20.文殊の知恵?
ひとり馬車で侯爵家に戻った私は、ギロークのヴィオラといくつか身の回りの物だけを持って出ることにした。馬車で今日のライナス様のお姿を反芻するうちに、今の心持ちでライナス様に会えば媚薬を盛ったのが私ではないことを口走ってしまうのでは、と恐怖心が湧き上がってきたのだ。
残りは後日お祖父様にお願いしてアルゼィラン伯爵家へ運んでもらおう。
執事のボルロにはライナス様が戻るまで、と止められたけれど、ひと目でも会えば泣きついて困らせてしまう──そんなみっともない姿をライナス様に見られたくない。
「フローラ様、もう遅いですし今屋敷を出られますと私どもが叱られてしまいます。せめて馬車を」
「ごめんなさいボルロ。でも王宮に行くだけだから大丈夫よ」
無理には止めないボルロ。私がライナス様の女嫌い克服の練習台だと知っているから強く言えないのかもしれない。申し訳ないが、ここは譲れない。
「お世話になりました」
そう言って長い長い侯爵家のアプローチを一人歩いていく。貴族街から大通りに出て辻馬車を拾えば、シルクの住まう外宮の居住区はそう遠くない。
──本当に、夢のようなふた月だった──。
◇ ◇ ◇
「そ、れ、で!ライナス様には何も言わずに出て来たのね!」
「はい、助言を無視してすみません」
シルクは少し驚いていたけれど、帰れとも出て行けとも言わず、ソファに座らせてくれた。
「──律儀なフローラがそうするって事は何か理由があるんだろうし、私に隠し事をしないあんたがそれを話さないってことは事情があるんでしょうね!」
「さすが鋭い!」
「あのねぇ……今日泣き出したのもそれが理由?」
「うん……」
「じゃあもう何も聞かない。でもね、フローラはぽけっと抜けてるところがあるんだから、もっとこう、野生で生きなさい。本能のままに!」
シルクが優しくて安心する。今日は焦ったり走ったり大変だったな──。
「本能のままなら……眠いからこのまま眠っていい?」
「まったく……」
師匠が故郷に戻る前までは二人で生活していて、シルクの私室は広い。師匠の部屋は物置になっているけれど、二人暮し用だけあってソファが大きい。
「私、寝相悪いからここで寝る」
「はーいそうして頂戴」
ふわりと毛布が掛けられた。まだ眠るには少しだけ早いかな、と思いながらうとうとして、そのまま眠ってしまった──。
「──シルク!私よ!開けて頂戴!!」
明け方、まだ日も登りきらないうちに扉の前で声が聞こえた。何事かと思ったがとりあえずシルクを起こしに行こう。
「シルク!私よ!……部屋間違えてるかしら」
──ん?この声……ミリアーナ殿下?
「どしたのふろーら」
びっくりしてるとむにゃむにゃとシルクが起きてきた。
「いや、あのね」
「シルク!開けて!私よ!!」
シルクがぎょっとした顔で扉に目を向ける。
「へ?ミリアーナ殿下?」
◇ ◇ ◇
『なぁに、あなた長い爪が怖いの?』
『昔、継母に顔を引っ掻かれた事がございまして』
『ふうん、そう』
もう八年も昔、お茶会できれいな髪ね、と私に手を差し向けたご婦人に、思わず怯えた態度を取ってしまったことがあった。しばらくするとミリアーナ殿下の爪は短く切り揃えられていた。
『殿下、お爪が……』
『別に、私もヴィオラを始めるからよ』
一介の侍女のために爪を切られるなんて。
それから本当にミリアーナ殿下は宮中楽団でヴィオラの手ほどきを受け始めた。
そんなわけで、ミリアーナ殿下はシルクとも面識がある。
──で、これは一体どういう状況だろう?
