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60話:ライラの気持ち

(ライラの視点)


意識がゆっくりと浮上してくると、まず鼻腔を突いたのは湿気とカビの入り混じった不快な臭いだった。周囲は異常なほど静まり返っており、微弱で切迫した呼吸音と、水たまりに落ちる水滴の澄んだ音だけが響いている。


続いて感じたのは、空気に溶け込んだような「恐怖感」だった。それは自身から発せられたものではない。目覚めたばかりでまだ混乱している頭では、その感覚の出処をすぐに判断することはできなかった。


薄く目を開ける。視界に飛び込んできたのは、賑やかな街並みではなく、冷たい鉄格子だった。ここは古びた牢獄だ。薄暗い空間には見知らぬ子供たちが散らばっており、体を丸めている子もいれば、力なく地面に倒れ伏している子もいる。その中に一つだけ、見慣れた顔があった――シャティだ。彼女は不安そうに頭をライラの腕に擦り寄せ、心配に満ちた瞳を向けていた。


「私は大丈夫……うっ!」


声を絞り出そうとした瞬間、全身を切り裂くような激しい酸の痛みが走り、指一本動かすことすら困難だった。


(――しまった。この感覚、覚えがある。マリーナさんに一度体験させてもらった、『アオウミウシ』の神経毒だ)


アオウミウシは海に生息する特異な生物だ。全身が毒に覆われており、捕食しようとする者の全身を毒で侵蝕する。彼らはこの特性を利用して身を守り、獲物を狩るのだ。

この神経毒は即効性で命を奪うものではないが、体内に毒素を蓄積させ、行動能力を奪い、最終的には衰弱死に至らしめる。


今の自分が指一本動かせない状態から察するに、おそらく毒を注入されてからすでにかなりの時間が経過しているのだろう。


懸命に視線を巡らせ、周囲の子供たちを観察する。


彼らの瞳は恐怖に染まっているが、呼吸はあり、辛うじて立ち上がれる子もいる。つまり、体内の毒の量はごくわずかで、単に子供たちから活力を奪うためだけのものなのだろう。


(それにしても、なぜ私はこんな所にいるのだろう……。兄さんとの待ち合わせ時間がもうすぐなのに……謝りに行かなくちゃいけないのに……)


その時、ライラは記憶を取り戻した。昨日、兄さんと大喧嘩をした後、自分は一度キャンピングカーに戻って魔道具に魔力を充填し、それから一人でマリーナさんのところへ向かったのだ。


珍しいことに、マリーナさんはずっと私を庇うようなことはせず、触手で優しく髪を撫でてくれた。


『二人の関係に深く立ち入るつもりはないよ。小ライラには小ライラの考えがあるし、あのクソガキ(ロル)にはあいつの立場があるからね。この悩みは、幸福な悩みってやつさ』


マリーナさんは兄さんの考えをお見通しのようだったが、明言は避けた。ただ微笑んで、ライラの目尻の涙を拭ってくれた。


『お互いを大切に想いすぎているのさ。たまには、少しワガママになってもいいんだよ』


翌日の早朝、ライラはエイヴァからメッセージを受け取った。

表向きは教会の人手不足を手伝ってほしいというものだったが、ライラには分かっていた。彼はきっと、兄さんのためにフォローを入れようとしてくれているのだと。


だが、エイヴァ姐が兄さんを庇う必要なんてないとライラは思っていた。全ての原因は自分にあり、兄さんは何も間違ったことはしていないのだから。


最初は行く気になれなかったが、すぐにマリーナさんに追い出されてしまった。


『行っておいで。せっかくの龍王祭に、私のところに引きこもってるなんて勿体ない。気晴らしに行っておいで』


感謝を告げて辞去し、ライラは教会へ向かった。龍王祭の影響で、教会全体がひどく慌ただしく賑わっていた。


最初は本当に手伝いだけだったが、午後になり、牧師や修道女たちが子供たちを連れて街へ出かけた後、エイヴァがライラの傍にやって来た。


『王子様はね、本当にライラちゃんを大切に想っているのよ〜! ずっと王子様が好きなあたしが保証するわ〜!』


兄さんのことを語るエイヴァ姐がとても幸せそうだったので、私も思わず笑ってしまった。


(そんなこと、分かってる。ずっと前から分かってる……兄さんが私を大切にしてくれていることなんて……ただ……)


