38:好きだとか! 嫌いだとか! 9(LAST)
さいごにおまけ付き
内容は完結編
好きだとか! 嫌いだとか! 9(LAST)
奏の通っていた中学校は電車で一時間程度の距離にあった。
夏休みということもあり生徒たちの数は少ない。
空けっぱなしの門を通り抜けると、すぐ横に守衛室が設けられていたが運よく誰もそこにはいなかった。
ジャージ姿(斗貴が部屋着としてたまに使っているもの)でどうにか学校の中に侵入することが出来た。
斗貴はあの手紙を何も分かっていないだろう奏の母に渡し、親友からの連絡で奏が入院先で亡くなったことを聞いて、なぜか奏の通っていた中学校へ来ている。
その理由は――会っておかないといけない相手がここにいるからだ。
奏が偶然遭ったバスの事故はどうしようもなかったことなのかもしれないが、ここにいるその人は必然の下で奏と会っているはずで、奏と奏の家族を引きはがした張本人。
外周帰りの運動部を装い侵入したはいいが、予想以上に生徒の数が少ない。
夏休みの最終週に入ったからなのかもしれないが、これだと先生に斗貴が会った時点でごまかしが利かなくなる気がしていた。
遠くで斗貴のいる方へ向かってくる教師が目に入った。
斗貴がとりあえず逃げようとすると、その教師を呼ぶ生徒たちの声が聞こえた。
『先生――! “源田”という奴が、時代遅れにも道場破りという人が来ました!』
『なにぃ――お前たちは他の先生にも伝えておけ。俺は現場に向かう』
『わかりました!』
教師は今まで来ていたスーツを投げ捨て、下に着ていたアンダーシャツのままどこかへ走り去ってしまった。
斗貴からだとたいした会話は聞き取れなかったが、「いまどき道場破りって――」と心の中であきれながらに思った。
無駄に広かった玄関を抜けて校舎内に入れたが、生徒以上に教師が何人も目の前を通り過ぎていくので、思った以上に自由に動けない。
部活動をしているものを含め、外部の人間が校舎内に入ることやグラウンドを使うときにはまず窓口を通らなければいけないことなんて、万年帰宅部の斗貴は知らなかった。
ここへきて今更だが、斗貴は高二。
ここは中学校である。
体格、服装、そして頭脳的にもこの場で浮きまくっている斗貴が今のところ騒ぎにならずに済んでいるのは奇跡だ。
さらに奇跡は続き、目的の相手が斗貴の前を通り過ぎていく。
それはそうだ。この学校の三学年の教務主任がその相手なのだから、見周りで通り過ぎていくことなんて始めから予想していた、斗貴の親友の空が。
逃げ場の少ない校舎内でスパイのような諜報活動を成功させていたのは、空から教わったことを実践していたからだ。
その相手の男がどこかの部屋に入るまで斗貴は尾行し、カギのかかった部屋に相手の男が入るのを見て、間隔を空けずその部屋の中へ侵入する。
これが親友からの最後の助言で、「相手が一人でいることなんてそうそうないはずだ。まして教師がよくいる職員室や他のどの部屋その廊下でも必ず他の教師や生徒に見つかってしまう。だから、地位のやや高いのを利用して、そいつしか入れない部屋――つまり鍵のかかった部屋に入ったところを狙え」
その助言の通り行動した結果、待ち望んでいた一対一の状況へ持ち込んだ。
♪♪♪
引き戸のたてるガタッという音でその相手にはすぐに気付かれてしまった。
教師らしい一言をその男は斗貴にいう。
「ここは生徒立ち入り禁止だ。すぐに出て行きなさい」
「先生に話があるんですよ」
「見ない顔だが、何年度の卒業生だ? 名前はなんていう?」
