだった。灯りが二つある。ひとつは本物で、ひとつは映ったほうだ。


 水が上がるにつれて、二つの灯りが近づいていく。


 近づいて、重なったところで、映像が終わる。


 *


 行方不明者は柏木さんという人だった。五十五歳。


 排水設備の点検で、地下二階のポンプ室に下りていた。


 水位が三十センチを超えると、外開きの扉は水圧で開かなくなる。内開きなら四十七センチ。国交省の資料にそう書いてある。


 人の力ではどうにもならない。押しても引いても動かない。


 *


 三十センチというのは、膝の下だ。


 立っていられる。歩ける。走ろうと思えば走れる。水音を立てて、普通に動ける。


 その水位で、扉はもう開かない。


 *


 外開きの扉は、外側の水に押されて閉まる。


 両側に同じだけ水があれば開く。押し合う力が釣り合うからだ。だから水中では扉が開く。


 だが、片側だけが水に浸かっているあいだは開かない。


 三十センチの水が、扉一枚ぶんの面積を押している。それだけで、人の腕では動かない。


 *


 ポンプ室は、いちばん低いところにある。


 水を集めて外へ出すための部屋だから、そういう場所に作る。


 地下二階の、その中でもいちばん低いところに、柏木さんはいた。


 *


 携帯は通じない。地下だからだ。


 駐車場には非常電話がある。だが、ポンプ室の中にはない。


 扉を叩いても、上には聞こえない。コンクリートは音を通さない。


 *


 水は十分で天井まで来る。


 膝、腰、胸。その順に来る。


 最後の三十センチは、天井と水面のあいだだ。顔を上に向けて、鼻から上だけを出す。


 天井には、コンクリートと、配管と、たぶん蛍光灯がある。


 *


 その姿勢のまま、どれくらいの時間があったのかは、わからない。


 わからないほうがいい、と私は思っている。


 思っているのに、指揮所で図面を見ているあいだ、私はずっとその時間のことを考えていた。


 *


 バリケードの外に、女の人が立っていた。


 消防の人が一人ついていた。傘を持っていたが、さしていなかった。


 柏木さんの奥さんだ、とあとで聞いた。


 私は目を合わせなかった。


 合わせると、約束をしたことになってしまう。私は、約束ができる立場ではない。


 *


 潜る準備をした。


 送気式にした。コンプレッサーから空気を送るやり方で、背中のタンクだけで潜るよりも、空気の心配をしなくていい。そのかわりホースが繋がる。


 水中電話と、信号索。二川が連絡員についた。


 高気圧作業安全衛生規則で、連絡員を置いて潜水者の状態を常時監視することになっている。二川は今年で三年目だ。


 「沢口さん、無理しないでください」


 「しないよ」


 *


 潜る前に、器材を全部見る。


 高気圧作業安全衛生規則で、送気設備は定期に点検することになっている。だがそれとは別に、潜る本人がその場で見る。


 ホースの継手。圧力計。予備のタンク。


 これは決まりだからやるのではない。自分が息をするものだから見る。


 二川が「圧、いいです」と言った。


 *


 スロープから入った。


 最初の三メートルで、視界がなくなった。


 濁水というのは、暗いのとは違う。ライトをつけると、光が水中の粒に反射して、白い壁になる。目の前が明るくて、何も見えない。


 だから照らさない。首を振って、手で探る。


 *


 水の中で聞こえるのは、自分の息だけだ。


 吸うときに、レギュレーターが鳴る。ごうっ、という低い音がして、それが止むと、吐く音になる。ごぼごぼと、耳のうしろで泡が抜けていく。


 この音は、体の中で鳴る。


 だから、自分の呼吸が速くなったことは、すぐにわかる。


 わかるが、止められない。


 *


 水温は思ったより低かった。


 地下は日射を受けない。表の雨水が入っただけの水は、九月でも冷たい。


 手袋越しに、壁の凹凸が伝わってくる。塗装の剥がれ。誘導表示の突起。


 ガイドロープを結びながら進んだ。帰り道は、これしかない。


 *


 スロープを下りきると、天井がある。


 これがいちばん怖い。


 海なら、何かあれば上に逃げられる。浮けばいい。だが天井のある水中では、上は壁だ。


 出口は、来た道だけになる。


 *


 吐いた息は、上に行く。


 行った先に天井があるので、そこで止まる。止まって、溜まる。


