2話:いつもの朝
ガタン――ゴトン――ガタン。
列車が線路を滑るように走る音が響く。それは、エイブダムという名の都市の、新たな一日の始まりを告げる音だ。
薄く目を開けると、視界に入ってきたのはキャンピングカーの少し古びた天井だった。その見慣れた光景は、先ほどまで脳裏にこびりついていた悪夢とはあまりにも鮮明な落差を生み出していた。
傍らの目覚まし時計に目を遣る。いつもと寸分違わぬ、六時三十分。今この瞬間、どれほどのサラリーマンが満員電車に揺られながら出勤の準備をしているのだろうか。
そんな、どうでもいいことをぼんやりと考えているうちに、意識が徐々に覚醒していく。
灰色の寝袋からそっと抜け出し、足音を立てずに歩く。膝の高さにも満たない小さな冷蔵庫の前にしゃがみ込み、冷水を取り出して喉に流し込んだ。冷たさが喉の奥へと浸透した瞬間、この身体の活動開始の鐘が鳴り響いた。
今年度で二十歳になったロル・マフィロは、こうして早朝の静寂な時間を楽しんでいた。もっとも、あの胸糞の悪い悪夢さえなければ、なお良かったのだが。
実のところ、あの悪夢を見るのはこれが初めてではない。だからパニックに陥るようなことはないが、未だに夢の内容がさっぱり理解できないことに対して、少々のやるせなさを感じていた。
なにしろ、あの夢を見ると胃が捩り切れるように痛み、胸を押し潰されて息ができなくなるのだ。何よりタチが悪いのは、目が覚めると夢の内容を綺麗さっぱり忘れており、ただ純粋な不快感だけが残されるという点だ。本当に頭が痛い。
キャンピングカーのドアを静かに開けると、昇ったばかりの朝日が顔を照らした。眩しいが、確かな温もりがある。今日も良い天気になりそうだ。
この涼しい朝の空気も、あと少しすれば茹だるような暑さに変わるのだろう。ロルは両手を高く突き上げ、凝り固まった身体を大きく伸ばした。
少し前まではまだ肌寒さが残り、春の最後の名残だと思っていたのに。まさか今年の夏が、こんなにも早く熱気を伴って訪れるとは思わなかった。
「今日は暑くなりそうだな……」
朝日を浴びてそびえ立つ、列車が走るこの橙色の橋脚は、エイブダムの重要なランドマークだ。
伝承によれば、この橋脚はエイブダムと深い関わりがあるという。だが、この橋脚が都市にとってどんな意味を持つのかを理解するには、まずエイブダムの歴史から語らねばならない。
「企業」を中心に発展したと謳われる大都市エイブダム。多数の国々を結ぶ交通の要衝に位置し、現在は八ヶ国が各地へ向かうための通過点となっている。商人、旅人、漂流者、傭兵……何者であろうと、この地に足跡を残さずにはいられない。
今日これほどまでに繁栄を極めているこの都市も、最初は森の中にテントを張っただけの臨時集落に過ぎなかった。国境の外側に位置する曖昧でグレーな領域であり、各国にとって頭の痛い存在だったのだ。そのあまりにも重要な地理的条件ゆえに、各国はおろか裏社会の勢力までもがこぞって介入したが、勢力図が複雑に絡み合いすぎた結果、結局誰一人として完全に掌握することはできなかった。
その結果、エイブダムは瞬く間に闇市の温床へと変貌を遂げた。密輸、暗殺、裏取引……あらゆる日の目を見ない悪事がこの地で行われた。数年が経つ頃には、隣国を脅かすほどの火種と化していた。
各国が自国の利益を計算し、見て見ぬふりを決め込んでいたその時、一人の無名の傭兵がこの地に降り立った。
伝えられるところによれば、その無名の傭兵はたった一人で土着の勢力を全て根絶やしにし、新たな法規を制定して地域一帯をまとめ上げたという。さらには、手に入れた莫大な富を全て地元の施設建設に投じ、この地域の未来にとって極めて重要なインフラを築き上げたのだ。
その無名の傭兵の取り決めにより、エイブダムはいかなる国王や帝王の統治も受けず、この地域専属の法律を持つこととなった。すべての国家や企業は、この地に拠点を置きたいのであれば、その法規に絶対に従わなければならない。
