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見上げる者と、見下ろす者

 学院の廊下は広く、日当たりが良く、生徒たちの服装は全員似たように整っていた。なのに最初の1週間、アルノーは誰とも目が合わなかった。正確には——合った。ただ全員、次の瞬間に逸らした。

 金髪。整った顔。ヴァリエール商会の御曹司という肩書き。そういうものを嗅ぎつけた相手が寄ってくるのは慣れていた。だから最初から、誰にも期待していなかった。

 二年目になると、三人が取り巻きのようになった。

 エリア・ルミナ。学年上位の成績を維持しながら、常に完璧な笑顔を作れる女。誰と話していても、目の奥だけは値踏みを続けている。アルノーの隣に立つ回数を、誰よりも数えている女だった。

 ソフィア・ランズ。エリアより一歩遅れて現れたが、負けん気だけは誰にも劣らない。エリアが前に出れば横に並び、エリアが笑えば同じ角度で笑う。真似ているようで、本人にその自覚はない。

 イリス・ノヴァ。二人の牽制の隙間を、器用に立ち回る。前に出過ぎず、引き過ぎず。三人の中で一番、計算高い笑い方をする女だった。

 三人がそれぞれ互いを牽制しながら、アルノーに向けては笑顔だった。その笑顔がどこを向いているのかは、分かっていた。ヴァリエール商会の跡取り。金級のアーティファクト。将来性。三人が見ているのは、アルノーという個人ではなく、その肩書きの向こう側にある何かだった。

 それでも——そういうものとして、受け入れていた。誰も彼もが同じ目で見てくるのなら、それが普通なのだと思うしかなかった。

 だから、あの一年生に気づいた時、最初は違和感でしかなかった。

 ミルク色の髪。翠色の瞳。小柄な体格。廊下ですれ違っても、目が合っても、何も起きない。憧れる目でもなく、媚びる目でもなく、怯える目でもない。ただ、素通りしていく。

「……アルノー? 同じ学年の人だよね」

 誰かに聞かれて答えていた、その一言を、たまたま耳にした。それだけだった。名前を知っている。ただ、それだけ。ヴァリエール商会も、金級のアーティファクトも、何一つ結びついていない目だった。

    *

 その違和感を、うまく扱えなかった。声をかけようとすると、変なことが出た。何度もそれを繰り返して、自分でも意味の分からないことを言っていた。

「今なら、俺の姫にしてやってもいいぞ」

 プリムが、少し首を傾げた。アルノーは、その反応を勝機と受け取った。

「俺はこの《フレスベルグ》に選ばれし者だ。いずれ英雄になる男だ。現に学院では1位だ。やはり俺こそが、英雄に相応しい。英雄の隣には、英雄を支える姫が必要だ。君に、その栄誉を与えよう」

 プリムは、きょとんとした顔でアルノーを見た。それから、はっきりと言った。

「え、姫? 私、お姉ちゃんを探すのに忙しいので、無理です」

 それだけだった。怒りでも、嫌悪でも、軽蔑でもなかった。ただ、事実として断られた——その言葉の中心にあったのは、アルノーではなく、プリムの目的だった。最初から、眼中になかったのだ。

 悔しさに任せて、つい口が滑った。

「……お前程度が、俺の隣に立てると思うなよ」

 プリムは、それにも大して動じなかった。「そうなんだ」とだけ返して、興味なさそうに離れていった。それが、一番こたえた。

 隣にいたカレンが、一歩、アルノーとプリムの間に入った。

「プリムに用があるなら、まず私を通して」

 藍色のつり目が、まっすぐアルノーを見た。アルノーは先に目を逸らした。その様子を、少し離れた場所からエリアたち三人が見ていた。

「……振られたの?」

 ソフィアが、小声でイリスに聞いた。

「みたいね」

「アルノー様が? あの子に?」

 エリアが、少し眉をひそめた。声には出さなかったが、その表情の奥には、隠しきれない安堵があった。ライバルが増えなかったことへの、小さな安堵。

    *

 その年のうちに、プリムは退学になった。星紋なし。検査で見つからなかった。退学の廊下ですれ違った時、アルノーは口が動いていた。

「見たか? ミルクホワイトのやつ、せっかく姫にしてやると言ったのに。姫候補だったら例え無印でも俺は見捨てなかったのだがな。やはり、姫の器ではなかったか」

 プリムは振り返らなかった。

 取り巻きの三人が笑った。

 エリアが手で口元を覆った。ソフィアが少し大きめに笑う。イリスだけは、いつもの冷静な表情のままだった。

「ほんとにね」

 エリアが続ける。

「無印だもんね」

「かわいそう」

 ソフィアが、少しも可哀想だと思っていない声で言った。

 イリスだけは何も言わず、アルノーの横顔を見ていた。

 アルノーは笑えなかった。

(……なぜ、あんなことを言った)