切れ長の目に小さな眼鏡をかけていて、いかにも学生時代はガリ勉オーラが漂っているが、スーツ姿のその男の少し怖いオーラに負けないように共通の単語を斗貴は言った。
「ここに“柚木奏”という生徒がいただろ。そいつがいなくなってから数日たっているから、教師のあんたでも十分把握してるはずだ」
「三年の柚木がどうしたんだ。それより名前をいわないか」
「じゃあ、奏の親の現住所も知っているか? 奏が大変なことになったから、親にも連絡をしてやりたいんだが奏は連絡先も住所も知らないらしくてな」
「本人が知らないことをどうして一教師が把握している? それより早く名前と卒業年度を言わないか」
どうしても眼鏡の男は斗貴の名前を知りたいらしい。
その名前を言ったところで、何かに表彰されたこともない斗貴の名なんて、この眼鏡の記憶や、ここら辺の地域の片隅にだって転がってなんていない。
斗貴は教師の知りえない情報を隠しつつ話し続ける。
「一教師じゃないあんただからいってんだ。……奏の親が言ってたぞ。定期的に学校の先生から娘の近況は聞いているってな。
どういうことだ? こっちは探偵を使って、奏の親が書類上では行方不明状態だったってことは知っているんだ。じゃあどうして家族のあいつじゃなくて、保護者でも何でもない一教師のあんたがそんなことをしているんだよ」
「私が、その手紙を書いた証拠はどこにもない」
「いやあるぜ。奏の親から預かった差出人住所が、この学校で、あんたの名前がハッキリと書いてあるからな」
ここで斗貴は一つしかけた。
確かに手紙の一つを持ってきてはいるが、そこに住所はあっても個人を特定する名前なんて書いていない。
奏の親も“主任の先生”くらいにしか知らなかった。
だが眼鏡は全てを見透かしたように自分の作業に戻ろうとする。
「仮に名が書かれていたとしても、それが本当に私である証拠がどこにある? そもそもこの学校の生徒でもない奴が教師の名前と顔がわかるはずないだろう。あと、そうですね…………柚木に親の居場所は教えないで欲しいですね。
あれだけの才能ある生徒は十年に一度いるかいないかの逸材だ。悪影響でせっかくの才能が汚されては困りますからね」
つまり、十年に一度の才能をもっているのが奏で、悪影響というのが奏の家族。その家族に汚されないように、こんな遠く離れたところへ奏を隔離した。
「ふざけるな。奏の――」
「柚木個人の考えなど関係ない。柚木奏がどうゆう思いであれほど高い点数を維持できたのか知らないなら教えてやる。柚木は自分のせいで苦しめた親を再び失意の底に落とさないように努力を重ねた生徒だ。たった一度の嘘が、柚木自身だけでなく、その周りを急激に変えていったのだ」
「それと奏が独りぼっちにされるのにこそ関係ない」
「……バカなガキが……。柚木と比べれば、将来的に世の中の何の役にも立ちそうもない顔をしているが、こんな話を知っているか?」
それは、斗貴にとっては既につまらない話でしかなかった。
証明とか、世界的栄誉なんて、ただのつまらない高校生の斗貴にはピンとこない。
目の前にある、一番近くのことにしか興味を示せない。
「そんなものがどうしたっていうんだ。今のあいつがそんなつまらねえ話のときより輝いて見えるのは気のせいじゃないはずだ。それにあの証明は奏がしたんだ。どっかの知らない外人なんかじゃない」
「柚木のことが好きなのか?」
眼鏡の意外な言葉に、斗貴は言葉を詰まらせた。ついさっきまでの喧嘩腰だった態度を斗貴は一変させて黙ってしまう。
斗貴は奏のことをそうゆう風に見たことがなかった。