八ヶ国の企業が進出したことで、エイブダムは雨後の筍のように急激な膨張を続け、瞬く間に一つの国家に引けを取らない巨大都市へと成長した。
赤レンガを一つ一つ積み上げて作られた、列車を走らせるためのこの橋脚こそが、当時の象徴的な建築物である。もし巨大な鳥となって空から見下ろせたなら、広大な都市をぐるりと円を描くように取り囲む、鮮やかな色の橋脚を目にすることができるだろう。本来の目的は、エイブダムの交通をより便利にするためのものだった。
しかし、ロルにとってこの橋脚にはもう一つの意味がある。それは、蔦が這うこの橙色の橋脚の下には、夜になるとたちまち『無料の駐車場』と化すスペースが存在するということだ。
キャンピングカーで生活しているロルにとって、ここは無料であるだけでなくスペースも広い。この広いエイブダムを探し回っても、これほど好条件の駐車スペースはそうそう見つからない。
ロマンに満ちた伝説なんかよりも、こういう現実的で実用的な『情報』の方が、ロルをはるかに満足させてくれるのだ。
そういえば、先ほどの傭兵の伝承には何の記録も文献も残されておらず、今となっては地元住民の口から口へと語り継がれるおとぎ話に過ぎない。
人の口を介せば、物語はどうしても現実と乖離していくものだ。だからこそ、そうやって口伝で残された歴史は、今やただの『伝説』として扱われている。
なにしろ、八ヶ国でさえ手を出せなかった巨大勢力をたった一人で壊滅させる人間がいるとしたら、そいつは一体どれほど強いというのだろうか。
いつの間にか、ロルの不快感も大半が消え去っていた。体がすっかり元通りになったのを感じながら、彼は振り返って自分のキャンピングカーへと視線を向けた。
外見からしてかなり年季が入っているこのキャンピングカーは、一年前、ロルが廃車置き場から格安で手に入れたものだ。
くすんだ灰色の車体にはあちこちに凹みがあり、無数の引っかき傷が残っている。おまけに車体の至る所に時代遅れのステッカーが無造作に貼られており、おそらく前の持ち主の趣味なのだろう。
だが実際のところ、車のメンテナンスはかなり行き届いており、全体として致命的な欠陥はほとんどなかった。ただ前の持ち主が定住を決意し、普通の車に乗り換えたかったというだけの理由だ。これを拾えたのは、本当に幸運だったと言える。
「いけない、あと少しで警察が駐禁を切りに来てしまいますね」
スマホを取り出して動画でも見ようとしたが、なんと朝日を眺めていただけで、いつの間にか三十分も経っていたことに気がついた。
急いで車内に戻り、手際よくパジャマを脱ぐ。安物のシャツを脱ぎ捨てた後、ロルは自分の心臓のあたりに視線を落とした。橋脚に這う蔦のように、彼の胸元にも似たような形状の黒い紋様が刻まれている。
無言のまましばらく観察し、特に変化がないことを確認すると、黒い長袖のスポーツインナーに着替え、その上に薄手のライトグレーのジャケットを羽織った。身だしなみを整え終えると、彼はベッドのそばへ歩み寄り、丸まっている布団を軽くポンポンと叩いた。
「親愛なる妹よ、そろそろ起きる時間ですよ。警察が切符を切りに来てしまいますから、お兄ちゃんの寝袋を片付けておいてくれませんか」
ロルが言い終わると、ただでさえ丸まっていた布団がさらにきつく縮こまり、やがて観念したように一つの頭がそこからのっそりと這い出してきた。
「朝……?」
それは今年で十六歳になる年頃の少女だった。灰色のセミロングヘアが肩に垂れ下がり、頭頂部には髪色と同じ半円形の熊の耳が生えている。アメジストのように美しい瞳には隠しきれない眠気が漂っており、彼女はベッドの上を身悶えするようにゴロゴロと転がった後、ロルの隣まで辿り着き、不満げに頭で彼の太ももをぐりぐりと押し付けた。
彼女の名前はライラ・マフィロ。ロルより四つ年下の妹だ。見た目は獣人に近いが、実は人族と獣人族のハーフである。詳しい生い立ちについては、ロル自身もよく分かっていない。
