三九 西上という男
私は帝都大学のキャンバスに立っていた。
着飾った学生たちが、青春を謳歌している。私が学生だったころと、殆ど変らぬ風景だった。
私はこの大学の出身ではなかったが、所属していたテニスサークルの活動で、何度かこの学校にも足を運んだことがある。概ねの学部の位置関係も把握している。
私は生物学部の研究棟へと向かう。弥生は、西上という男が偶発的に人類を滅ぼすウィルスを開発するといっていた。ウィルス関係ならば生物学部だろうと、勝手に決めつけていたわけだ。
「西上先生の研究室がどこか知ってる?」
生物学部の周りで、私は歩いている学生に声をかけた。できる限り印象に残らぬよう、自然な形で聞いたつもりだ。彼らの誰ひとりとして、私の顔を憶えられては困る。私はどこから見てもセールスマンだろう。医薬品か研究器具の営業に見えるはずだ、と自分に言い聞かせる。
「二号館の三階、だったと思うけど」
三人目にして、やっと西上の研究室を知る学生を見つけた。黒縁眼鏡の地味な学生だった。私は礼を言い、教えられた二号館を目指す。
幸いなことに、その建物の見取り図が入口に張られていた。その中に、西上敏尚の名前を確認する。黒縁眼鏡が教えてくれた三階ではなく二階だった。私はさっそく階段を駆け上がり、その研究室の前に立った。
さて、どうしたものか。私は直前になり途方に暮れる。その男を殺めねばならないことは、もう決めていた。しかし、どんな男を殺さなければならないのか、私はどうしても知っておきたかった。どんな風貌で、どんな性格で、そしてどのような家族構成をしているのか。
彼が天涯孤独で、どうしようもなく嫌な奴で、誰にも煙たがられているような男だったら、多少なりとも気分が晴れる。逆に、誰にも愛される、優しい父親であったらどうしよう。彼が犯そうとしている行為は、人類の存続に関わる問題だ。彼を殺すことに、それほど抵抗はない気もしていた。しかし、私と同じ父親であったら、彼の息子か娘が不幸になってしまう。私はそれだけが気がかりだった。
扉の前で躊躇していると、中から女学生が一人出てきた。生物学部らしく、白衣を着ている。私は逃げるタイミングを逃し、その彼女とまともに視線を合わせてしまった。
「あの、西上先生はいらっしゃるかな?」
つい、そう質問していた。後のことなど考えてはいない。
「いえ、今日は戻らないとおっしゃってました。お約束してました?」
「あれ? おかしいなあ、この時間にアポイントとってたつもりだったんだけど」
私は営業で培った口八丁をもって、必死にその場を繕った。
「君、なにか伝言とか聞いてない?」
女学生はすまなそうに首を振った。そんな伝言、あるわけない。
「すみません、何も聞いてません。私急いでるので、もういいですか?」
「他には、誰もいないのかな?」
「はい、もう誰もいませんよ」
女学生は急いで去ってゆく。
私は心を決め、研究室の扉を開けた。鍵はかかっていなかった。