2 シャムの囚人
……エリザ、アンヌへ。皆元気でいるのだろうか?
「皆、まさか……私がシャムの穴ぐらに閉じ込められているとは、夢にも思わないだろうな」
窮屈な姿勢で、真っ暗闇の中にうずくまる男__ピエール・ジョセフ・ジョルジュ・ピニョー・ドゥ・ベーヌは、憮然として呟いた。
「まあそうぶすくれるなよ」
じめじめとしたもろい土の壁に、場違いな明るい声が響いた。
ピエールは、自分の肌にぴったり密着するほど近い距離にいる男を、腹立ち紛れに小突いた。痛い! と呻く声も騒々しく、どこか陽気な響きを含んでいる。
「シャムの役人ども、無茶するよな。こんな、ただ地面をちょっと掘っただけの穴の中に二人も放り込むなんて」
「どうでもいいけど、足をどけてくれないか。お前の足が、さっきから私の膝にのっているんだ」
「おっと、失礼」
しばし二人はもぞもぞと強張った体を上げたり下げたりして奇妙な体勢を取り、苦心の末に互いからわずかばかりの距離をとることに成功した。……が、たちまちピエールが悲鳴を上げた。
「な、何だ?」
もう一人の男も驚いてのけ反る。ばつの悪い思いをしながら、ピエールは報告する。
「みみずがいた」
相方は一瞬ぽかんとして、それから大笑いした。
「笑うな、ジョルジュ!」
「司祭ともあろう者が、みみずが怖いとはね!」
「怖かった訳じゃない! ただちょっと……驚いただけだ」
さっき土の壁に触れた時、手にまとわりついてきたぶよぶよと軟らかい感触が本当に不気味だったのだ。
「宣教師たるもの、そんなことでびびってちゃいけませんぜ」
「うるさい」
「特にお前は、代牧になるんだからな」
ピエールは、呆れてジョルジュの顔があるらしい方向を見る。
「まだそんなことを言っているのか!」
ジョルジュが事もなげに口にした言葉__代牧。宣教師たちが憧れる栄光の座である。
ピエールとジョルジュはが、パリ外国宣教会に所属している司祭であることは察せられる通りであろう。彼らは一七六六年九月末にコーチシナ(ベトナム南部)に赴任し、宣教活動を行っていた。当時のベトナムに滞在する西洋人司祭はその八割がパリ外国宣教会の人間であり、残りの二割がスペインのドミニコ会やフランシスコ会である。かつて最初にコーチシナの地に降り立った宣教師はイエズス会士であったが、彼らの宣教方針の迷走を布教聖省に糾弾されて以来、イエズス会士はフランスで新しく発足した宣教会に追い落とされるようにしてアジア宣教事業の第一人者の座を明け渡した。
故に、コーチシナにおけるキリスト教活動の最高指導者__コーチシナ代牧司教の座は、ずっとパリ外国宣教会員のものである。
代牧司教とは一体何か。正式名称は、使徒座代理区長という。代牧司教の説明をするにはまず、「代牧区(使徒座代理区)」という異教の国における仮の教区制度についてさわりだけでも知ってもらう必要がある。
フランスやスペイン、ポルトガルのようなカトリックの国々では、一般的に、全国に点在している教会を教区といういくつかの単位にまとめ、教区長を担う司教が全ての宗教活動を管理する。一方、まだキリスト教が根付いていない「未開」の国でも同じような管区制度が近年導入された。一つの国の中でいくつかの地区に分割し、宣教活動や福祉事業を行う単位を細分化した。
ピエールたちのベトナム(当時は大越国である)では、北部は東トンキン及び西トンキン代牧区、中部では安南代牧区、そして南部ではコーチシナ代牧区が設置されている。この代牧区における一切の決定権を握るのが代牧司教である。何しろ代牧には、ローマ教皇に代わって異国での宣教事業を円滑に運営する重大な責任がある。ヨーロッパから遠く離れている分裁量の自由はあるが、迫害の危機に晒される緊迫感も常につきまとう。
ピエールたちが赴任したコーチシナの代牧は、ピゲル猊下という立派な人格の老翁だった。
一七七〇年、ピゲル猊下は熱病と疲労で死んだ。人生の大半をコーチシナ宣教に捧げた聖者が目を閉じたのは、残念ながら、彼が愛したコーチシナの美しい教会ではなく、インド東岸のヴィランパトナムという村でのことだった。彼が亡くなる前年、コーチシナでの度重なる迫害の危機から、宣教師たちと信徒は故郷を捨てて逃げてきたのだ。しかし、無茶な旅程と落胆は、老代牧の体を死に引きずり込んだ。
ピゲル猊下の葬儀が終わった後、聖職者や信徒たちの専らの関心の的は一つだった。__誰が後継の代牧になるのか?