夕刻が近づき、ライラは時間通りに教会を後にした。エイヴァはわざわざバスケットを用意し、中に兄さんの好きなお菓子を詰めてくれた。きっと、これで仲直りしてほしいという願いが込められているのだろう。


彼女はバスケットを抱えて通りを歩いた。昨日あんなに楽しみにしていた屋台の数々も、今の私には全く食欲をそそらなかった。


ただ、親に手を引かれた子供たちの姿だけが目に焼き付く。


兄さんと私は、本当の兄妹ではない。偶然同じ『漂流者』に拾われたから、兄妹として振る舞っているだけだ。

血の繋がりはない。ならば、この「家族」という絆は、一体いつまで続くのだろうか?


そんな思考の渦中、彼女の耳は路地裏から漏れ聞こえる微かな音を捉えた。はっきりとは聞こえなかったが、子供の助けを求める声のようだった。


(まさか、人身売買組織? なら、助けなくちゃ! まずは兄さんに電話して……兄さんに……)


(ううん、私一人でもできるはずだ)


(もし私一人で解決できれば……兄さんだって……)


その後の記憶はひどく曖昧だ。覚えているのは、正面から現れた、シャティが遭遇したものと同じ『呪いの人形』が数体。そして、ブートさんを助けようとした瞬間、背後から受けた一撃……。


(……やっちまった。自分にもできると思っていたのに……結局、何もできなかった……)


(兄さんは今頃、必死に私を探しているに違いない。普段は鈍感なのに、こういう時だけは妙に勘が鋭いから)


(……なんだか、泣きそう。自分らしくないな。昔はどんなことがあっても、心が大きく揺れ動くことなんてなかったのに。今は、こんなにも簡単に心が傷ついてしまう……)


「お姉ちゃん、大丈夫? 何か悩み事があるみたい」


突然、柔らかな声が彼女の思考を断ち切った。一人の銀白色の長い髪を持つ小さな女の子が寄り添ってきた。非常に可愛らしい容姿をしているが、今は環境のせいで頬が土埃にまみれていた。


純血の人間のように見える。見覚えがないので、ブートさんの教会の子供だろう。


「私……が?」


毒が絶え間なく体を蝕み、ライラの体を金縛りのように動けなくしている。呼吸すら重く、額にはじわりと汗が滲んでいた。


しかし奇妙なことに、その女の子が近づいてきた瞬間、体が少しだけ軽くなり、言葉を紡ぐのも先ほどより楽になった気がした。


「……疲れすぎたのかな。まさか小さな子供に見透かされるなんて……君はすごいね……兄さんは、一度も気づいてくれなかったのに……」


ライラは昔から、自分の本心を隠すことには自信があった。それは幼い頃から多くの漂流者と交流する中で身につけた術だった。


少しだけ力が戻ったので、ライラは手を伸ばして女の子の汚れを払ってあげようとした。だが、自分の手も汚れていたため、ただ曖昧な痕を残すだけになってしまった。


「ありがとう、お姉ちゃん。お姉ちゃん、何か悩みがあるの?」


女の子は嫌がるどころか、笑顔で感謝した。その純真で澄み切った銀白色の瞳を見つめていると、なぜかライラは急に、すべてを吐き出したいという衝動に駆られた。


「……お姉ちゃん、君にだけ話すね……内緒だよ……」


どうせ兄さんには聞こえない。だからライラは、まるで自分とは無関係の物語を語るように、あえて軽快な口調を作った。


「昨日ね、兄さんと喧嘩しちゃったんだ……」


あれは喧嘩と呼べるのだろうか。ライラ自身にも分からない。基本的にはすべて自分が悪いと思っており、兄さんはただ私を心配して言ってくれただけなのだから。


「私ね、兄さんとは本当の兄妹じゃないんだ。同じ漂流者に拾われたから、兄妹って呼んでるだけで……」


脳裏に一面の火の海がフラッシュバックする。私たちを育ててくれた漂流者のお父さんが、二人の前から去る前、兄さんの肩を掴み、渾身の力を込めて兄さんに言い聞かせていた姿。


