14章82話 ルークの過去 -嘲笑-
瞬きしてしまった瞬間、場面は実家の自分の部屋に飛んだ。
物が散らかって荒れている。確かに最近だ。少し前まで毎日見ていた景色だから。
俺はベッドの上で身体を起こしていた。右横の窓へ目をやると、星空が見えた。窓の側の枕元には薬の瓶。夜の分は飲んだっけ。数を数えるのも面倒臭いし、もういいや。
いつから寝ていたか記憶がないが、寝巻きではなく普段着だった。きっとまた、睡眠で憂鬱から逃げようとしたんだろう。
空気は冷えて乾燥していて、酷く喉が渇いた。水を飲みに行こう。ベッドから降ろした脚は少し細くなっていて、頼りなく見えた。
キッチンのある一階へと静かに降りると、リビングから神妙な話し声がした。また父さんと母さんが、俺の現状を嘆いているのだろうか。
聞きたくはない筈なのに、内容が気になる。階段の最下段に腰掛けて、風術を使うと、会話がよく聞こえた。
――これは父さんの声だ。
「要は、ルークの不始末を償う必要があると」
次は、知らない男の声。
「そうだ。うちのウッズは未だに苦しんでるんだよ? ルーク君が動けない状況なら、親御さんに対応してもらわなくちゃねえ」
「そうだぞ!」
ふんぞり返るような同意の声は、嫌という程聞いたものだった。せり上がる胃液をぐっと呑んで押さえる。
どうやらウッズと、その父親である地主が訪問してきているらしい。とうとう地方貴族親子様が揃ってお出ましかよ。俺が辞めて一年経ったのに、今更何しに来たんだ。
ムカつく以上に、怖かった。今度は、俺への加害だけで済むとは思えない。
母さんの声。憔悴しているように聞こえる。
「何をすればよろしいですか……?」
下品な笑いの後、地主は言った。
「この土地の管理者に働きかけて、家を取り壊す。貴方達二人の仕事も、言って解雇させる。でもこれからは、私の屋敷で奴隷として使ってやるから安心しなさい」
乾き切った喉が震えて、吐きそうになった。
もう五十代になった父さんと母さんから、何もかも取り上げるのか。家も、仕事も、尊厳さえも。
――俺の振る舞いを理由として。
父さんと母さんは、言葉を失っていた。
やがて、母さんが震える声で言った。
「もし……出来ないと、申し上げたら」
ウッズが怒鳴る。
「なんだと! お前も僕に口答えするのか!」
「ひ……」
地主はヘラヘラと息子を嗜め、続けた。
「――その場合は、慰謝料だ。貴方達が一生かかっても払えない金額を請求する。抱えてる弁護士はいくらでもいるからな、断れると思うなよ」
ふざけんな。父さん、母さん、全部断ってくれ。別の、俺だけが傷つく案を出して交渉してくれよ。
父さんが、ぽつりと尋ねた。
「ルークは、どうなりますか」
「……ああ、まあ家がなくなる以上、どこかに行ってもらうことになるねえ」
父さんの声には芯があった。
「娘はもう別の市へ嫁入りしました。この家がなくても困りません。でも、ルークには今、何もない。せめて、あの子のために、家だけは残してくれませんか」
滲んだ涙を必死でこらえた。俺のためにそんなことを言ってくれるのか? あの父さんが?
ウッズが不満げな声を上げる。
「そのルークが憎いんだよ。あいつがどうなったっていい。居なくなっちゃえばいいんだ」
そうだよな。俺が居なくなればいい話だ。俺もそう思う。
奴の下品なニヤニヤ顔が、声から滲む。
「うーん。――じゃあ、二人とも土下座して! あいつ、最後まで謝らなかったんだ。綺麗に土下座できたら、家だけは残してあげるよ!」
クソみてえな提案しやがって……! 怒りと屈辱、自責と感傷で頭がおかしくなりそうだ。
「なんて優しい子だ! 私は誇らしいよ!」
「えへへ。流石にルークを殺すのは無理でしょう? だから、生きてた方が辛いと思わせたいんだ。一人きりでこの家に住み続けてるのもいいかなって」
「くう、賢いなあ!」
少し間が空いて、椅子を引く音がした。
……え? こんなゴミクズに土下座、するの? 俺のために? 俺のせいで?