「代牧は、お前しかいない」
穴の中で、ジョルジュはきっぱりと断言した。葬儀の直後にも全く同じことを彼は言っていた。
「俺は、お前をなんとしても代牧にしたいんだよ」
「馬鹿な」
ピエールは苦笑いしながら、とうとう土の壁にもたれかかった。みみずを恐れて姿勢を正しているのにいい加減疲れた。
「その結果が、今さ。生き埋めだよ。私を巻き込まないで欲しかった」
「いいや、俺はまだ諦めてないぞ!」
ジョルジュが叫ぶと、頭上からくぐもった怒声が聞こえてくる。シャム語だ。うるさかったのだろう。
「諦めろ。今ごろ、クレインペター司祭が代牧に任命されているさ」
「いや、そんなの認めない!」
ジョルジュが愚かにも立ち上がろうとしたせいで、壁が崩れてぼろぼろとピエールの顔にも降りかかった。口の中の苦い土くれを吐き出し、ピエールは深い溜息をついた。
クレインペター司祭は、この二人より三十年以上も先にコーチシナにやってきた、大先輩司祭である。ピゲル猊下と何十年も共に宣教を進めてきた友であることから、コーチシナ代牧区では代牧補佐を務めていた。優しく教養もあり、宣教会から高く評価されている。さらに、コーチシナ人信徒からの信頼も大変に厚い。
「俺はあいつが嫌いだ」
「何で」
ジョルジュは不愉快そうに唸った。実はピエールはこの反応に少し驚いていた。ジョルジュはクレインペターと仲良くつるんでいるとばかり思っていたからだ。
「……お前とあいつが会話した後、あいつにどんな顔で睨まれているか知らないのか? 臭いものを鼻先に突きつけられたみたいなひどい顔で、ずーっとお前の背中を見送っているんだぜ。それも、いつもだ」
「初耳だな。まあ、確かに少し怖いけれど」
「上辺だけにこにこ愛想を振りまいて、裏でどんな悪いこと企んでいるか、分かったもんじゃないぜ。あいつはお前が憎いのさ」
「私が何かしたか? そりゃまあ、私はぐずで気も利かないかもしれないけれど__」
「違う。あいつは、お前を妬んでいるんだ」
ピエールは少しの間口をつぐんだ。思いがけず、じんわりと胸に広がった、得体の知れない喜びが口元から溢れ出さないように。
彼の異変には気づかず、ジョルジュは更に言葉を重ねる。
「お前は説教も上手いし、頭が良い。……ずっと一緒に勉強してきた俺が言うんだから本当だぜ。クレインペターは、お前が自分を差し置いてピゲル猊下の後任になるんじゃないかと恐れているのさ」
「買い被りすぎだよ」
「いいや。お前が代牧になった暁に、買い被りじゃないってことを証明してくれるはずだ」
ピエールが、代牧になる時。それは近い未来のことなのか、それとも一生来ないのか。ピエール自身には想像もつかない。
ただ隣の男は、ピエールを信じて疑わないらしい。それどころか、代牧司教という遠い憧れの椅子に手を伸ばすよう、ピエールを急き立てる。
ピエールは、わざと冷淡な声で返した。
「そのためには、まずここから出ないと」
「それなんだよな。シャム人め、まさかここを俺たちの墓穴にするつもりかな」
「やめてくれ!」
背筋が総毛立った。息苦しいのは、穴が狭い上に穴の上に被せられた頑丈な蓋が地上への出口を固く閉ざしているからだ。空気穴もほんの少ししかない。試しに蓋を叩いてみると、うつろな音がした。穴の中から持ち上げることは出来なかった。
ピエールは狭い所が苦手だ。その上、みみずや蛆虫のような足のない地虫は世界で一番嫌いだった。
「こんな所にずっといたら、気が狂ってしまう……」
「物事を明るく考えようぜ。なあ、あの地獄みたいな航海よりは何十倍もましじゃないか」
フランスの港からコーチシナへの長い船旅を思い出したのか、ジョルジュはピエールにも分かるほど大きく身震いした。一方ピエールはそれほど動揺しない。
「ジョルジュも、酔い止めの薬をもらっておけばよかったのに」
「俺は親譲りの医者嫌い薬嫌いでね。口に含んだだけでも麻しんが出る」
くだらない話をしていると、地上で話し声が聞こえ、不意に眩しい光がさっと差し込んだ。目がくらんだ哀れな司祭二人は顔を手で隠し、何度も瞬きをした。ようやく目が慣れてきた頃、二人は強引に穴の中から引きずり出された。