「一年前、私たちが住んでいた場所が騎士たちに粛清されたの。お父さんは私たちを逃がすために、時間を稼いで残ってくれた。その時、お父さんは兄さんと約束したんだ。全力で私を守るって」


エイブダムに来てから、兄さんは雨の日にすぐにマリーナさんに出会い、自分が心身ともに疲弊して病気になった時には、すでに仕事を見つけ、学校の手続きまで済ませてくれていた。


「兄さんはね……すごく立派な人なんだよ……。あんな風に見えても……性格は少し怠け者だけど、本当はすごく真面目で、いつも問題を完璧に解決してくれる……」


いつもは面倒くさがりでサボってばかりいるように見えるが、ひとたび依頼を受ければ、全力を尽くしてあらゆることに気を配る。


私がいなくても、兄さんは同じように依頼をこなせるはずだ。


とても……優秀な人なのだ。


「兄さんが約束を破らないことも、私に文句を言ったことがないことも、全部知ってる……」


そこまで言った時、突然ライラの頬に涙がこぼれ落ちた。彼女は自分の下唇を強く噛み、言葉を心の奥に押し込めようとした。だが、それはパンドラの箱のように、一度開いてしまえばもう止めることはできなかった。


「でも、それが……自分が兄さんの足手まといなんじゃないかって、思わせるの……」


震える声は、ライラがずっと心に抱えていた恐怖を隠しきれなかった。


「すごく怖いの……ずっと考えてた。もし私がいなければ……兄さんはエイブダムでもっと出世できたんじゃないか。毎日私のために振り回されるんじゃなくて……」


学校生活は本当に楽しい。新しい知識を学び、友達と悩み事とは無縁の流行りの話で盛り上がる。毎日がとても楽しかった……。


でも、兄さんは?


毎日放課後、ハイム道具屋に帰ると、兄さんは退屈そうにカウンターに座って私に挨拶をしてくれる。その度に、不安な感情が胸の奥で渦巻いていた。


「学校生活は本当に楽しいよ……だからこそ、怖いんだ……口にするのが、怖い……」


兄さんが羨ましそうな顔をするのが怖い。自分の生活が私のせいで足止めされていると兄さんが感じてしまうのが怖い。


自分が「家族」という鳥籠となり、兄さんが大空へ羽ばたくのを邪魔してしまうのが怖い。


(兄さん。本当はね、「思い切り遊んでおいで」って言われるのが嫌なんじゃないんだ。私はただ……「お前が手伝ってくれて本当に助かったよ」って、そう言ってほしいだけなんだ)


「だから、早く自立して、兄さんを安心させられる存在にならなきゃいけないの……」


もし私が早く自立した人間になれれば、兄さんもずっと心に秘めているものを追い求められるはずだから。


(兄さん……会いたいよ……)


女の子は笑顔で最後まで話を聞き終えると、小さな手でライラの涙を拭ってくれた。その仕草は、子供とは思えないほど優しかった。


ライラが感謝を伝えようとした、その時――


牢獄の上方にある鉄格子の隙間から、何かが投げ込まれた。青い三角形の宝石。それは着地するなり、即座に力場を展開した。


ライラはその魔道具を知っていた。兄さんがよく使う魔道具『沈黙のサイレントヒル』だ。


(でも――なぜ?)


次の瞬間、乱暴に二度ほど蹴りつける音が響き、錆びついた鉄格子が蹴り破られた。聞き慣れた声を伴って、一つの影が破れた穴から牢獄の中へと飛び降りてきた。


それは、いつも私に安心感を与えてくれる人。


「ライラ、お前は……本当に大バカ野郎だな!」


そして、私がずっと申し訳ないと思い続けていた人。


「助けに来たぞ、ライラ」

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