初めこそ奏のことを同い年ぐらいに思っていたが、実際は二つも年下だった。ショートヘアが運動を得意とするのを印象付け、オシャレとは言い難い服装でも高校生のようなスタイルの奏だと様になっていた。本当は運動なんて誰よりもできないような運動音痴で、できるのは勉強くらい。言葉は悪いし年上に気を使わない。一人暮らしでみについた料理だけが、見た目以外で唯一女の子らしいところ。
そんな子が、ついこの間までいた。
その子は、斗貴にとってどういう存在だったのか。
「若いうちにするような恋や恋愛もどきは、所詮他人に自分を認めてもらいたいだけの行為にすぎない。ましてや、他人が輝いているなんて、それを思った個人の主観でしかない」
「努力した奴が輝いて見えるのは、何にもしてこないで高校二年まですくすく育っちまった俺にはよくわかるんだよ」
「クズはどこまでいってもクズということか? 話にならん。こちらは遊びで学校へ来ているわけじゃない。それにあの証明に関して余計なことは言うな」
「冷たい態度で済ますんじゃねえ。それに俺は奏のことを“好きだとか! 嫌いだとか!”そうゆう風に見ていたわけじゃない。何も話さないあいつを見て、聞いて、知って、俺が勝手に気になっているだけで……別に、なんでもない。――それと、あんたは何か隠している。探偵も言っていたが、あの証明には絶対に世間に知られてはいけない秘密があるんじゃないのか?」
斗貴は全力で眼鏡を見つめ返した。
残念ながら、ほとんど荷物もなしに手ぶらで来た斗貴に手札はもう残されていない。
だからこそ、斗貴はそうすることでしか気持ちをぶつけることが出来なかった。
眼鏡は、斗貴の最後の希望に答えるように勝手に話し始めた。
「お前は何者だ。そこまでしつこくあの“間違った証明”を掘り起こしてくる輩はいなかったのだがな」
「何を間違えたんだよ」
「お前もいっていただろ。アレは柚木が証明したものだ。
つまり、証明した者のそばで盗み聞きしていたのが、柚木の方ではなく。その証明に行き詰まっていたある外国人ということだ。そして、そんなことは数年間柚木を見ていれば、それこそ証明されたようなものだ。柚木は正真正銘の天才だ」
「ならなんでそれを当時の奏は言わなかったんだ。その難しいことじゃないだろ」
「お前のような凡人が知るようなことじゃない。それは、こんな話を何の考えもなしにしている時点で分かっている。お前には、事の重大さがまるで分かっていない」
それは、斗貴が空に掛けられたことと同じ言葉だった。
その理由をまだ斗貴は分からないでいる。
「一度確定したことを再び蒸し返して変えるという行いは、非常に難しい。それこそお前と柚木が恋仲になるのとは次元が違う。そして、それは必ず誰かを傷つけることになる」
ある外国人は、証明をしたことで有名となり今は何不自由なく生活しているという。さらに、その証明のおかげで今の斗貴たちの生活が楽になっているという。
ならば、その“今”を覆して傷を負うのは誰なのかはっきりしてくる。
「それは、その外人だな。奏がうそつき呼ばわりされて当時大変だったとき以上に、きっとその外人は追い詰められる……」
眼鏡が、授業中に生徒を誘導して問題を解かせたようなふるまいを見せる。
「その通りだ」
もしそれが大変なことだとしても、斗貴は譲れなかった。
ならどうしてそのときに言わなかったのか――――証明したのが誰なのかはっきりさせることが出来た当時なら、今よりはどちらもうまくいくはずだ。逆に、どちらか一方が人生を狂わされるほど何かを失うことは…………!
