駆け出し II
小屋から遠くない草原。そんなに広くない、切り立った土地の間で、羊たちが慣れたように草を食んでいた。
それをミスティエルたちと、それから羊飼いたちは監視しつつ、襲ってくるかもしれない狼を警戒して歩き回っている。
「それにしても気持ちの良い場所よね。リーフティオスの町の近所に、こんな場所があったなんて、損した気分」
隣を歩いていたフリアが感心するように呟いたのを、ミスティエルの耳が他意もなく拾う。確かにそうかもしれないと思った。
足は止めないまま、ミスティエルは辺りを見渡す。
険しい地形の中にはあるものの、餌となりそうな草は豊富だ。普段からここら辺をベースとして羊を放し飼いしているのだろう。穏やかに風が吹いていて、ミスティエルは美しいと直感的に感じ取った。
「見た感じだと、そんなに自然が荒れているようには見えないんですけどね」
「そうだな。狼が多いこと以外は、特段変わったことはねえ」
そうして思わず出たミスティエルの独り言。本当に独り言のつもりだったのを、羊飼いの一人が聞き取って、返事をした。
「そうですよね」
そう、穏やかだった。段々になった地形に草は生い茂っていて、豊かな土の臭いがのどかに感じさせるくらい。
穏やかすぎるのだ。
それをミスティエルは不思議に思っていた。なぜならば、それは森の様子に変化がないことを示しているから。
オオカミの大量発生だけに限らず、何かの動物が多く出てるときは、森を見渡して必ずどこかにほころびがあるはずだとミスティエルは考えている。
一目見ただけではわからないかもしれない。自然に携わるか、精通するもののみの感性とでもいうべきものかもしれない。でも、ミスティエルの持つ謎の知識はその感性を与えてくれているみたいだった。
そうして、おそらくそれは羊飼いの人たちもわかっているのだろう。彼らの言葉は、そういう事柄を含意しているのがわかった。
「襲ってくるというオオカミの群れは、本当に最近現れたのかもしれませんね」
「だろうねえ」
ミスティエルはそこで思い出したように、羊飼いに尋ねた。
「襲われた羊の亡骸って、もう処分したんですか?」
「ああ、さすがにもうねえな。さっさと埋めたよ。動物の死体はよくないものを寄せ付けるからな。肉食獣だったり、病気だったり」
「ですよね……」
当たり前のことだ。それでミスティエルも黙り込む。何か手掛かりはないか。
「襲われた時の状況とか、もう少し詳しくお聞きたいんですが、どこらへんでどんな感じで襲われたんですか?」
「ああ、それなら答えられる。最近だと数日くらい前だな。ちょうどそこのあたりの茂みの獣道から、狼は襲ってきたんだ」
そうやって、羊たちの群れがいる一部を指さす羊飼い。
ミスティエルがその方向に視線を合わせると、今まさに狼が数体で群れて、子羊に飛び掛かっているのが見えた。
――いま、まさに。ナイトウルフの襲撃だった。
「まずい! オオカミが現れた! 羊を逃がせ!」
直前まで話していた羊飼いが、大声で叫んだ。よく通ったその声に反応して、その場の皆が反応した。
「皆さんも羊たちと一緒に逃げてください! フリア、ベルス、応援お願い!」
ミスティエルも続けてそう言う。
『ダィ=サルズ・オルタス』
さらにミスティエルは時間稼ぎに全体麻痺魔法を唱えて、ナイトウルフの足止めをする。
もっとも、獣の魔物に対して状態異常は効きづらく、それも効果の分散する全体魔法、大して持たずにナイトウルフたちは身体の自由を取り戻す。
だが、それだけで十分だった。
すでに羊たちは距離を取り、狼と羊との間にはミスティエルが立ちふさがっている。そうして残りのパーティの二人も合流した。
ここからは、こちら側が狩る側だ。
「よっしゃ! 行くぞ!」
