五一 安堵・憤怒・恐怖
騙されていたことに気づき、まず抱いた感想は安堵である。私が六十億という命を背負わずに済むこと、そして価値のない男であろうと、その命を奪わずに済むことに安堵した。
しかし、電車に揺られ落着きを取り戻すと、次第にはらわたが煮えくりかえってくる。
腹が立つ、という言葉を、このときはじめて私は理解したのだと思う。
全身が燃え上るように熱くなり、奥歯を噛みしめていた。
唸り声が聞こえ、それが自分のものであると気づき戦慄した。私はどちらかといえば穏やかな性格だと自負している。仕事でも近所付き合いでも、事なかれ主義を貫きとおし、笑顔を絶やすことはほとんどない。しかし、今回の件は笑って済ませられる問題ではなかった。
私は電車を飛び降り、乗り換える。目的地は弥生のアパートだった。
最寄りの駅につくと、私は走り出していた。人が減りつつある繁華街を駆け抜け、瞬く間に弥生のアパートへと辿り着いた。
息を整え、念のために弥生の携帯に連絡してみる。
コール音すら鳴らなかった。お客様の都合により云々という機械的なメッセージが流れるだけだ。
私は弥生の部屋の前に立つ。部屋に明かりはついていないが、構わずノックする。古い木製のドアが軋むまで、何度も叩いた。
しかし、応答はなにもない。
ドアノブを掴んで回してみたが、施錠された固い手応えしかなかった。居留守している気配は感じられない。
そのまま彼女の帰宅を待ち伏せてやろうか、とも考えたが、何もせず待っていては、いずれ自分を押しとどめられず、ドアを叩き壊してしまう自分の姿が想像できた。
私は別の手がかりを求め、再び走り出す。
次は、弥生に連れていかれた小さな喫茶店だ。
店の名前も知らないが、場所は記憶している。
しかし、店の前に立った私は落胆した。その店の痕跡は確かにあるのだが、雰囲気は全く別のものだった。前に訪れたときも古いものであったが、営業している様子が見られた。しかし今目の前にあるその喫茶店は、明らかに廃業したものだった。椅子がテーブルの上に並び、食器棚の中身も空っぽだ。
あの店のママも、弥生の仲間であったことが分かった。
これは、私が思っているよりも大きな組織があることを感じさせた。店を一時的にでも改装してまで、私を騙したわけである。金も時間もかかったトリックだ。
西上一人を害するだけで、ここまでおおがかりな仕掛けを用意するだろうか。
ここで私は、恐怖を抱きはじめていた。
人を殺めねばならない恐怖ではなく、自らの身が危険にさらされている恐怖である。
殺しはしていないが、西上を殴りつけ怪我を負わせたという事実もあり、私は警察に駆け込むこともできなくなっている。
もう関わらなければいいのだ。
気持が萎えてしまった私は、そのまま逃げるようにかつて喫茶店であった場所から去った。