斗貴の後ろで戸が開けられたが、斗貴は眼鏡に集中していてそれに気付かない。
眼鏡はその訪問者に気付いたが、口元に小さく笑みを作るだけで何も言わなかった。
かわりに、頭を使って考え込んでいるバカ斗貴の後ろに現れた第三者が、これまでの話をドア越しに全て聞いていたように続きを奏でる。
「――そう、あたしがそれを黙ったままでいたのは、子供らしい小さな思いのせい。あのとき河川敷で出会ったおじさんが、いまにも消えちゃいそうなほど弱そうなおじさんが幸せになるにはこれしかないって思って、自分の幸せをほんの少し先延ばしにしたの。そのせいで、考え足らずだったあたしは自分の幸せが逃げてっちゃったけどね」
「榊、勝手に俺の後ろで話すなよ。いま取り込み中なんだよ」
「バカ斗貴! 勝手にあたしの学校で変なことしないでよっ。もうこれだから最近のヘタレは~」
人をおちょくったような態度。
何かと斗貴を見下したような巧みな言葉使いは榊じゃない。
こんなことを言うのは、ここ最近で出会った一人の少女しかいない。
そいつはいつの間に斗貴の家にいて、本音なんて滅多にいってくれない。男の斗貴より女の結城の方に熱を上げ、ここまでとんだ家出娘を演じている。
それはこの世にはもういるはずのない、柚木奏に他ならない。
斗貴は後ろを振り返らずに、奏に言葉を掛けた。
「だましたのか」
「それはあんたの友達が勝手にやったことでしょ。あたしは昨日まで寝てたんだから知らないわよっ。勝手に死んだことにされたこっちが気分悪いわよっ」
「おい、勝手にそっちだけで盛り上がるんなら、外でやってくれ。こっちは本当に暇でこんなことをしているわけじゃないんだ」
「ふざ――――」
「あんたがふざけるなよっ。あたしにいろいろ教えてくれた先生に変なことするためにここへ来たなら、斗貴のことを本気で軽蔑するわ。この先生が、あたしに隠し事していたのは本当のことかもしれないけど、この学校で勉強のことや料理、掃除や洗濯もこの先生が教えてくれたんだから! 先生には次会う時に問い詰めるわよっ」
一教師といっていた眼鏡が、まるで保護者のようなことをしていたのに一つ驚き、奏がここにいることについても色々と驚き?――――斗貴は奏と二人で帰ることになった。
♪♪♪
電車に乗り、斗貴の家の近くまで帰ってくる頃には、すっかり夕日が落ちていた。
斗貴と奏は河川敷の近くを歩いた。
「どれだけ俺が落ち込んだのか知ってんのかよ」
「知らないわよっ……そんなこと」
奏は少し赤らめた顔を隠すように斗貴と反対の方を見たまま。その奏を片目で見ながら、斗貴は立ち止まった。
「じゃあ教えてやる」
「――――――――」
言葉もでないほど一瞬のうちに、奏は斗貴の腕の中にいた。
こんなことまでした斗貴に、奏は顔を赤くなっているのを隠したまま、さらにその顔を真っ赤に染める。だがその変化に斗貴は気付かな。
お互いの表情が見てとれないほど近くにいる二人は、互いの心音や体の温もり、ほかのいろいろなことは伝わってくるのに、ずっと見てきた表情だけは見れなかった。
奏が、「離れなさいよっ」とすぐに手を突き出したからその時間は一瞬のことだったが、そのときの感覚はまだ残っている。
「お前が死んだって聞いて、心配したとかそういうものじゃない。本当に最悪な気持ちだった。いや、最低な気持ちだった。
さっきの続きだ。俺がお前に教えてやるのは、俺が柚木奏に思っていたことだ。それはさっきの眼鏡のときのでようやくはっきりわかったんだ。俺はな――お前のことが」
奏は斗貴があの個室でいっていたことを思い返した。
『俺は奏のことを“好きだとか! 嫌いだとか!”そうゆう風に見ていたわけじゃない。何も話さないあいつを見て、聞いて、知って、俺が勝手に気になっているだけ』
斗貴こそ本音をなかなか言わないヘタレだ。そのことは奏もよく知っている。
斗貴が何かを言う前、早口に奏はいつも通りの言葉を並べた。
「好きだとか、嫌いだとか、そういうこというんじゃないでしょうね。ヘタレのくせに。あんたがそうゆうこと言うのは十年早いわっ。己の立場をわきまえなさいよね」
