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第10話 謝罪会見いたしましょう【後半】

 アルベルトは立ち上がった。


 逃げない。


 そう決めていた。


 あなたを愛することはできない。


 あの言葉を、なかったことにはできない。

 そう言った口で、今から謝るのだ。


 隣に立つナタリアが、彼を見上げて頷いた。


 大丈夫です。


 声にはならないその合図だけで、胸につかえていた息が通った。


 アルベルトは腰から折れた。


 四十五度。

 深すぎず、浅すぎず。


 五秒。


 一。

 二。

 三。

 四。

 五。


 戻る。


 ガゼルにはならなかった。


「生きています」


「ああ。まだ生きている」


 ローレン侯爵夫妻のやり取りに、張り詰めていた者たちの肩から力が抜けた。


 アルベルトは前を見た。


「この度は、私の配慮を欠いた発言により、ナタリア嬢ならびにご関係の皆様へご不快な思いをさせましたこと、深くお詫び申し上げます」


 緊張を押し込めた声は、大広間の奥までよく通った。


「私は、事実を告げることが誠実だと思っておりました。偽ることなく、自分に約束できないものを初めに伝えることが、相手への礼儀だと考えておりました」


「ですが」


 ローレン侯爵夫人の肩が跳ねた。


 危険語である。


 しかし、アルベルトは飛ばなかった。


「ですが、言葉は、ただ事実であればよいものではありません。どこで、誰に、どのように届くかを考えなければ、誠実のつもりでも相手を傷つけます」


 ナタリアは、そこでようやく指先の力を抜いた。


 逃げていない。

 ごまかしてもいない。

 練習した言葉をなぞるだけで済ませてもいない。


 自分の失敗として、受け止めている。


「私は、それを怠りました。ナタリア嬢への敬意を持っていたつもりでありながら、その敬意が届く形ではありませんでした。場所を誤り、言葉を誤り、配慮を欠きました」


 アルベルトは、もう一度頭を下げた。


「申し訳ございませんでした」


 四十五度。


 五秒。


 戻る。


 今度も、ガゼルではない。


 家令の目が細くなる。


 合格。


 おそらく、そこまでは。


    *


 エヴァンズ侯爵は、すぐには口を開かなかった。


「それで」


 低い声だった。


 その一言で、大広間の空気が一段冷えた。


「謝って終わりか」


「いいえ」


 アルベルトは短く答えた。


「もう一つ、お伝えしなければならないことがあります」


 昨夜の約束では、これは任意発言だった。


 三分以内。

 炎上判定時は即時中止。

 必要に応じて白布使用。


 けれど、これは進行表のための言葉ではなかった。


 あの時置いてしまった言葉を、自分の手で取り除くためのものだった。


「一ヶ月前、初めての顔合わせの席で、私はナタリア嬢へ申し上げました」


 アルベルトは、自分の口でその言葉を言った。


「あなたを愛することはできない、と」


 会場の空気が揺れた。


 エヴァンズ侯爵は表情を変えない。


 ただ、その場にいる者の背筋を凍らせるような圧だけが、音もなく広がった。


「あの時の私にとって、その言葉は嘘ではありませんでした」


 ナタリアは黙って聞いている。


「私は、愛しているという言葉を軽く扱えませんでした。私の両親は、互いを深く愛する夫婦です。父は母のためなら命を差し出すような人で、母は父の帰りが半日遅れただけで世界の終わりのようなため息をつく人です」


 ローレン侯爵夫妻が、ほとんど同時に顔をそむけた。


 私たちを巻き込むな。


 その横顔には、はっきりそう書いてあった。


 だが、息子は続けた。


「私は、そのような愛を、自分には理解できないと思っておりました。誰かをそこまで大切に思うことも、その名を呼ぶだけで心が動くことも、自分にはないものだと思っていました。だから、愛を約束できないと言いました。あなたを欺きたくないと思ったからです」


