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Monseigneur Cochinchine V.A.  作者: 六福亭
4/16

4 龍

 天賜は釈放された二人を連れて、自分の屋敷に帰った。どこまでも続く大理石の外壁に囲まれた屋敷は朱塗りの壁に金の屋根で、目に痛いほどの鮮やかさを誇っていた。中庭では、立派な植木をカンボジア人らしき格好の使用人が剪定している脇を、悠々と巨大な陸亀が散歩していた。天賜は植木にたわわに実ったマンゴーやレイシをもぎ、ついてくる二人に無造作に放って寄越した。空腹だった二人はありがたくいただいた。

「名前は」

 天賜は振り返りもせずに問いかけた。

「ジョルジュ・シャトロンです」

「ピエール・ピニョーです」

「知らん名だな。ピゲルは元気かね?」

 ピエールは、天賜がピゲル猊下を知っていることに驚いた。が、代牧はあちこちに顔が知れていたから、天賜とも面識があってもおかしくはない。

 ピゲル猊下は、精力的にどこへでも出かけていく聖職者だった。年に何度も、ポルトガルの拠点があるマカオに行って新米司祭の叙階式に顔を出し、パリの神学校や司祭の故郷に送る書簡の束を抱えて自らアユタヤの通信連絡館まで出かけ、要請があれば北のトンキン代牧区に宣教の助っ人をしに行った。多忙のため肝心のコーチシナではいささか放任主義的ではあったものの、ちょっとしたことですぐに会いに来てくれる司教は、一般信徒からも人気が高かった。

「ピゲル猊下は、……亡くなりました」

 ごてごてと繊細な装飾のある、大きな扉を開きかけたところで、天賜は動きを止めた。

「そうか。残念だ……私と彼は友人だった」

 彼が屋敷に入ると、召使いの女が駆け寄って靴を履き替えさせた。よく日に焼けた腕や胸元に金の飾りをつけた、美しい女だった。続いてピエールの側に彼女がやってきたので、彼はどぎまぎしてしまう。その様子をジョルジが声を殺して笑っていた。

 二人が通されたのは、獣の皮を何枚も敷いた広間だった。大きな寝椅子に天賜がゆったりと座り、二人に背もたれのない床几を勧めた。

 ピエールが腰を下ろすか下ろさないかのうちに、天賜が口を開いた。

「で、どっちが次期代牧だったかな?」

 ジョルジュが素早く返事をした。

「こいつです」

 指差され、ピエールは曖昧に笑みを浮かべた。

「ピゲルに指名されたのかね?」

「誰も指名することなく、猊下は亡くなりました」

 あれほど元気だったピゲル猊下が倒れてから息を引き取るまで、あっという間だった。ヴィランパトナムに着いた時点で猊下が熱を出していることは知っていたが、誰もこんな結果を想像していなかった。

「後継者候補は君しかいなかったのかね?」

 天賜は、宣教師たちの事情をよく知っている風に尋ねてくる。若い男が天賜の側に来て、小声で何やら報告した。天賜は「コーチシナでの商いの報告だよ」と面倒そうに二人に説明した。