あのまま斗貴がかけてくれる言葉を奏が受け取ってもそれはそれでよかったのかもしれない。きっとその言葉で奏自身が不幸になることはないだろう。
でも奏はその先の言葉を聞くのが少しだけ怖かった。
たった数日間の関係だが、他人同士が偶然的な巡りあいで味わうことの出来た奇跡で二人は出会った。
だが、その奇跡の中で奏は本当の柚木奏でとして雨宮斗貴と接してきたとは言い切れない。それは生き霊とか地縛霊的な感じで付きまとっていただけだ。だからこそ奏はそのさきの斗貴の言葉を聞くことが出来なかった。それまでの自分が本当だと言い切れなかったから。
これから見せていく柚木奏が、本当に知ってもらいたい自分だから。
奏は斗貴に自分の進路のことを言ってみる。これからいっぱい自分のことを見てもらうにしても、これから自分がここへ帰ってくるにしても、これだけは言っておく。
「あたしね。来年はあんたのいる高校に入学する。入学試験がどんなに難しくても絶対入学するからねっ。留年とかしないで、しっかり待ってなさいよ」
奏は、本物の笑顔で次へつながる第一歩を宣言した。
おまけ
~エピローグ的な何か、というよりは全く別の話~
1
軽快なリズムで朝の静寂の中を目覚ましが鳴り響いている。
目覚まし時計代わりの携帯が、朝独特の気持ちよさを邪魔しないメロディーを奏でるのは雨宮斗貴が自分でセッティングしたから何もおかしなことじゃあない。
いや、むしろこだわりの一曲といってもいいくらいに、考えて、考えた唯一無二ともいえるものだ。
これのおかげで毎日遅刻していた中学時代から卒業できたと思っている。
(……お兄さん? ……)
音量を小さく抑えた電子音とともに他の音も入って、それが声に聞こえる。
……テレビでも付けたまま下で寝てしまっただろうか。
自分の部屋にテレビを置いていないことを寝ぼけて斗貴は忘れていた。
(……朝ごはんができましたので降りてきてくださいね……)
とにかく斗貴は部屋に一つしかない窓のカーテンを開けるために半目で動き出す。朝になっても真っ暗な部屋はカーテンを開かなければ適当な場所に置かれた携帯を探せない。音を頼りに探してもいいが、足場があまり良くないはずなので真っ直ぐに窓に向かった。
頭がクラッとする朝日を半目で見つめ、少し経ってから視力が戻ると携帯を沈めて部屋の扉を開けた。
ニ階にあたる自分の部屋から、階段を下りれば小さいなりにも家庭用には十分なキッチンがある。だいぶ腹の減っていた斗貴はそのまま冷蔵庫に向かって歩き出した。
変に間食もしない斗貴は、いつも決まった時間に朝・昼・晩と食べているはずだから、こんなにも腹が減っていることに不信感を持ちながらも冷蔵庫の中身を求めて、家族が揃って食事をとるダイニングを通過しようとする。
しようとして、視界の端に移った奇妙な光景をみた。
「あれ、母さんたち帰ってたんだっけ? 皿が置かれてるけど」
今は夏休みの真っ只中。親と残りの兄弟たちは遠くに旅行に行っていて、夏が終わるまで帰ってこないはずだった。
母さんと父さんに、上三人、の男だらけの六人家族だがテーブルの上には全部で六皿が置かれている。
「なんで六枚なんだ?」
その場に立ち止まって一瞬考えたが、昨日片付け忘れただけかもしれない。綺麗に並べられているけど、うまく乾燥させる工夫を自分でしたのだと斗貴は思い、再び冷蔵庫に向かう。
キッチンの方からいいにおいがしていたからだ。
誰かが料理を作っているような香ばしくていいにおい。
はぁ、カリカリベーコンと半熟たまごが俺を待っているのかぁ。
「いや待て。この家には俺しかいないし、絶対に早く帰ってくるような家族じゃない。絶対におかしいじゃないか」
ようやく寝ぼけていた頭も回復してきた雨宮斗貴はガラス越しに覗いていたキッチンへの戸を開けた。
そこにはまだ夢の続きのような光景が広がっていて、いや、夢なんて見ていなかったなあと思う斗貴がいた。
***
吹きゆく風は気持ちがいい。