 アルベルトはナタリアを見た。


 父親でも、親族でも、出席者でもない。


 真正面から、ナタリアだけを。


「けれど、今は違います」


 大広間が完全に沈黙した。


「ナタリア嬢。あなたは、私に謝罪の仕方を教えてくださいました。言葉の順番を、角度を、間を、表情を。人は、間違えた時にどう戻ればいいのかを」


 ナタリアの指先が、膝の上で握られる。


「あなたは、誰かがこれ以上悪い方へ転がらないように、真剣に考える方です。壊れた場の前で立ち止まり、どうすればもう一度向き合えるかを考える方です」


 アルベルトの声に、熱が混じった。


「あなたが笑うものを、覚えていたいと思いました。あなたの好きな本を知りたい。疲れているなら椅子を引きたい。肩の力を抜ける場所が必要なら、私がそうなりたいと思いました」


 ナタリアは、完全に固まっていた。


「あなたが他の誰かに楽しそうに笑いかけるだけで、胸が冷えました。見知らぬ男があなたへ軽々しく声をかけただけで、私は自分でも呆れるほど狭量になりました」


 大広間のどこかで、護衛が咳払いをした。


 あのナンパ事件を知っている者の咳だった。


「愛がなくても尊敬し合える夫婦になりましょうと、あなたは言いました。あの言葉は、あなたの優しさでした。私の最初の言葉を真面目に受け取って、私に無理をさせないように考えてくださったのでしょう」