そう威勢ある掛け声を出して、後ろからベルスがミスティエルを追い抜く。そうしてジャンプして、ナイトウルフの前に着地するのに合わせて、ベルスは剣を背中から正面へと袈裟斬りにする。
それだけで、ナイトウルフはぐらりと体勢を崩して、悲鳴を上げる。ベルスは一呼吸だけ間をおいて、剣を返すようにして皮の薄い腹を斬り返すと、それで勝負は決した。
動けなくなった身体に近づいて、硬い皮を貫くように剣を突き刺すと、ナイトウルフはついに息絶えた。
『ダィ=ニエル』
フリアはフリアで、ベルスとミスティエルの裏からチクチクと、ナイトウルフ相手に遠隔で魔法攻撃を仕掛けている。
渦になった水が、勢いをもってナイトウルフの何匹かにぶつけられる。さらに身体に引きついた水は蝕むようにダメージを与える。これではフリーになっているナイトウルフも、ベルスとの戦いに合流ができない。
そうしてイラついてフリアに狙いを変えるが、ベルスとミスティエルの壁は厚い。そこを超えて攻撃することはできない。
この状況を見て、ちょうどいいとミスティエルは思った。記憶から雷の魔法を思い出す。
『ダィ=ザルク・ツィクタス』
詠唱する。魔石から引き出した魔力をばらまいて、弾き飛ばすイメージだ。
濡れた狼たちに雷が流れて、さらにダメージがいきわたる。いくらかの個体はそれだけで息絶えたように見えた。
そうして、ベルスに執着していた数匹のオオカミも、気付けばほとんど死体となって転がっている。
最後の一体を余裕をもって切り捨てたベルスは、緊張を解いてミスティエルたちの方を振り返った。
――そのとき、ベルスの後ろで、死んだように見えたナイトウルフの一匹がゆらりと立ち上がった。ミスティエルの雷撃で、一度は殺せたように見えた個体だ。だが殺し切れてはいなかったのだ。
前足を軽く振ってから、ベルスに向かって一直線にとびかかる。
それに最初にフリアが気付いた。ミスティエルもすぐに気づいた。気配から、ベルスも攻撃には気づいた。
だが明らかに、このままでは間に合わない。
『ダィ=ニエル!!』
フリアの叫び声が聞こえた。驚くべきことに、詠唱と魔力の発現はほぼ同時だった。
さっきと詠唱文自体は同じなはず。なのに、あまりにも大きい魔力の爆発を感じて、本能でミスティエルはその場を飛びのいた。
次の瞬間、ミスティエルのいた場所を水と魔力の渦の塊が、空気を揺らしながら突き抜けて通り越していった。
そうしてまっすぐ、飛び掛かろうとしていたナイトウルフと、飛び掛かられようとしたベルスを、まとめて吹き飛ばしたのだ。まるで、嵐のように。
力の塊に飲み込まれたようなものだった。打ち付けられたオオカミは、元から弱っていたのもあり、簡単に息絶えた。そうして巻き込まれたベルスも、近くの地面に叩きつけられたのち、起き上がることはない。
彼もまた、攻撃で意識を失っている。
フリアが、わずかに悲鳴を漏らした。
「ベルス!」
続いて大声をあげて、ベルスのもとに駆け寄ってしゃがみ込む。肩を持ち必死で揺らして、どうにか意識を取り戻そうとしている。
ミスティエルも一瞬本気で驚き、心臓が跳ね上がったが、叩きつけられたベルスを観察して息があるのが分かり、とりあえずは一安心していた。
幸いまだ若い冒険者だ。体も鍛えている。別に死んでさえいなければ、治しようはある。
それよりもミスティエルが驚いたのは、フリアの魔法だった。
ほぼ時間の遅れも無く、あれだけの魔法を即座に発動させて見せた。一流の魔導士と比べても遜色のない威力。一方で制御はほとんど効いてなくて、爆発するような魔力の出し方。
魔石を用いて魔法を使うならば殆ど不可能なこの技が、あり得る可能性をミスティエルは知っている。
「魔人、だったのか……」
ミスティエルはフリアの正体に、思わず言葉を漏らした。