全身にビシビシ伝わる風の心地よさは他の何よりも勝っていた。
雨宮斗貴は山の登り道を自転車で一気に駆け抜けていた。
一人旅をしてみたいと思っていた斗貴が立てた山を越えて隣の県へ行ってみる計画は夏休みの始めに予定していた。しかし、思っていた以上に片付けてしまいたかった課題が片付かず、親に内緒で行きたかったため夏が始まって少し経ってから実行している。
自転車と大きめのリュックサック一つで旅をするのは斗貴の夢のようなものだ。
その夢を叶えているこの瞬間は彼にとってもっとも幸福なときに違いない。
ここまでフルマラソンを超える距離を休みなく走り抜けているが、足に疲れを感じることはなかった。それほどまでに風を切り裂くような感覚に斗貴は酔っている。
もう止まれない。
一気に山一つを越えてやるとひたすらペダルをこぎ続けた。
――――。
「はっはっはっはぁあ! はははは…………ぁぁ」
声高らかに笑い、しょんぼりしている斗貴はこの山を登り切っていた。
一時間半かけて登った山は確かに登りごたえがあるものだった。この山を通ることも地図に詳しく書かれていなかったというのもある。地図に載っていないだけで斗貴の未知なる冒険心に火が付いていたのだ。
しかし、その火も登り切って街を見下ろしている斗貴にとっては灯っていたことも忘れた過去の自分となってしまっている。
なぜかって? それはこの山が登るだけ登って向こう側に抜けられる道が通行止めになっていたからだ。
『関係以外立ち入り禁止』
この看板がロープに絡まりながらも立て掛けられ、
『熊出没注意!』
奥の方にそのような看板もみることができた。
背筋がゴゴゴッと寒くなるのと、汗をかいて体が冷えてきたのは十分に斗貴のやる気を消し去ってしまった。
山のほぼ頂上にいる斗貴は、帰りが必然的に下りになる。
もう自転車のペダルをこぐ必要もないからすぐにでも別の山へ向かってもよかったが、どうしても行く気になれない。
ここまで来た疲労がここへきてどっと来たのか。
本当に戦意喪失のよれよれになってしまったのか。
しばらく山から見れる普段とは違った風景を眺めていると、少し下でタイヤが滑っていく音がした。すぐ下の道路だろうと思い下を覗くとバスが凍ってもいない道を滑ってゆき、ガードレールへ向けて一直線に加速している。
そこから目を話せなくなった斗貴はそのまま、バスがガードレールを突き破り、山の傾斜のままにバスが下の方へ転がっていく様子を見ていた。
「大変だ。救急車よばないと」
バッグの中から携帯をとりだし、すぐに消防署にダイヤルするがつながらない。
携帯の待ち受けをみれば、家族と一緒に撮った集合写真の左上に圏外と書かれていた。
「くそ! 変な機能ばっかつけないで、電話としての機能を向上させろよ!」
メールすらまともに打ったことのない携帯電話に向かって文句を垂れながら、斗貴は荷物をすぐに担いで自転車のサドルにまたがった。
こんなときのため……とは言い切れないが一通りの救急セットを詰め込んだバッグを持ち、斗貴は今来た道を戻るように事故現場へと向かう。その途中、携帯の画面を見ながら圏外が解除されないか気にしていたらすぐに事故現場のそばに着いた。
自転車を倒して、ガードレールが割けている場所から歩いてバスの横転してしまっている場所へ山を滑っていく。
本当はすぐさま山を下って助けを求めに行くことや、バスそのものが危険だから近づいてはいけないのを忘れて斗貴は救助へ向かってしまった。
それがこの夏の彼の運命を全く別世界に変えてしまうことになろうとはこのときの斗貴は知る由もない。
斗貴は、ただ、助けられるかもしれない命を助けることだけしか考えていなかった。
そのようすは普段の斗貴からは想像もできないほどかけ離れたように見えて、斗貴自身も目撃してしまったから後に引けない思いのままに半ば勢いだけでこの行動に出ている。
「おーい! 大丈夫かぁああ! 助けに来たぞおお!」
真剣に声を張り上げ、バスの扉がありそうな場所に突っ込んだ。