「……アルベルト様」


「ですが、私はもう、そこにはいません」


 アルベルトはまっすぐナタリアを見た。


「愛がなくてもいいなどとは、もう言えません」


 その声は、大広間の隅まで届いた。


「私は、あなたに自分を見てほしい。選んでほしい。あなたの笑顔を、自分の言葉で引き出したい。あなたが安心して気を抜ける相手に、私がなりたい」


 ナタリアの頬が、ぱっと赤く染まった。


 それを、エヴァンズ侯爵は見ていた。


 娘が、この男の言葉で揺れている。


 それが腹立たしかった。


 あれほど娘を傷つけた口で。

 今さら、選んでほしいなどと。

 都合のいいことを言う。


 そう思うのに、ナタリアの頬に差した色から目を離せなかった。


 妻を亡くした日から、娘は感情を奥へしまい込むようになった。

 その娘が今、この男の言葉で動揺している。


 侯爵の指が、肘掛けを強く押さえた。


「これを愛と呼ぶのなら」


 アルベルトは言った。


「私はもう、あなたを愛しています」


    *


 大広間に、音が消えた。


 ナタリアは、アルベルトを見つめていた。


 昨夜、彼が望んだ任意発言。


 分類は、撤回と今後の方針。


 三分以内。

 炎上判定時は即時中止。

 必要に応じて白布使用。


 そう進行表に書き込んだはずだった。


 けれど今のナタリアには、進行表へ目を落とす余裕がなかった。


 三分を測ることも。

 炎上判定を下すことも。

 白布に手を伸ばすことも。


 全部、頭から飛んでいた。


 謝罪講師でも、危機管理の令嬢でもない。


 ただ、愛を向けられた一人の令嬢として、そこにいた。


「……愛」


「ああ」


「私を、ですか」


「君をだ」


 ナタリアは口を開き、閉じた。


 謝罪なら分類できる。

 撤回なら記録できる。

 今後の方針なら、進行表に落とし込める。


 けれど、愛していると言われた時の胸の熱さは、どの欄にも入らなかった。


 困るより先に、嬉しかった。


 自分に向けられた言葉だと分かった瞬間、胸の奥がほどけた。


 私を、ですか。


 そう聞き返す声が、思ったより頼りなくなった。


「あなたを愛することはできない。あの言葉を撤回します」


 アルベルトは目を逸らさなかった。


「あなたが愛されない前提で、私との未来を考えるのだけは嫌でした」


 撤回。


 その言葉で、ようやく息ができた気がした。


 愛を求めない方が、きっと穏やかにやっていける。

 アルベルト様にも無理をさせずに済む。


 そう思って用意していた未来が、静かにほどけていく。


 嬉しい。


 その気持ちは、たしかにあった。


 けれど、心がまだ追いつかない。


 自分は今、どうしたいのか。

 そこまでは、まだ分からなかった。


 ナタリアは言葉を失っていた。


 頬が熱い。


 困っているのか、戸惑っているのか、嬉しいのか。


 たぶん、全部だ。


 その表情を見て、アルベルトの胸が熱くなる。


 まずい。


 ここで表情を強くしてはいけない。


 告白の締まりが、別の意味で危うくなる。


    *


「アルベルト・ローレン」


 エヴァンズ侯爵の声が、大広間の床を低く這った。


 一瞬で、会場の空気が凍る。


「はい」


「娘を愛せないと言った男が、今さら愛していると言うのか」


「はい」


「都合がいいな」


「はい」


「どの口で言う」


 侯爵の手が腰の剣にかかった。


 大広間から、呼吸の音が消える。


 剣が抜かれる。


 切っ先は、アルベルトの喉元に、触れるか触れないかのところで止まった。


 アルベルトは、逃げられないと思った。


 刃は近い。

 息を吸うだけで、喉の皮膚が切っ先を意識する。


 それでも、ここで引けば終わりだった。


 ナタリアが、自分の最初の言葉を真面目に受け取って、愛されない未来まで用意してくれたこと。


 それが、どれほど苦しかったか。


 それを知ってしまった後で、もう黙ってはいられない。


「この口で言います」


「…………」


「間違えた口です。傷つけた口です。ですが、ナタリア嬢は教えてくださいました。間違えたと思ったなら、相手がまだ聞いてくれるうちに謝るべきだと」


 剣先は動かない。


「だから、この口で謝り、この口で撤回します」


「…………」


「許されたいからではありません。許されるかどうかは、ナタリア嬢と侯爵様がお決めになることです。ですが、私はもう、あの言葉を彼女の前に置いたままにはできません」


 剣先はまだ喉元にあった。


 あと少し動けば、血が出る。


 それでもアルベルトは、最後まで目を伏せなかった。


 エヴァンズ侯爵は、黙ってその顔を見ていた。


 若者の顔色は白い。

 恐怖もある。

 喉元の刃を意識していないはずがない。


 それでも、そこに立っている。


 大広間の誰かが、ごくりと喉を鳴らした。


 侯爵はまだ剣を下ろさない。


 怒りはある。

