二九 涙の理由
家に帰り家族の顔を見ると、一層気分は重くなった。
弥生の話が真実だとすると、この大切な命が失われてしまうのだ。
家族の命だけではない。六十億という命が消えるのだという。
到底信じられぬ予言だ。
忘れてしまおう。
私には関係のない話だ。
何も取り柄のない、ごく平凡なサラリーマンを捕まえて世界を救えだなんて、笑えない冗談だ。
食事の準備をしている聡子は、私が仕事で疲れているだけだと見ているのだろう。
裕樹はもう寝ていた。
私は寝室にそっと入る。布団の上から上半身だけはみ出す形で、裕樹は静かな寝息をたてていた。
私は息子を布団の上に戻し、毛布を胸にかけてやる。
裕樹は口元が歪み、笑っているように見えた。楽しい夢でも見ているのだろうか。
私は息子の隣に横になり、薄暗い寝室で裕樹の寝顔を見続けた。
「……パパ?」
気配を感じたのか、裕樹の目を覚ませてしまったようだ。
「……パパ、なんで泣いてるの? どこかイタイの?」
息子に指摘され、ようやく私は自分が涙を流していることに気がついた。
「なんでもないよ。目にゴミが入っただけだ。もう遅いからおやすみ」
裕樹は安心したのか、再び目を閉じて寝入ってしまった。
ただならぬ雰囲気に気がついたのか。聡子が寝室の前で私を待っていた。
「ねえ、何があったの?」
「何もないさ。疲れてるだけだよ」
涙を拭い、私は無理のある言い訳を繰り返した。
そして、味のない料理を食べた。
布団に入ってからも、寝付くことができなかった。最後の弥生の言葉が、何度も何度も頭に木霊する。
時間がないんです。
彼女はそう言った。時間がない、と。時間がないということは、今はまだ間に合うということなのだろう。
私は、引っ越したときもらったウイスキーの封を開ける。誰にもらったものかも覚えてないオールドだ。それをストレートで喉に流し込み、ようやく眠気を感じることができた。