バスは横に転がっていたせいかめちゃくちゃに潰れていてそれがバスかどうかも判別が出来なくなっていた。つい数分前に現場を見ていなければ斗貴もこれがバスとは思えなかっただろう。
「くそがああ!」
気合でひしゃげた前扉をこじ開けて斗貴は中に侵入することができた。
扉が開かなければ多少の怪我覚悟で窓から入るつもりだったから少しだけ楽に侵入することができた。
「おい、しっかりしろ! このバスには何人乗ってたんだよ!」
気絶しているだけに見えた運転手をゆすって聞き出そうとするが、そんなことをしてはいけなかった。ゆすった運転手の体から噴き出す血が斗貴には理解するまでに時間が必要だった。
臭いも相当キツイものだった。頭の中が救助のことでいっぱいだったため気付いていなかっただけで今にも爆発しそうなガソリンが辺りには充満していたのだ。
救助のプロでもない斗貴は、その臭いが自分に及ぼす最大の危険を察知することもできずどんどんバスの奥へ進もうとする。
だがその足はすぐに止まった。
足元が妙にぬるぬるしていたからだ。
壁を触る手も滑ってしまうほど辺りが赤い鮮血に包まれている。
そのときはじめて斗貴はいましていることが分からなくなった。
踏み込んだこの場所は決して生きた人間がいるような場所じゃない。
俺は、何をしているのだろう?
周りからは聞こえないはずの声がする。
タスケテ、タスケテと助けを求めてくる。
バスに乗りきらないほどの大勢の人間の声が、波のように押し寄せてくるように斗貴には聞こえていた。
クルシイヨ、クルシイヨ、ドウシテタスケテクレナイノ?
心の折れた斗貴は、その空間の悪臭と鮮血のなかに意識を吸い込まれるように倒れこんだ。
携帯はいまだ圏外のまま。
この事故を知る唯一の目撃者はこのまま事故の二次災害にあって死んでしまってもおかしくないだろう。
事故の原因も謎のまま、陽は落ちて夜を迎える。
次の陽が昇るころにはこの事故もニュースになっているかもしれないが、きっと生存者はいない。
雨宮斗貴はその次の朝を自宅で迎えていた。
目の前にはエプロン姿の人がいる。
母さんは料理をしないからこの人が女性であることに気付くのが少し遅れたが、目の前の人は間違いなく女性だ。それも斗貴と同じくらいの女の子である。
「やっと起きたのね。せっかくかわいい女の子が起こしに行ったんだからすぐに起きてきてよね。まあいいわ、どこでもいいから座って待っていて。すぐにできちゃうから」
手慣れた手つきでフライパンを操り、その中でベーコンと卵が踊っていた。
どこかしら、普段存外に扱われるフライパンが生き生きしているように見えた。
斗貴は言われたとおりに自分の席について朝食が来るのを待っていた。
「じゃなくって! お前誰だよ!」
フライパンを振り回す少女に斗貴は聞く。それが当然のことのように少女は振り返らずに「ちょっと待ってて」と口にしてそのまま料理を続けた。
しょうがなく斗貴はその様子をじっと見ているのも悪い気がして正面を見ると、
「うっ……、いつからいやがった」
他多数の人が自分の家にいることに気付き、料理を終えた少女その一が、ぱぱっと各七人のさらに料理を運んだ。
そして少女その一も席に着き、斗貴以外の五人が「いただきます」と口々に宣言してから朝食の時間が始まろうとしている。
たまらず斗貴は立ちあがった。
「だーかーらー、どうなっているのか説明しろよ! なんで俺の家に知らない家族が居候しているみたいになってるんだよ!」
黙々と食べ続ける少女二人、大人三人はそれぞれにリアクションをとるものや、箸を置きイラつくそぶりを見せるものなどがいた。その中で朝食を作ってくれた少女その一が仕切るように自己紹介を始めた。
「失礼ですよみなさん。この家の主様に嫌われたら私たちの行くところなんてないんですからね。……とと、それはさておき、始めまして。私の名前は――」
斗貴の前に突然現れた一家。
問答無用に朝食を平らげ自己紹介を始める。
どうやらここに住むらしいが、俺の許可は?