 疑いもある。

 娘を傷つけた男を、このまま認めるつもりなど毛ほどもない。


 だが、目の前の若者は、自分の言葉から逃げようとしていなかった。


 その覚悟だけは、見えた。


 長い沈黙のあと、侯爵は剣を下ろした。


 鞘へ戻る音が、かちりと響く。


 その音で、大広間の全員が息を思い出した。


「ナタリア」


「はい」


「お前はどう思う」


 ナタリアはすぐには答えられなかった。


 謝罪会見の進行役としてなら、いくらでも言葉を選べた。

 けれど今問われているのは、令嬢としての自分の心だった。


「……分かりません」


 小さな声だった。


「ですが」


 ナタリアはアルベルトを見た。


「アルベルト様が、あの言葉をそのままにしないでくださったことは、嬉しいです」


「それから」


「愛していると、言ってくださったことも」


 そこまで言って、声が小さくなる。


「……嬉しいです」


 会場のあちこちから、すすり泣きが漏れた。


 侯爵は動かなかった。


 娘が、嬉しいと言った。


 あの子が。


 ならば、ここで処理することはできない。


 許したわけではない。

 認めたわけでもない。

 だが、娘が嬉しいと言ったものを、父の怒りだけで踏みにじることもできなかった。


 侯爵は深く息を吐いた。


「簡単に許すと思うな」


「はい」


「娘を傷つける男に、渡すものなどない」


「はい」


「だが」


 その一言に、ローレン侯爵夫妻が同時に肩を揺らした。


 今度のだがはエヴァンズ侯爵である。


 誰も止められない。


「今日、お前は逃げなかった」


「はい」


「羽音も立てなかった」


 大広間に、ざわめきが走る。


「若者として立とうとしたことだけは、認める」


 ローレン侯爵夫人が涙をこぼした。


 ローレン侯爵も目元を押さえる。


 ナタリアの安堵した表情を見て、アルベルトの表情筋がまた危うくなった。


 危ない。


 ここで気を抜くと、いろいろ台無しになる。


    *


 そこで終われば、まだぎりぎり謝罪会見として成立していたかもしれない。


 だが、アルベルトは懐から小さな箱を取り出した。


「……アルベルト様?」


「今日、私は謝り、撤回しました。そのうえで、あなたにこれを受け取ってほしい」


 箱が開かれる。


 中に収められていたのは、小さな宝石をひとつだけ抱いた指輪だった。


 細い輪に、澄んだ光が宿っている。

 派手さよりも、ナタリアの指に収まる瞬間を大切にして選ばれたような指輪だった。


「二度と、あなたを愛さないなどと言わないための証として」


「……証」


「はい」


「再発防止策、ですか」


「そう受け取っていただいても構いません」


 周囲の者たちは息を詰めている。


 おそらく全員が、侯爵の処理判断を待っていた。


「お父様」


 ナタリアは、箱の中の指輪を見つめていた。


 それから、父へ視線を移す。


 恐る恐るだった。

 けれど、受け取りたいという気持ちは隠せていなかった。


「……好きにしなさい」


 かなり絞り出した声だった。


「ありがとうございます」


「では、お願いいたします」


「いいのか」


「はい」


「今すぐ返事を求めるつもりはない」


「分かっています」


「受け取りたいです」


 ナタリアは視線を落とした。


「……嬉しいので」


 大広間に、静かな爆発が起きた。


 侍女が泣く。

 親族が泣く。

 ローレン侯爵夫人が泣く。

 ローレン侯爵も、もう隠せていない。


 アルベルトは、ナタリアの手を取った。


 触れていいのだと分かった瞬間、胸の奥がいっぱいになった。


 夢ではないかと確かめるように、指先を支える。


 壊れ物に触れるよりも、なお慎重に。


 この手に、自分が指輪を嵌める。


 拒まれなかった。

 引かれなかった。

 受け取りたいと、言ってもらえた。


 それだけで、どうしようもなく嬉しかった。


 指輪は、ナタリアの指にぴったり収まった。


 国家機密級の手帳に記されていた寸法は、正確だったらしい。


「……不思議です」


「何がだ」


「謝罪会見で指輪を受け取るとは思いませんでした」


「私も、当初は謝罪会見で告白するとは思っていなかった」


「危機管理とは、奥が深いですね」


「そうだな」


 アルベルトは、込み上げるものをどうにか抑えた。


 嬉しそうな顔をしすぎるな。


 会見の締めを、これ以上おかしな方向へ持っていくわけにはいかない。


 ナタリアは頬を染めたまま、指輪の嵌まった手を引っ込めずにいる。


 侯爵は、その小さな仕草を見ていた。


 許したくはない。


 本当に、許したくはない。


 許したくはないのだが。


 娘は、泣き出しそうなほど嬉しそうに、指輪を見つめている。


    *


 会見の最後、エヴァンズ侯爵が立ち上がった。


「本日の件については、後日あらためてローレン家と話し合う」


 沙汰は待て。