「ご、ごべんなざいぶろーらぁー!!」
さっきまで私が寝ていたソファで殿下が号泣している。こんな殿下の姿、初めて見る。
「殿下、何があったか存じ上げませんが、謝罪するなら名前くらいちゃんと呼ぶべきだと思います」
さすがシルク、王族相手でも容赦がない。
「っひっく……フローラ……ごめんなさい。っこんなつもりじゃなかったの。わだし、もるずらーどに嫁ぎたくなくて、それで、あど、媚薬を盛ったの」
「ねえフローラ、これ私が聞いていい話?」
「シルクも、聞いで!ぞ、れでね、お兄様に叱られても、既成事実があでば、ライナスと結婚できなくても……モルスラードとの婚姻がなくなると思って、まさか、フローラが犯人にされるなんて……迷惑掛けて、傷つけてごめんなざぁい!」
そうしてまた泣き出してしまった。慌てて水を用意して背中を撫でながら飲ませる。ひどい取り乱しようだ。
「迷惑は掛けられましたけど、傷ついたのは私の勝手ですから」
「……ううん、私フローラがライナスを好きなのわかってた。私の侍女という仕事に誇りを持っているのもわかってた。わかってたのにフローラが身代わりになるって、お兄様を止めなかった。私が全部悪いの」
「そんなに謝られて……殿下らしくありません」
ハンカチでそっと涙を拭う。貴族の陰口にも涙を堪えていたミリアーナ殿下がおとなしく私に涙を拭かれている。
「私、モルスラードの王子殿下に歓迎されていないの。ううん、いっそ嫁ぐ前から疎まれてるのよ……」
「あぁ、それが不安でらしくない行動をお取りになったんですね」
ずっと疑問だったのだ。ミリアーナ殿下にしては媚薬を盛るなんて短絡的過ぎるし、全体的に計画が杜撰だった。
「殿下、私には状況がいまいち把握しきれないんですが、それで今日はどうしてこちらに?」
「あ!そうだった。私、逃げてきたの」
すっと泣き止んで、真剣な眼差しを向ける。
「何からですか?」
「あの媚薬、内宮でどこかの貴族の子弟から入手したんだけどね、そもそも、それもモルスラードの王子が私との婚姻を破棄する口実を作るために撒いた餌じゃないかって。そう話してるのを聞いてしまったのよ!」
「あぁ、他国から最近流れてきた媚薬……」
「お兄様は表沙汰にせず、私をこのまま輿入れさせようとしているけど、私そんなの嫌!」
「確かに、相手がそこまでするくらいなら、嫁いだあとのミリアーナ殿下の扱いなど、火を見るより明らか……」
「ちょっとシルク……」
「ぞうなのよおぉぉぉ!!」
せっかく収まったと思ったのにまた泣き出してしまった。
「ずっっと閉じ込められてたけど、昨日の夜会のあと、ちょっと警備が手薄になって、こっそり逃げてきたの」
「逃げてどうするんですか」
「媚薬を持ち込んだのが、モルスラードの差し金って証拠が出れば、いくらお兄様でも婚姻を取り止めにしてくれるんじゃないかって」
「捜査が終わるまで隠れていようってことですか?」
そんなに長期間匿うのは流石に無理があるとシルクと顔を見合わせる。シルクもげっそりとした顔になっている。
「いいえ、私自身がモルスラードのしっぽを掴んで、こっちから願い下げよ!って破棄してやるのよ!」
匿うよりも、さらに無理がある話に頭が痛くなってきた。
ミリアーナ殿下が言うにはこうだ。
内宮でミリアーナ殿下に媚薬を渡した不良貴族は前々から王太子殿下にマークされていた。城下で国外からの違法薬物を売買している組織とそれに関わる貴族たちも証拠を掴んでいるだろう、と。
但し、今回の媚薬は出入りの厳重な内宮で取引された。内宮は出入りの際に厳重な持ち物検査がある。
モルスラードから内宮、この流通経路がすべて明らかになれば、きっと婚約が破棄できる。──はずだ、と。
王太子殿下が捜査班を組んでお調べになってもまだ解決していないのに、どうにか出来るとは思えない。とりあえずここは話を合わせて、どうにか内宮にお戻り頂きたい。
「粉末状の薬物ならいくらでも持ち込みようがあるんじゃないですか?」
シルクが殿下のお話に興味を持ち始めている。子どもの頃から好奇心旺盛で事件やトラブルが好きなのだ。大人になって幾らか落ち着いたけれど。
「いいえ、離宮にいる王弟殿下が薬物中毒を疑われているから、内宮の出入りには麻薬検知犬まで導入しているのよ」
「あぁ、フローラは渡り廊下で出入りしているから知らないのか」
「……渡り廊下を利用している近衛騎士、従者、高位貴族なら?」
「それはお兄様方が抜き打ち検査したけれど、予め許可された私物しか持ち込めないわ」
確かに、内宮と外宮の渡り廊下での行き来は、騎士の剣を除いて手ぶらが原則だ。
「たとえば……楽器はどうですか?」
「確かに、外宮で宮中演奏家から指南を受けているなら許可が出る」
「でも高価な楽器に薬物を仕込むの?口を付ける管楽器なら危険ですらあるわ。それに袋に入った薬物なんて見つかったら一発で打首決定よ」
暮らしていたから改めて考えたこともなかったが、内宮の警備は厳重だ。
「粉末の薬物……粉末……粉……」
シルクが眉間を抑えて考え始めた。粉……粉……とぶつぶつ言って少し怖い。
「……どうしたの?」
「いや、最近なんでこんなに粉が?って思ったことが──あ!!あのいけ好かないデューター!」
「「デューター?」」
ミリアーナ殿下と声が重なったが、訝しげな私の声に反して、殿下のお声は生き生きしていらっしゃる。
まさか本当に、事件を解決するつもりだろうか──。