 今でも、答えが出ない。引き止めたかったのかもしれない。振り返らせたかったのかもしれない。

 だからといって、許される言葉ではなかった。

 あの、誰でもない顔でこちらを見ていたプリムの目を、もう一度見たかっただけなのに——自分は、いちばん最低なやり方を選んだ。

    *

 プリムが退学になって、間もなくのことだった。ミストチューブに、知らないチャンネルが現れた。

「プリムちゃんねる」——最初は、そういう名前だった。

 サムネイルを見て、止まった。ミルク色の髪。ギルド貸し出しの、安っぽい革鎧。翠色の瞳が、まっすぐ前を向いている。同接数は、たったの3人だった。アルノーは、その初配信を最初から最後まで見た。

 コメントを打つつもりは、なかった。ただ見ているだけでいい。そう決めていた。

 配信の中盤、プリムが何かにしゃがみ込んだ。黒い小さな塊を、両手でそっとすくい上げている。何をしているのか、最初は分からなかった。傷ついた魔物か、迷子の使い魔か——画面越しでは判別できない。

 プリムが、その塊を胸元へ抱き寄せた。黒い塊が、ぷるりと震える。

(……何だ、あれは)

 気づけば、指がコメント欄を叩いていた。

『ん? ベビースライム……?』

 打ってから、我に返った。コメントするつもりなど、なかったはずだった。慌てて画面を閉じかけたが、指は止まらず、結局最後まで見てしまった。

 鉄級アイアンライセンス。星紋なしで退学になった後、風呂場で偶然見つけたらしいと、学院で囁かれていた噂そのままの虹色の星紋。しかもアーティファクトは胸の裏側にあって、発動のたびに鎧を開かなければならない。

 それでも——まっすぐだった。転んでも、吹き飛ばされても、胸元を必死に隠しながら走っていても、学院にいた頃と、何も変わっていなかった。

(……くそ)

 なんで今更、と思った。配信を切ってから、スマホを床に投げた。拾って、また開いた。また見た。

    *

 今日の登録者数は、58万人だ。昨日の53万人から、5万人増えていた。

 アルノーは、スマホをベッドサイドに置いた。すぐにメッセージが来た。エリアから「今日ランチどこ行く?」、続いてソフィアから「私も! エリアが先に聞いたの?」、少し遅れてイリスから「ねえアルノーく〜ん、今日暇?」——三人が、ほぼ同時だった。

(……俺は英雄だぞ。ランチの誘いくらいで、動揺してどうする)

 アルノーは、画面を下にして置いた。三人が取り巻きだということは分かっていて、そういうものとして付き合ってきた。悪い気はしなかった、はずだった——1年前までは。

(……だから、なんで今更)

 足が、止まる感覚がある。プリムのチャンネルを開くたびに、また増えている。3人から始まって、今日で58万人だ。イレギュラーモンスター戦の配信が拡散し、さらに昨日の公式発表で一気に伸びた。

 自分のチャンネルは、8万人——正確には、そこからゆっくりと増えている程度だ。それでも、プリムの数字が増えるたびに、胃の底が重くなる感覚がある。

(……焦る必要はない。英雄の価値は、数字では測れない)

 ランチに行けばいい。エリアと、ソフィアと、イリスと笑いあって、写真を撮って、帰ってくる。それが今の自分の現実だ。

 返信しようとした。指が、スマホの上で止まった。また画面を開く。竜姫バニーちゃんねる——チャンネル名が変わっていた。昨日と違う。

「本日20時配信予定」

 20時。今日のランチは、16時には終わる。

(……関係ない。俺は、忙しい男だ)

 見ても見なくても、自分には何も関係がない。エリアに「ランチ行こう」と返信した。ソフィアとイリスにも。三人が一斉に「やった!」と来た。

 アルノーは、スマホを置いた。窓の外。街が、昼の光の中にある。プリムが今日も、どこかのダンジョンに潜っているのだと思うと——どういうわけか、じっとしていられなかった。

 着替えた。上着を羽織る。鏡を見た。金髪。金級のアーティファクト。ヴァリエール商会の御曹司。それだけで、ここまできた。

(……俺には、これで十分だ)

(……いや。十分などという言い方は、英雄らしくないな。俺には、これがふさわしいのだ)

 玄関の扉を開けた。廊下に出て——足が、止まった。1年前のあの廊下が、なぜか頭に浮かんだ。何も結びついていなかった、あの目が。

「……アルノー? 同じ学年の人だよね」

 あの時に感じた居心地の悪さは、今からでも消えるのだろうか。答えは出ないまま、アルノーは廊下を歩き出した。今夜の配信は、見る。それだけは、決まっていた。

 ポケットの中で、スマホが鳴った。エリアからだった。

「アルノー様、今日楽しみにしてます!」

 文面の向こうにある笑顔を、アルノーは想像できた。計算された、完璧な笑顔だ。返事を打とうとして——やめた。

 代わりに、ダンジョン都市の方角を、一度だけ見上げた。

(……次に会うなら、今度こそまともに話す)

 そう思って、すぐに、

(……いや。ただ話すだけでは、印象に残らない。もっと英雄らしく振る舞い、話さねば)

 と考え直している自分が、まったく別の方向へ向かっていることに、アルノーはまだ気づいていなかった。

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