 そういう意味だった。


 つまり、即処理ではない。


 ローレン侯爵夫妻が深く息を吐いた。


「アルベルト・ローレン」


「はい」


「娘を軽んじることは許さない」


「はい」


「言葉を間違えた時は、逃げずに謝れ」


「はい」


「愛していると言ったなら、その言葉に見合うだけの態度を見せろ」


「はい」


「次に羽ばたいたら」


 侯爵は間を置いた。


「即処理する」


「心に刻みます」


「よろしい」


 何を約束させられているのか。


 謝罪会見の締めとしては、かなりおかしい。


 だが、誰も異議を唱えなかった。


 エヴァンズ侯爵は最後に、ナタリアを見た。


「ナタリア」


「はい」


「よく準備した」


 ナタリアの顔が、ふっとほどけた。


「ありがとうございます」


 その笑顔を見て、侯爵の目元が緩む。


 母を亡くした日から、ナタリアは泣く前に周囲を見る子になった。

 自分が崩れれば、誰かが困ると知っているように。


 嬉しい時でさえ、まず一度、感情を胸の奥へしまう。


 その娘が今は、隠しきれない顔で笑っている。


 ならば。


 この若者を、もうしばらく見てもいい。


 侯爵はそう思った。


 もちろん、本人には絶対に言わない。


    *


 エヴァンズ侯爵が広間を出ていくと、張り詰めていた空気が一気にほどけた。


 誰かが大きく息を吐く。


 それを合図にしたように、拍手が起きた。


 一人。

 二人。

 三人。


 気づけば、大広間中に拍手が広がっていた。


 庭師は、なぜか花籠を抱えていた。

 しかも、いつの間にか出席者たちへ花びらを配っている。


 ナタリアの友人たちは、ハンカチで目元を押さえながら、互いに何度も頷き合っていた。


 出席者たちは菓子を受け取り、花びらを手にし、涙を拭いながら、どう見ても祝っていた。


 やがてアルベルトが、ナタリアへ腕を差し出した。


「君をエスコートしてもいいだろうか」


 ナタリアは、その腕を見た。


「退場の補助、ということであれば」


「補助だ」


「では、お願いいたします」


 ナタリアがその腕に手を添えた瞬間、アルベルトの目元がふっとやわらいだ。


 以前は石像のように表情を動かさなかった人と同じとは思えない。


 大広間の空気がまた浮き立つ。


 二人が歩き出す。


 白や淡い青の花びらが、二人の頭上に舞った。


「謝罪会見です」


 ナタリアはそう言った。


 だが、その声は花びらと拍手にほとんどかき消された。


 ローレン侯爵夫人はナタリアの手を取り、何度も礼を言った。


「うちの息子を人間にしてくださって、本当にありがとうございます」


「いえ。アルベルト様はもともと人間です」


「そう言っていただける日が来るなんて」


「お母様」


 アルベルトが止めに入る。


 夫人は涙を拭きながら、何度も頷いていた。


 エヴァンズ家の侍女たちは、ナタリアの指輪を見てまた涙ぐむ。


 護衛長は、そっと網を畳んだ。

 使用人たちは、非常時持ち出し袋を回収した。

 侍女頭は、退避経路一覧を閉じた。


 どうやら作戦は成功したらしい。


 家令は、進行表に小さく追記した。


 謝罪会見、無事終了。

 羽虫判定、回避。

 再発防止策、受領。

 菓子、多めに用意して正解。


    *


 会見後の控室に戻ると、ようやく周囲の熱が遠のいた。


 ナタリアは指輪の嵌まった手を見ている。


「ナタリア」


「はい」


 名前を呼ばれた瞬間、ナタリアの指先が指輪の上で止まった。


 アルベルトは、それだけで胸が満たされた。


「改めて言わせてほしい。今日は、ありがとう」


 ナタリアは指輪へ視線を落とした。


「……謝罪レッスンが、役に立ったのならよかったです」


「ああ。役に立った。君のおかげで、私は間違えた言葉をそのままにせずに済んだ」


「それなら、よかったです」


「それだけではない」


「はい?」


「君を失わずに済んだ」


 ナタリアは、指輪の嵌まった手を胸元に寄せた。


 たぶん、無意識だった。

 指先が、そっと輪に触れる。


 アルベルトの口元が、ふっとゆるんだ。


 今度は抑えた。

 かなり抑えた。


 だが、ナタリアはそれを見て、頬を赤くする。


「アルベルト様」


「何だ」


「その表情は、やはり危険です」


「気をつける」


「段階を踏んでください」


「分かった」


「愛情表現にも、適量があります」


「ああ」


「過剰摂取は危険です」


「覚えておく」


 アルベルトは少し考えた。


「では、今後のために確認したい」


「確認、ですか」


「ああ」


 声は落ち着いている。


 落ち着いているのに、なぜか危険だった。


「これからは、もっと名前を呼んでもいいだろうか」


「今でも呼んでいらっしゃいます」


「足りない」


「足りないのですか」


「もっと呼びたい」


「…………」