実際のところ、二人に血の繋がりはない。四年前にロルが漂流者に拾われた時に出会い、同じ漂流者に育てられた縁から、兄妹として名乗り合うようになったのだ。
ロルは手を伸ばし、ライラの灰色の丸い熊耳をそっと撫でた。そのモフモフとした感触は非常にクセになる。しかも、これを撫でられるのは今この瞬間だけだ。普段、ライラが完全に目を覚ましている時に耳を触ることは絶対に許されないからだ。
「おはようございます。もうすぐ警察が来ますから、先に車をハイム道具屋の隣の駐車場へ動かしておきますね」
ロルは声を潜め、少し申し訳なさそうに付け加えた。
「すみません、朝食を作る時間がありませんでした。冷蔵庫にまだ食パンがあったはずですから、お腹が空いているなら先につまんでおいてください」
そう言ってロルが手を引っ込め、運転席へ向かおうとした時だった。突然、半円形の熊耳がピクリと動き、少女はベッドから飛び起きて彼の手をギュッと握りしめた。
突然の行動にロルが驚いて振り返ると、ライラの真剣な紫色の瞳に射抜かれた。
「兄さん、また悪夢を見たの?」
「ば、バレましたか? 今回は全く顔に出ていない自信があったんですがね」
まさか見抜かれるとは思っておらず、ロルの体は微かに震えた。だがすぐにため息をつき、誤魔化すのを諦めて逆に尋ねた。
「どうやって見抜いたのか、聞いてもいいですか?」
「だって、耳を撫でる時の力が全然違ったもん。いつもはもう少し雑だもの」
思いもよらない見破り方に、ロルは苦笑しながら頭を掻いた。
「……そんな些細な違いまで分かるんですか。なら、普段からもう少し優しく撫でることにしますよ……」
「そういう問題じゃないでしょ」
はぐらかそうとするロルに対し、ライラは静かに首を横に振り、さらに問い詰めた。
「兄さん、大丈夫なの?」
軽く話題を逸らそうとしたロルだったが、ライラの心配そうな表情を前にして、結局彼は手を伸ばし、彼女の頭を優しく撫でるしかなかった。
「本当に大丈夫ですよ、これが初めてじゃありませんし。確かに少し体はだるいですが、そこまで影響はありませんから。ですから、あなたもそんなに心配しないでください」
ロルがその流れで彼女の耳に触れようとした次の瞬間、その手はパシッと弾き飛ばされた。ライラは片方の頬をプクッと膨らませた。
「耳は触らないで! 兄さんのバカ! 他人の気持ちが全然分かってない! だからモテないんだよ!」
ライラは腹立たしげにそう言い捨てると、ぷいっと背を向けて冷蔵庫の前にしゃがみ込み、食パンを取り出して口にくわえた。呆然としたロルだけが、手を宙に浮かせたままその場に置き去りにされてしまった。
(えっ、なぜ突然怒ったんです? やはり私には女の子の気持ちがさっぱり分かりませんね。昔はずっと私の後ろをついて回っていたのに。これが世の父親たちの感じる寂しさというやつでしょうか)
心の中で遺憾の涙を流しつつ、ロルも運転席に座ってエンジンをかけた。
「ついでに聞いておきますが、耳を撫でる力以外に、私が悪夢を見た日を見分けるポイントはどこですか?」
「ん? 秘密。兄さんがいつも隠そうとするから、絶対教えてあげない」
(予想通りの回答ですね。やはり教えてもらえるはずがありませんか)
キャンピングカーはゆっくりと駐車スペースを抜け出し、大通りへと合流して仕事場へ向けて走り出した。
時間はまだ早く、交通量は平日ほど混雑していなかった。車列の大部分は上町区の方向へと向かう通勤の車であり、目的地が中町区の外れにあるロルのルートは、かえって随分と空いていた。
いつもならこの時間は学生や送迎の親の車も混ざり、道路の混乱ぶりは推して知るべしといったところだが、今はちょうど夏休みだ。休暇を利用して遊びに出かける少年少女たちは、もう少し遅い時間に姿を現すのだろう。
「そういえばライラ、学校の夏休みの宿題は出ているんですよね。ちゃんと進めていますか?」