 しばらく潜っていると、自分が通った跡が天井に残る。銀色の面になる。


 ライトを当てると、鏡のように光る。


 *


 下から見ると、それは水面に見える。


 顔を出せそうに見える。手を伸ばせば、空気があるように見える。


 実際、そこには空気がある。厚さ二センチか三センチの、自分が吐いた空気が。


 *


 私は一度だけ、そこに手を入れたことがある。


 別の現場だった。指先が空気に触れて、手袋の色が見えた。


 そのとき、上がりたい、と思った。


 思っただけで、体が浮きかけた。


 *


 あれ以来、天井は見ないようにしている。


 見ると、上がれると思ってしまう。


 上がれると思ったところで、コンクリートがあるだけだ。


 *


 車があった。


 手が屋根に触れて、そこからボンネットへ回った。ワイパーが立っている。誰かが立てたまま置いていったのだろう。


 列に沿って進んだ。ミラーが等間隔で指に当たる。等間隔で当たるということは、まだ列の上にいるということだ。


 二台。四台。七台。


 *


 車の中は、見ないようにしていた。


 見ようとしても見えないのだが、それでも顔を近づけない。窓のそばを通るときは、少し体を離す。


 車の中に人がいるかどうかは、あとで確認することになっている。まず人が動けた範囲を探す。順番が決まっている。


 順番が決まっているのは、ありがたいことだ。


 決まっていなかったら、私は一台ずつ覗いていただろうし、そのほうがきっと、あとまで残る。


 *


 八台目のところで、体が止まった。


 前に進もうとしたのに、進まない。


 後ろに引かれている。


 *


 ホースだ、とすぐにわかった。


 わかったが、体は先に動いていた。私は反射的に、もう一度前に出ようとした。


 それがいちばんまずい。引っかかったものは、引くほど締まる。


 *


 息が速くなった。


 速くなると、吸う量が増える。増えると、吐く量も増える。天井に泡が溜まって、視界がさらに悪くなる。


 悪くなると、また息が速くなる。


 *


 私は動きを止めた。


 止めて、三つ数えた。


 一。二。三。


 数えているあいだも、体は上に行きたがっていた。上には天井がある。それを知っているのに、体のほうは知らない。


 *


 ホースをたどった。


 自分の右腰から後ろへ。手を送っていくと、二メートルほどのところで、硬いものに巻きついていた。


 ドアミラーだった。


 畳んでいない、開いたままのミラー。その付け根に、ホースが一周している。


 *


 外そうとして、手を伸ばした。


 届かない。あと十センチというところで、ホースが張ってしまう。


 私は一度、前に戻った。ホースを緩めるために、引っかかった側へ近づく。近づくというのは、出口から遠ざかることだ。


 わかっていて、そうした。


 *


 そのあいだ、信号索が二回引かれた。


 二川だ。返事をしろ、という意味だ。


 私は一回引き返した。無事、という意味になる。


 嘘ではない。無事だった。


 *


 ミラーからホースを外すのに、三十秒か、四十秒かかった。


 あとで潜水記録を見たら、そこは二分になっていた。


 *


 外れたとき、私は少し笑った。


 水の中では笑えないので、口の形が変わっただけだ。それでもレギュレーターが少し外れて、水が入った。


 鼻から水を出して、また噛み直した。


 *


 柏木さんには、ホースがなかった。


 当たり前のことを、私はそこで考えた。


 扉の向こうに閉じ込められた人には、外から繋がっているものが何もない。


 私のホースは、地上まで続いている。上には二川がいて、コンプレッサーが回っている。


 それが、いまの私と柏木さんの違いのすべてだった。


 *


 「沢口さん、位置は」


 水中電話で二川の声がした。水の中で聞く声は、頭の内側で鳴る。


 「地下二階の、たぶん西側。車を八台数えた」


 「了解です。空気、大丈夫ですか」


 「大丈夫だ」


 *


 水中電話は、たまに途切れる。


 水中では音の伝わり方が変わるので、こもったり、伸びたりする。二川の声が、二回聞こえるように感じることもある。


 最初のうちは驚いたが、慣れた。


 慣れたと思っていた。


 *


 ポンプ室の扉を探した。