 何が足りないのだろう。


 ナタリアには分からなかった。


「それから、君の好きな本をもっと知りたい。一緒に読んでもいいだろうか」


「それは構いませんが」


「本以外でも、好きなものを知りたい」


「好きなもの」


「好きな菓子も、茶葉も、花も、言葉も」


「言葉まで」


「君が何を好きだと思うのか、全部知りたい」


「全部」


「ああ」


「全部は、多すぎるのでは」


「多くても知りたい」


 アルベルトは真顔だった。


 真顔だから余計に危険だった。


「君が笑った時、何が嬉しかったのか知りたい。悲しい時はそばにいたい。怒っているなら、君が許す範囲で一緒に腹を立てたい。楽しい時は、同じものを見ていたい」


「…………」


「君の毎日に、もっと立ち会いたい」


 ナタリアは返事に詰まった。


 これは、謝罪会見後の確認事項なのだろうか。


 それとも、別の何かなのだろうか。


「それから」


「まだあるのですか」


「ある」


 即答だった。


「時々なら、手を繋いでもいいだろうか」


 ナタリアは固まった。


「返事は急がなくていい」


「……はい」


「髪に触れるのは」


「アルベルト様」


「まだ許可を出してはもらえないか」


「それは……」


「そうか」


 アルベルトは素直に頷いた。


 声は落ち着いていた。

 けれど、目元が明らかに沈んでいる。


 以前なら、同じ顔のまま何も読み取れなかったはずなのに。


 今のアルベルトは、あまりにも分かりやすかった。


 ナタリアには一瞬、垂れた耳と尾が見えた気がした。


「……髪くらいでしたら」


 気づけば、そんな言葉が口から出ていた。


 アルベルトが固まる。


「いいのか」


「髪くらいでしたら」


「本当にか」


「そんなに確認しなくても」


 次の瞬間。


 アルベルトの目元が熱を帯びた。


 まずい。


 これはまずい。


 ナタリアは早くも後悔し、半歩だけ後ろへ下がった。


 アルベルトは、その距離を一気には詰めなかった。


 許されたところから、ひとつずつ確かめるように手を伸ばす。


 指先が、耳に垂れた髪に触れる。


 その髪を、そっと耳へかけた。


 それから、ほんの少しだけ顔を寄せる。


「ナタリア」


 低い声だった。


 近い。


 吐息が耳にかかる。


「愛している」


 囁きが落ちる。


 次の瞬間。


 こめかみ近くの髪へ、口づけが落ちた。


 一瞬だった。


 けれど十分だった。


「…………」


 ナタリアの顔が一気に熱くなる。


 耳まで熱い。


 呼吸の仕方が分からない。


 アルベルトが離れる。


 その表情がよくなかった。


 やわらかくて。

 幸せそうで。

 どうしようもなく満たされた顔だった。


 順番は守ってくれる。

 無理強いもしない。

 約束も守る。

 待ってほしいと言えば、待ってくれる。


 だから安心していた。


 安心していたのだが。


 もしかすると。


 私は、とても大きな何かに、待てをかけているのではないだろうか。


 駄目だ。


 このまま見ていると危険だ。


 何が危険なのかは分からない。


 だが、たぶん私の方が先にどうにかなってしまう。


 ナタリアは無言で、近くの卓上へ手を伸ばした。


 そこに畳まれていた白布を掴む。


 いつの間に置かれていたのか。


 屋敷の者たちは、最後まで油断していなかったらしい。


 ナタリアは、その白布をそっとアルベルトの顔へ掛けた。


「……ナタリア?」


「お控えください」


「何を」


「全部です」


 布の下で、アルベルトが黙った。


 たぶん、笑っている。


 きっと、とても甘い顔をしている。


 見なくても分かる。


 だから見ない。


 絶対に見ない。


 ナタリアは、指輪の嵌まった手を握った。


 どうやら私は、謝罪会見で、たいへんな再発防止策を受け取ってしまったらしい。


    *


 後日。


 この日の会見について、エヴァンズ侯爵家の者たちはこう語った。


 あれは謝罪会見だった。


 確かに謝罪会見だった。


 華やかで。

 感動的で。

 途中で永遠の愛を誓いはしたが、


 たいへん立派な謝罪会見だった。


 そして、ローレン侯爵家のアルベルトは、その日、正式に羽虫ではないと認められた。


 なお、過度な微笑みに関する安全対策は、引き続き検討中である。

婚約披露宴も無事……間違えました。

謝罪会見も無事終わりました。


途中から、書いている側も応援団の一人でした。

侍女あたりで、そっとハンカチを握っていたと思います。


重めの愛を抱えたアルベルトにつかまってしまったナタリアのこれからを、少しでも楽しく想像していただけましたら嬉しいです。


最後までお付き合いいただき、ありがとうございました( ⁎ᵕᴗᵕ⁎ )

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