斗貴がその面々を眺めると、ヤクザみたいな人もいて強気でいられない。
まだ課題も終わっていないのに、この夏最大の厄介事を抱えたようだ。
斗貴は、この瞬間を忘れられそうもなかった。
きっちり昨日のことなんて忘れているのが不思議なくらい。
2
雨宮斗貴。高校二年の夏に旅から帰ってみると、両親も兄弟もいない家の中に不法侵入者が何人もいて困っていた。
いや、困る前に怒り狂っていたのかもしれない。
まだ名前も聞かないそいつらは、一体何の目的でここにいるのか。
斗貴は自己紹介を大人しく聞くことにした。
斗貴から見て同い年ぐらいに見える少女は動きやすそうな服装でいかにも運動が得意な活発な女の子に見える。もちろん、こんな子は親せきにも近所にも知り合いにもいなかった。
「私の名前は、柚木奏ね。後ろの方の席に座っていたから隣の里佳ちゃんのことしか知らない。えっと、この子が里佳ちゃん」
斗貴の隣が奏でその後ろから小さくて思わず抱きしめたくなるふわふわの服を着た女の子が出てきた。
あぅあぅしている女の子がとてもすきな斗貴は本気で抱きつきたい衝動を抑えていると、その子が自己紹介を始めた。
「……上下里佳といいます。よろしくお願いします」
奏の妹のようなその子はすぐに後ろに引っ込んでいく。
代わりに奏が前に出てきて他の人を紹介していく。
里佳の向こうにいるラフな格好の女性と正面の二人。特に正面の二人が一番怪しい。
「里佳ちゃんは、知らない人に勝手にお願いしちゃだめだから! 怪しい人だったらどうするの。えっと、失礼しました。手早く紹介させてもらうと。一番奥の人が村井遙さんで、正面左が榊さん。右が源田一朗さん。二人はこの中で一番年上かな。見た目通りだね」
きっとそうなんだろう。二人がコスプレイヤーでないなら、見た目通り榊という人は巫女さんで、源田さんは格闘家かなんか。奥の村井さんは謎だな。ラフすぎる。
「そして、ここから本題なんだけど斗貴さんにお願いがあります」
斗貴は奏に名前がばれていることに気付きながらも話を聞く。
「私たちの素性を聞かずに出来るだけ長く一緒に居させてもらえませんか?」
頭を下げてお願いする少女その一。名前を柚木奏という。
その妹のような斗貴の一番興味を引く少女その二とラフな女の人は席からじっとこちらをうかがっている。
違う意味で一番目立っている二人は黙々と食パンをかじっている。
なにも付けずによく食べられるなあと斗貴は思った。
「無理だな……出て――」
心地よい風が吹いてきた。
あの日、あのとき感じた爽快な風が部屋の中なのに吹き荒れて、斗貴が返事をする前に目の前にいた五人は消えていた。
……。
斗貴は寂しく残る一皿のベーコンエッグと食パンを口にして、散歩に行くことにした。
どうやらまだ本調子じゃないようだ。
学校が割と近いから、行ってみることにした。
きっとどこかの部活が何かやっているだろう。
それでも見に行こうと、斗貴は朝食をとってジャージに着替えてから家を後にした。
家の中は確かに一人だけで、そんな六人分も朝食を作るような材料も元々冷蔵庫にはなかった。さっきのは何かの見間違いだろう。
大好きな自転車があるにもかかわらず、この日の斗貴は歩きで自分の通う高校へ向かった。
そう、ここから始まるのは、斗貴と奏と榊とその他もろもろのまた別の話である。
ただし、――つづかないよ。
もう夏じゃないな~。
予想以上に短い話にまとまらなかったと思いつつ。
ゆっくりこれからも更新していきます。
一先ずこの話はここまででおしまいです。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。