 図面では、いちばん奥の壁沿いにある。私は壁に手をつけて、それを離さないようにして進んだ。


 壁を離すと、方向がわからなくなる。上下すらわからなくなることがある。


 冗談ではなく、天井を床だと思って歩こうとした潜水士の話を、私は聞いたことがある。


 *


 柱に手が当たった。


 図面では、柱は六メートル間隔で並んでいる。数えていれば、自分がどこにいるかがわかる。


 一本。二本。三本。


 三本目のところで、私は一度手を止めた。


 柱と柱のあいだが、六メートルより長かった気がした。


 もう一度たどり直した。今度は合っていた。


 数え間違えたのだ、と思った。


 *


 扉に手が届いた。


 把手を引いた。動かない。


 水中では水圧の差がなくなるから、本来なら開くはずだった。動かないということは、何かが挟まっているか、変形しているかだ。


 押した。少し動いた。数センチ。


 その隙間に、指を入れた。


 *


 指の先に、布のようなものが触れた。


 作業服かもしれない、と思った。


 私はもう一度押して、隙間を広げようとした。


 そのときライトが手から離れて、床に落ちた。


 *


 落ちたライトが、下から上を照らした。


 水中の粒が全部光って、白い雲みたいになった。


 その雲の向こうに、面があった。


 *


 顔だった。


 私のほうを向いていた。


 *


 私はライトを拾おうとして、体勢を崩した。


 拾って、そちらに向けた。


 何もない。壁があるだけだった。


 *


 自分のマスクに映ったのだ、と思った。


 水中でライトが跳ね返って、マスクの内側に自分の顔が映ることがある。ゴーグルの中は空気だから、条件が揃えば映る。


 私はそう説明して、自分を納得させた。


 納得させてから、扉に手を戻した。


 *


 布は、シートの端だった。


 どこかから流れてきた車のシートカバーが、扉に噛んでいた。


 引き抜いて、扉を押した。


 ポンプ室の中には、何もなかった。


 *


 「沢口さん、二十八分です」


 二川の声がした。


 浅いから減圧の心配はない。この深さなら、そこは気にしなくていい。


 気にするのは、集中がもたないことのほうだ。


 「上がる」


 *


 ガイドロープをたぐって戻った。


 行きは長かったのに、帰りは短い。いつもそうだ。


 スロープの途中で、頭が水面に出た。


 空気が、雨の匂いだった。


 *


 柏木さんは、いなかった。


 ポンプ室にも、その手前の通路にも、車の列のあいだにも。


 「明るくなってからもう一回入ります」


 私はそう報告した。


 消防の隊長は、頭を下げた。


 *


 バリケードの外に、まだ女の人が立っていた。


 もう傘は持っていなかった。誰かが預かったのだろう。


 私が上がってきたのを見て、少しだけ前に出た。前に出て、それからやめた。


 私が首を横に振ったわけでもないのに、やめた。


 顔に出ていたのだと思う。


 *


 器材を洗った。


 消防が引いてくれたホースで、スーツとレギュレーターを流す。塩水ではないから楽なはずなのに、指がうまく動かなかった。


 二川が「代わります」と言ったので、任せた。


 *


 しゃがんで、顔を洗おうとした。


 アスファルトの窪みに、水がたまっていた。街灯が映っている。


 覗き込むと、私の顔があった。


 *


 私は瞬きをした。


 水面の顔は、しなかった。


 *


 「沢口さん」


 二川に呼ばれて、顔を上げた。


 もう一度見たときには、ただの水たまりだった。街灯と、私の輪郭と、雨の輪。


 「なんでもない」


 *


 帰りの車の中で、二川が言った。


 「明日、地下一階の水も抜けますかね」


 「抜けるだろう」


 「よかったです」


 二川はそれきり黙った。


 ワイパーが動いていた。もう雨は止んでいたのに、私はしばらく気づかずに動かしていた。


 フロントガラスの水滴が、拭かれるたびに形を変える。


 変わるたびに、何かの形に見えた。


 *


 その夜、私は何度も目が覚めた。


 喉が渇いていた。


 台所で水を汲んで、コップを口に運ぶ前に、私は水面を見た。


 見てから、飲んだ。

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