優しい母さん。繊細だけど、愛情深い人。働きながら俺達の世話をして、いつも大変だっただろうに、忙しさに文句を言うことは無かった。……ちょっと躾は厳しめだったかも。泣いてる時と怒ってる時に機嫌を取るのには、いつも苦労したし。
立派な父さん。仕事人間で、家にいる時はいつも勉強か休憩に専念してる。遊んでくれなくて少し寂しい時もあったけど、仕事を頑張る姿を尊敬してた。……家事は母さんと俺達に任せて、意地でもやらなかったな。怒ると言葉が強い所が嫌だったのに、結局受け継いでしまった。
――二人とも、こんな奴らの下なんかじゃない。なのに、俺のせいで軽んじられて、貶められ、蔑まれる。これからもずっと。
そんなの、耐えられない。
バッと立ち上がってリビングに飛び込んだ。
「やめて!」
立ち上がっている父さんと母さん、ニヤニヤしている貴族親子の目線が集まる。
誰が何を言うより先に、ウッズの座る足元に伏せた。
「悪かったよ! 俺が悪かった! 本当にごめん。だから、家族だけは許してくれ! 頼む、頼む。俺、もうとっくに、生きてる方が辛いから!」
ウッズは気持ち悪い声ではしゃいだ。
「謝ってる! ルークが土下座してるよ! あんなに生意気だったくせに。生きてる方が辛いって! 僕の勝ちだ! ひゃははは!」
もう負けでいい。俺のせいで誰かが傷つくくらいなら幾らでも負ける。
必死で床に顔を押し付けていると、地主の満足気な声が降ってきた。
「おーおー。本当に悪いと思ってるのかね?」
奴らを喜ばせる言葉は、今まで口に出さずとも、分かっていた。
「思っています! ごめんなさい! ウッズさんを苦しめました。身の程を知らずに逆らいました! 俺が間違ってました! 俺自身に罪を償わせて下さい!」
髪を引っ張られて頭が持ち上がる。奴は金の目を輝かせて言った。
「家族を酷い目に遭わせるのと、ロハから一人で出ていくの、どっちが辛い?」
「そりゃ、家族――」
はっとして口を噤む。ニヤリと笑われる。
「じゃあ、家族に償ってもらおうかな」
狂いそうだった。
「うぅあああぁ嫌だあああぁ! やめてくれ! ごめんごめんごめん! 出て行かせてくれよ! 頼む! 死ぬ! 死ぬから! 俺だけにして! お願いします!」
地主は、心底嬉しそうに息子の肩へ手を置いた。
「だそうだ。今すぐここで死んでもらうのはどうだい? 自殺なら我々に責任はないぞ」
それで済むの? やるやる。やりますとも。
でも、ウッズはムスッと口を尖らせた。
「やだよ。気持ち悪いじゃん」
……嘘だろ。俺にはもう、差し出せるものがない。
ウッズが手を離す。床に崩れ落ちて絶望する俺を見ずに、地主に言った。
「謝るところ見れたから、満足したんだ。このジジイとババアが屋敷にいるのもうざいし、嫌いなルークをもう見たくない。追い出すのでいいや」
「ふむ――」
地主は席を立った。
「ウッズがそう言うならそうしよう。親御さんがついて行くのはナシだ、必ず一人で出て行けよ。そうだな……二ヶ月時間をやる。行き先を探すといい。身一つで追い出して、殺したと騒がれるのも面倒だからな」
心底ほっとした。機嫌を損ねて反故にされるのは防ぎたい。この案で確定させるべく、また床に額を打ちつける。
「本当にありがとうございます! 猶予という温情を頂いた事にも感謝します! 必ず出て行きます! 本当にすみませんでした!」
地主が俺を嘲笑う。
「わっはっはっは!――親御さん、こんな情けない息子を持ったこと、一人の親として同情するよ」
本当だよ。父さん母さん、こんな姿を見せてごめん。プライドと命をかなぐり捨てる策しか思い付かなかった。全て捨てると決めたら、こんなに完璧に負け犬になれてしまった。
策は成功したが、結局は屈辱で死んでしまいたい。
地主は嗤いながらリビングを出て行った。
去り際のウッズに、思い切り頭を蹴り上げられた。
「いっ……!」
身体がテーブルにぶつかり派手な音がした。
テーブルの脚にもたれて力なく項垂れる。奴の含み笑いが聞こえた。
「優しい僕とお父さんに感謝しろよ」
二人はようやく出て行った。乱暴に玄関の扉を閉める音がした後、リビングは凍りついたように静かになった。
硬い爪先で蹴られた額が切れて、血が流れていた。涙と血で濡れた俺の顔は、醜いだろうな。
傷を片手で押さえて立ち上がり、父さんと母さんに深く頭を下げた。床に血が落ちて、ばたたっと跳ねた。
「沢山迷惑をかけてごめんなさい。出て行くね。……今まで育ててくれて、ありがとう。もう少しの間だけ、よろしくお願いします」
少し間を置いて、無言の父さんに頭をくしゃっと撫でられた。父さんはそのまま、リビングを出てどこかへ行った。
母さんは嗚咽を漏らして俺を抱きしめた。
「ごめんね、ルーク。守ってあげられなくて。ごめんね」
それを聞いて、また涙が溢れた。抱き返すことは出来なかった。母さんの肩が、涙と血で汚れていく。ごめんな。
――なんだよ二人して。
俺は一家の汚点なんじゃなかったっけ? 守るどころか責めてたじゃないか。俺の事よりも世間体が大事だろ。
病気の事は勉強も理解もしようとしてくれなかった。それどころか、俺が勝手に退社した事に怒り狂って、経緯や理由すらちゃんと聞いてくれなかった。
俺の現状を過去と比べて否定し続けたな。会う度に酷い事を言うエアリアの事も、絶対に制さなかった。これ見よがしにエアリアを可愛がって、俺にプレッシャーをかけようとしてたのも分かってるよ。そんなことしたって病気が良くなるわけじゃない……けど、病気を理解してないから分かるわけないわな。
泣き喚く母さんも、怒鳴る父さんも、嘲笑うエアリアも、もう見たくない。
……俺の事を誰よりも傷つけたのは家族だ。
なのに俺は今、その家族のために自分を放り投げてしまった。とても嫌な思いをした。でも、家族への不当な虐げを放っておくこともできなかったし、ウッズを黙らせる何かも持っていなかった。だから、持てる全ての力を尽くすしかなかった。
そんな俺を撫でやがった。抱き締めやがった。少しでも愛してくれていたなんて、こんなタイミングで分からされてもどうしていいか。
もう何も分からない。自分のことも、家族のことも、何が正しくて何が悪いのかも。
目をぎゅっと瞑ると、そのまま真っ暗になった。俺の声も、もう話しかけて来なかった。
最初は落ち着くと思っていたこの暗さが、もう、俺の心を体現する闇にしか感じられなかった。その闇に全身が飲み込まれて逃げ出せなくて、最悪の気分だった。
「――やっぱり、死んでしまった方が良かったのかなぁ――」