 ジョルジュが背筋を伸ばし、天賜のどんぐり眼をまっすぐ見据えた。

「もう一人、代牧の座を狙っている奴がいる。俺はこのピエールを、そいつに勝たせてやるためにコーチシナに戻ってきた」

「クレインペターだろう」

 天賜は二人の間抜けな驚き顔を笑った。

「あらゆる情報が自分から私の耳に入ってくるようでなければ、この動乱の地での商売は始まらんよ」

「ならば話は早い」

 ジョルジュは立ち直るのが早かった。にやにや笑っている。

「代牧を司祭の中から選び出す基準は、宣教会のお偉方しか知らないはずだ。だが、信徒たちの間で、ある噂が流れている」

 龍だ__とジョルジュは二人に重々しく告げた。

「龍?」

 寝耳に水のピエールだけでなく、天賜も眉をひそめている。

「コーチシナで、龍を見ることができた司祭だけが、代牧の地位に昇ることができる、だと。そしてクレインペターは、龍を見たことがあるらしい」

 本人が信徒たちを集めて盛んに吹聴していたのを、ジョルジュは目撃したのだと言う。

「では評判通り、クレインペターの昇進が確実なのだな」

 天賜が白けて組んでいた手をだらりと落とした。

「何かと思って話を聞いてやれば、下らない。子どもでももっとましなねだり方をする」

「まだ話は終わっちゃいないぜ。ピエールにも龍を見せてやるんだ。そうすれば、奴とピエールは対等だ」

「思い上がりだ」

 天賜は切り捨てた。

「経験も年齢も__人望の差も大きくつけられた相手に、龍を見たごときで並び立てると思っているのなら大笑いだな。クレインペターの評判はよく耳にしたぞ。大越人にも華人にもいい顔をする人気者だ。だが、君たちはどうだ? 名前も、存在すらも私は知らなかった」

 天賜は、ジョルジュでなくピエールをひたと見つめた。

「他の司祭に勝る何を、お前は持っているのか?」

 ピエールは、その問いにすぐに答えることができない。

 胸の奥底、最も心の柔らかく素直な部分は、自分がまだ何者になれる力もない、ちっぽけな存在だと認めている。しかし、法衣のように纏った分厚い自尊心は、自分は偉大な人間になれる、誰にも負けない可能性があるのだと滑稽にも叫んでいる。そして理性は、殊更に権力の座を望むのは聖職者として良くないと戒める。ただ一心に神の教えを広めるため、司祭の道を選んだのではなかったか。だのにたかが代牧になりたいがために危険を冒し、先輩司祭の言いつけを破って。何のために__誰のために自分がここにいる?


 天賜はまだ黙って待っている。ピエールは何か言おうとしたけれど、言葉が見つからない。ただジョルジュに手を引っ張られてここまで来た、自分の弱さを見透かされている気がして恐ろしかった。


 その時、ジョルジュがピエールの背中を鋭くつついた。驚いて隣を見ると、ジョルジュは真面目な顔で、目だけ笑いかけていた。天賜と同じように、彼もピエールが自分の言葉で語るのを待っていた。

「私は」

 天賜がすっと目を細める。

「代牧になる資格があるのか、認められるに足る能力が本当にあるのか……分からない。だけれども、少なくとも一人、応援してくれている人が今正に側にいるから……その信頼だけは裏切らない人間でありたい」

 迷いながら、言葉を探してようやく言い切るまで、天賜もジョルジュも口を挟まなかった。天賜は冷徹な目で最後まで聞いて、ピエールの震える指先にちらりと目をやった。ピエールが大きく息を吐いた時、ジョルジュがもぞもぞと椅子の上で身じろぎした。珍しい彼の動揺を見て、照れ臭かったのだろうかとピエールは思った。

 天賜は不意に立ち上がり、小さな銅の鐘を振って召使いを呼んだ。

「馬車の用意を」

 司祭たちは身を乗り出した。天賜がすかさずぎろりと睨みつける。

「ただで手を貸すのではないぞ。お前たちのどちらかが代牧になろうがなるまいが、この貸しは様々な形で返してもらおう」

「いいとも! じゃ、協力してくれるんだな?」

 ジョルジュの声は弾んでいた。

「家の中ででしゃべっているだけでは何の話も進まん」

 部屋を出た天賜に二人がついていく。天賜は召使いに持ってこさせた豪華な金糸模様の上着を羽織り、宝石を散りばめた鞘に収めた刀を手に取った。天賜の背中に描かれた獰猛な虎が二人を威嚇する。

「コーチシナに行くんですね?」

「他にどこに行くというんだ」

「や……龍が見れる場所、というと……?」

「昔から大越は龍の国だ。龍と仙人が交わってできたのが大越人の先祖という伝説があるくらいだからな」

 続きは馬車の中でしよう。

 天賜が、屋敷に残る部下たちに命令を出しに行く間、二人の司祭は中庭で彼を待っていた。

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