ロルがルームミラー越しに後ろをちらりと覗き込むと、ライラはいつの間にかすべての身支度を整えていた。
ベッドのシーツはもちろん、床に敷いてあったロルの寝袋まで片付けられ、彼女自身の着替えもとうに終わっている。
肩には白いショート丈のクロークを羽織り、その下には淡い色のシャツと黒いズボンを合わせ、茶色のベルトと革のブーツがスタイリッシュなシルエットを描き出している。見た目の美しさよりも実用性を重視した服装だが、それでも少女の生まれ持つ可憐な雰囲気を隠し切ることはできていない。
身長はロルと大差なく、同年代の少女より大人びた体つきをしているため、メンズライクなシャツを着こなしていても微塵の違和感もなかった。
彼女は今、木目の櫛で髪を梳かしながら、ロルの質問など意に介さない様子でふんと鼻を鳴らした。
その一連の態度は、まるでロルがいかに馬鹿げた質問をしたかを物語っているようだった。
「私のことは心配しないで。兄さんとは違って、昨日でもう半分は終わらせたから」
「こんなに優秀な妹がいてくれて、本当に大助かりですよ」
ライラは髪を整え終えると、一冊のノートを手にして助手席に座った。彼女はペンを走らせ、今日のスケジュールでも確認しているようだ。
信号待ちをしている最中、ロルはふと道端に目をやった。中学生くらいの魚人族の男子とドワーフ族の女子がいて、二人は顔を合わせるなり親しげに拳を突き合わせている。
彼らが待ち合わせている時間帯から察するに、今日は一緒に上町区へ遊びに行く約束でもしているのだろう。
「ライラ、もし学校の友達に誘われたなら、遊びに行っても構いませんよ」
ロルには確信があった。ライラは学校で絶対にモテている、と。
その容姿だけでも——兄である彼でさえ認めざるを得ないほどの美少女なのだから当然だ。おまけに気配りができて成績も優秀、モデルのようにすらりとした高身長で、クールかつボーイッシュな雰囲気を纏っている。
普段はあまり笑わないが、たまに見せる笑顔は百花繚乱のごとく美しい。そのせいか、男子だけでなく女子生徒の間でも絶大な人気を誇っているらしい。
しかし、ロルの提案は即座にライラの反発を招いた。
「ダメ! 夏休みはお店の手伝いをするって前から約束してたでしょ。二人で一緒に生活してるのに、兄さん一人だけ働かせて、私だけ遊びに行くなんてできるわけないじゃない」
(正論ではある。ライラがとても自立した性格なのも知っている。だが、兄としての自尊心が少々傷つきますね)
「それはそうですが、せっかくの夏休みなんですから、ライラにはもっと自由に過ごしてほしいんですよ」
ロルの言葉に対し、ライラの表情には微塵の動揺もなかった。彼女は相変わらず淡々とした顔で手元のノートを見つめている。
「これが私の選択だよ。それに兄さんはすごく抜けてるところがあるから、私が手伝わないと絶対に失敗するもん」
「おいおいおい、今の言葉は聞き流せませんね。私がいつ抜けてるなんてことがありましたか?」
ロルが強く反論すると、ライラは片方の灰色の眉をひょいと持ち上げた。彼女は無言のまま手元のノートをパタンと閉じ、静かに口を開いた。
「例えば……今日の朝に予約していた依頼人のこと、兄さんは覚えてる?」
「え? 冗談ですよね?」
「兄さんはどう思う?」
冗談だと思いたかったが、ライラの全く変わらない冷ややかな表情を見て、ロルも観念するしかなかった。
「……何時にいらっしゃる予定で……?」
「兄さんが絶対に忘れてると思ったから、依頼人の来る時間を遅らせておいたの。相手は九時に来るよ」
「こんなに優秀な妹がいてくれて、本当に大助かりですよ……」
彼女の返答に心の底から安堵し、ロルは情けなくハンドルに突っ伏した。
少しだけ打ちひしがれた彼の表情を見て、ライラの口角がふわりと緩んだ。
「頑張ってね、兄さん」
今年は龍王暦二二九年。エイブダムはまさに夏の始まりを迎えようとしていた。
それは、澄み渡る蒼天の下で、強烈な太陽が燃え盛る季節である。




