三八 もうひとつ、知らねばならないこと
もしも、私が殺めねばならない相手が裕樹だったなら、私は迷わず世界が滅びることを選んだ。
自分も含めた全人類の命よりも、私は裕樹を選ぶ。
私の決断により、裕樹は救われるのだ。だから私は、西上という男を殺すことにする。
心が定まると、気分は軽くなった。
「飯くれ」
声も明るくなっていた。
妻は笑顔で応えると、次々にテーブルに皿を並べた。私は出されたものを全て平らげ、風呂に入り、ビールを呷って眠った。昼間さんざん寝ているため、眠れないことを覚悟していたが、睡魔は容易に訪れた。
翌朝、いつもどおり妻と息子に見送られ、私は会社へと向かう。妻は、私の疲れが取れたことで元気を取り戻したと思っているようだ。嬉しそうに笑っていた。
聡子に対して隠し事をしていること、これから私がしようとすることを考えると、後ろ暗い気持ちにさせられる。
駅のホームで、私はメモ用紙を取り出して、携帯電話の番号を見つめた。弥生に繋がる番号だ。
その場で連絡を入れてもよかったはずだ。私の心は決まっている。しかし、どうしてもまだ、その番号をダイヤルすることができなかった。
決断はしているが、もうひとつだけ、私は知らねばならないことがあった。
会社で昨日の分の書類業務をこなし、私は直ぐに事務所を出る。
会社など休んでもいいのだろう。私には、全人類を救わねばならないという、この世で最も重要な仕事が待っているのだから。
しかし、一縷の希望も持っている。それは、私が西上という男を殺めた後、今と同じ生活を続けるということ。
俗に言う、完全犯罪ができれば、私は世界を救うと同時に、自分の人生を守ることもできる。それは、聡子や裕樹をも守ることになるのだ。
そのためには、見た目上でも普段通りの勤務を続けることが望ましいと考えていた。
弥生とその仲間が、どれだけ手助けをしてくれるのかは分からない。なんとか自分でも、手だてを考える必要があるだろう。
そして、もうひとつ私が知らねばならないことがある。それを知るため、私は今日も仕事をさぼることになる。




