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Monseigneur Cochinchine V.A.  作者: 六福亭
10/16

10 裏切り

 ピエールは呆気にとられてぽかんと口を開けた。

「まさか……彼が」

 男が目を細め、側にいた仲間に小さくうなずきかけた。

「奴に貸しが一つだな……」

「待て」

 ジョルジュが、高文の手をしっかり引いて、盗賊たちの輪の中に割って入った。何の作戦も武器もなく、ただ堂々と彼らの目の前に立っていた。

 ピエールの落胆とは裏腹に、盗賊たちは静まり返った。突然の乱入者ジョルジュを取り押さえようともせずに、黙って様子を見守っていた。尋問をしていた男が、方眉をひょいと上げる。女が彼に向かって囁く。

「清壮、これは……」

「ああ」

 何かが変だ。ピエールはこの状況に違和感を覚え、唇を噛み締めた。側に来た高文がピエールにすがりついた。

 清壮はピエールに向かって尋ねた。

「生きたいか?」

 ピエールは高文とジョルジュを見て、それから答えた。

「ああ、私だけでなくこの二人も」

「ならば、それなりの働きをしてもらわねば」

 清壮はピエールの縄を切った。

「言った通りだ。お前たちの尊敬するクレインペターは我々と手を組んでいた。だが、奴はインドから便り一つ寄越そうとしない」

 ピエールは息を呑んだ。

「……お前がやるべきことは三つだけだ。我々の商品を二倍の値で買い取り、西洋の品物を半分の値で売れ。そして、インドに戻った暁には、裏切り者のクレインペターを始末しろ。それだけだ」

「無理だ! 我々は商売ができない。禁じられているんだ」

「ピゲル代牧に話は通してある」

「猊下は亡くなった」

「では、お前が代牧になれば良い」

 ジョルジュが食い入るように清壮を見つめた。苦い失望がピエールの胸に広がった。

「あなた方が私を代牧にするというのか? 一体何の資格があって……」

 ジョルジュがピエールを制止した。そして、代わりに答えた。

「分かった。あんたらに協力する」

「ジョルジュ!」

「分からないのか。ここまで聞いてしまったら、協力しなければ生きて帰れないぞ」

「だが……宣教方針に反する……」

 ピエールの愚かな頑なさを、盗賊たちが笑った。清壮が一喝する。

「笑うな! 取引相手だぞ」

「まだ私は違う」

「お仲間が承諾しているのに、自分は違うとまだ言い張るのか」

 清壮は優しい声音で尋ねた。

「生きるために仕方のない判断を下した友を、不心得者と蔑むのか」

 ピエールは口を閉じた。横目でジョルジュを見る。彼はひどく辛そうに顔を歪めていた。

 ジョルジュも、盗賊と手を結びたかった訳ではない。そんな当然のことに、何故思い至らなかったのだろう。ここで断ったら自分たちだけでなく幼い高文までもどんなひどい目に遭わされることか__。

 愚かなのは自分の方だ。

「……ジョルジュ、すまない」

 頭を下げると、ジョルジュもうつむいて首を振った。

 誰かがピエールの肩に手を置いた。清壮だった。

「まだ迷いがあるのか。今、取り払ってやろう」

「何だって……?」

 その時影になった清壮が浮かべていた笑みを、ピエールはこの先一生忘れることはないだろう。玩具を見つけて喜ぶ弟妹の笑顔を想起させる、楽しくてたまらない表情だった。「今、笑っていない仲間がいる……文州、洗礼名はクリス!」

 盗賊の中の一人が、逃げだそうとした。だがすぐに周りの者に捕らえられていた。清壮は引きずり出されたその男の腕をつかみ、ピエールの前に突き出した。

「この顔に見覚えはないかね?」

 ピエールは目を逸らした。

「……三年前に、川に落ちて死んだはずの男だ」

「そう、こいつがわざわざ我々の仲間になりたいと志願してきたのもその年だ」

 清壮は、文州の恐怖に引きつった顔をそっと撫でた。

「クレインペターとの取引が上手くいかないことが何度かあった。決まって、お前が近くで働いていた時だ。おおかたお前は宣教会の間者で、こいつらのことも報告するつもりだったのだろう」

「ち……違います! 私は、クレインペター司祭の言いつけで、宣教会の疑いの目を逸らすために……」

「では、クレインペターがお前の雇い主なのだな。残念ながら、彼はもう既に我々の敵だ」

 清壮は地面に突き倒した文州の胸を踏みつけた。

「誰か、このピニョーに刀を貸してやれ」

 ピエールは身震いした。

「何のために?」

「分かっているんだろう。お前が文州を殺せ。これでも、私は情に篤い方でね。三年も苦楽を共にした仲間を直接殺すことはできんのだ」

 大きな刀を握らされ、ピエールは愕然とした。

「人を……しかもキリスト教徒を、殺せと……」

「そうだ。お前には迷いがある。その刀で、文州の命と共に迷いを断ち切れ」

「でも……」

「自分たちとそいつの命、どちらが大事かな?」

 ピエールは、逃れようともがく文州を見下ろした。周囲の盗賊たちがはやし立てる。がんがんと頭の中で警鐘が鳴り響き、平衡感覚が失われていく。

 私はここで、人を殺すのか。司祭として、清く正しく神の為に生きることを、パリでジョルジュたちと誓ったのに。血と罪で魂を汚し、禁じられている取引に手を染め、神に顔向けできない生涯を送るのか__。

 クレインペターは? ピゲルも、同じ体験をしたのだろうか? ピエールのように、盗賊にそそのかされて、生涯続く背徳への罪悪感を薄めるためだけに殺人を。

 文州は、わずかばかりの望みをかけてピエールの目をひたすら見つめていた。目を逸らしたら殺されるとばかりに、目が潤み出しても瞬き一つせずに、刀を持った司祭と睨み合っている。

 もう五分ほど後には、彼は死体となっているのだ。そんな確信めいた悲観がピエールを締めつける。そして自分は、返り血を浴びて、初めて刀を振るった感触に怯えながら、目の前の肉の塊に泣いて詫びるのだ__

「早くしろ」

 清壮が急かす。のろのろとピエールは刀を振り上げた。

 愛する父よ、母よ、クリス……クリス! そうだ、この男もクリスなのだ。弟と同じ名前の男を殺したとフランスの家族が知ったら、どんなにピエールを軽蔑することだろう?

「ジョルジュ、高文……すまない」

 情けないほど引き攣れた声が喉の奥から絞り出た。ピエールは刀の持ち手と刃の向きをゆっくりと変えた。

「私は、地獄に……、」

 シュッと音がして、次の瞬間文州の断末魔の絶叫が轟き渡った。我に返ったピエールの目の前で、ジョルジュが何度も文州の胸に刀を振り下ろしていた。



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