序章 奴隷にされた日
血の匂いが、夜の空気に溶けていた。
柳夕麗は地面に横たわったまま、ほとんど動かない。
床に広がった黒髪。赤塗れた紺のセーラー服。破けた黒いタイツ。
さっきまでの張りつめた気配が嘘みたいに消えていて、ただ静かに、壊れかけの人形みたいに倒れていた。
「柳、さん」
呼びかけても、反応はない。
近づくなって、ずっと思っていた相手だ。関われば厄介なことになる、と。
でも、このままじゃ本当に――
「……ッ!」
小さく息を吐いて、一歩だけ踏み出す。
その瞬間だった。
「――ッ!?」
腕を掴まれた。
思ったよりも強い力。ぐいっと引き寄せられる。視界が一気に近づいて、目の前に柳の顔が迫った。
焦点の合わない氷の瞳が、まっすぐ僕を見る。
「待ってた」
かすれた声。意味を考える間もなく、
「んむっ!?」
唇が重なった。
冷たい。最初に感じたのは、それだった。まるで冬の水に触れたみたいな温度が、じわりと広がってくる。
でも、それだけじゃない。
触れた場所から、柳の舌が入り込んできた。
「んレロ……」
冷たいのに、やけに生々しい感触が、輪郭をなぞるみたいに広がっていく。
何かを探るように、口の中を撫でられて、じわじわと奥へ押し込まれる。
「ふ……ん……」
――侵されてる。
直感的に思った。
ただ舌を入れているだけじゃない。僕の中を楽しむように踏み込んでくる。
そのたびに、何かが削られていく。
身体の芯が、引き抜かれていく。
「……ちゅ、む……」
力が入らない。抵抗したいのに、腕も指先も言うことを聞かない。それどころか、触れられている場所から熱がじわりと広がって、身体の奥を鈍く痺れさせる。
なのに。
その侵入を、どこかで拒みきれない自分がいる。
ぞくり、と背筋が震えた。
冷たいはずの接触が、妙に離れがたく感じる。奪われているのに、満たされるような錯覚が混ざってしまう。
おかしい。こんなの、絶対おかしい。
けど――
「ん、ふ……」
小さな吐息が、直接伝わってくる。
細い指が、さっきよりも強く僕を掴む。
力が戻ってきているのが、はっきりわかった。
その分、僕の方は。
視界が揺れて、足の感覚がなくなり、地面に倒れ込む。
――持っていかれた。
はっきりと理解した。
これは、ただのキスじゃない。
僕の生気を、直接吸い上げている。
ようやく唇が離れた瞬間、息が漏れた。
空気を吸えるはずなのに、うまく呼吸が整わない。それどころか、胸の奥にぽっかりと穴が開いたみたいな感覚だけが残っている。
足りない。そう思ってしまった自分に、ぞっとする。
「ねえ」
柳が、僕を見下ろしていた。
「ずっと私のこと、つけ回したでしょ」
その声が、妙に近くて。
「ストーカー。だから」
逃げなきゃいけないのに、動けなくて。
「罰として、今日から奴隷ね?」
拒否しないと。そう思っているのに。
「よろしく――天目一くん♡」
頷きそうになる自分が、何よりも怖かった。




