五.人間慣れる生き物だっていうのは真実だと思う。
「堅苦しそうな本」
何て言うか、何回もあると驚かなくなるもんなんだな、って実感する。
「おもしろい? そんなの」
「娯楽目的じゃないから文句は言えないって言うのが正直な本音」
後ろから手許を覗き込むようにして出没した男に、溜め息を吐いて返す。だからなんで此処にとかその手の疑問は、感じるだけ無駄な気がしてきたからスルーすることにした。
始まりが始まりだったから会う度にちょっと警戒してたけど、深く考えなかったらそこまででも無いんじゃないかとふと思ってしまったのだ。それがいいのかどうなのかは分からないけど。少なくともホモらしいし、変にノーマルの男に付き纏われるよりかは意外と害が無いんじゃないかとか。そう思った私は甘いんだろうか。……ま、正直なところを言えば、いちいち分かりもしないことに頭悩ませるのが面倒臭くなったって言うのが一番大きいけど。
「面白くないのに読むんだ」
「これが無いとレポート書けないから」
そう言ってから、大学生ってバレたかな、と思ったけど、まぁいいかと思うことにした。こっちだって向こうの職業一応知ってるし。バイトらしいけど。
さて、もう一冊、と書架に目を走らせたところで、私はうげ、と小さく呟いてしまった。目的のものはあった。ただし、私の背では届かない場所に。
既に分厚い一冊を腕の中に抱えてるし、脚立を使おうにも近くには見当たらない。かといって流石に書架そのものをよじ登る訳にはいかない――――まぁ、小学生の頃は割とやってましたけどね。さすがに、いい歳こいてそんなこと出来ないし。何より私一応今日スカートだから。ハーフパンツというか、むしろ半ズボンがデフォルトだった小学生の時とは事情が違い過ぎる。当たり前だけど。
「――取りたいの、どれ?」
「……え?」
下らないことを考えてた私の思考を呼び戻したのは、斜め後ろから聞こえたそんな声だった。驚いて顔を上げると、七瀬伊織が棚の上の方を指さして私の顔を見ている。
「さっき見てた。あの高さじゃ君の背は届かないもんね。小さいから」
「………大抵の女子はあんたより小さいよ」
平均の域を越えない体型ですみませんね、このモデル体型め。
またあの胡散臭い笑みと共に飛んできた嫌味くさい台詞に、私は溜め息を吐いてから目線を上に転じた。取ってくれるらしいのは嬉しいけど、そのプラスアルファいらなくね。なんで足したし。
「…上から二番目の棚の、赤いカバー。分厚いヤツ」
「これ? こっち?」
「そっち。右の方」
指を指して問われたそれに素直に答えてから、まさか聞くだけ聞いて終わるパターンじゃないよな、と私の胸中に拡がった不安は、間をおかずに伸ばされた腕に一発で吹き飛ばされた。
「はい」
「……ありがと」
差し出された、紛れも無く私が取ろうとしてた本に、ちょっと後ろめたくなった所為か御礼が躊躇いがちになってしまった。私の不安なんてただの杞憂だったよ。さすがにそんなに性格悪くなかったか、というかむしろ性格悪いのはそんな想像しちゃった私の方ですねすいませんでした。
でも正直、助けてくれるとは思ってなかった。
「なーに? 間違えてた?」
「……いや、あってるけど」
意外な一面を見てしまった、とその顔を見上げてると首を傾けられたので、首を横に振っておいた。
対象外の女である私を追いまわしたり、けろっとした顔で貞操観念緩いこと言ったり、人のことおちょくったり、嫌味言ったり、優しくしたり。――――――――つくづく、分からない子だ。
「何か借りたり、しないの?」
「俺、本読む習慣ないんだよね」
「……ああうん、そう」
図書館の似合わない顔だと最初に思ったのは、強ち間違いでは無かったらしい。
いつも通り閲覧スペースで資料や筆記具を拡げ始めた私に対し、七瀬伊織は私の正面の席に座ってただそれを眺めている。やっぱ暇人なのかこいつは。
「……暇じゃないの?」
「君が喋ってくれなくなったら暇だね」
「なぁそれ暗に私に作業するなって言ってる?」
平然と吐かれた台詞に半目になって返すと、にっこり笑って返された。お前結局邪魔しに来ただけかおい。
「否定しろよ」
「そしたら、嘘になっちゃうよ?」
あ、駄目だ。完全に作業させる気無いわこいつ。
なんという傍迷惑な、と溜め息を吐いて、私は自分の鞄を取った。無害だろうと思ったのはやっぱ早計だったかな…。
「暇ならこれでも読んでなさい」
「なにこれ?」
鞄から取り出した文庫本を渡すと、首を捻られた。安心しなさい、これは堅苦しい専門書じゃないから。
「ただの小説。そんな難しい話でも無いから読みやすいでしょ」
それ読んでていいから邪魔しないでね、と付け足して、私は返事を待たずに自分の作業に集中した。
暇潰しに何かを与える作戦は、うまくいったらしい。こういう言い方すると、子どもをあやすのにオモチャを与える、みたいな感じになるけど。
お蔭で作業はつつがなく進み、ちゃんと進められたんじゃないかとちょっと自画自賛出来るぐらいの成果を上げることが出来た。いいことだ。
一先ず切りが付いたので、ルーズリーフにメモを取っていたペンを置いて、身体を起こす。首を横に曲げると、ぐき、と音が鳴った。いてぇ……。
腕時計を見ると直に四時を回るところだった。そろそろ夕方という時間だ。
「……おしまい?」
「ん。取り敢えずね」
私の動きに気付いたのか、頬杖を付いて渡した小説を読んでいた七瀬伊織―――いちいちフルネームもめんどくさいな。伊織でいいや。どうせ脳内の話だし―――伊織が顔を上げた。
「そっちは? 途中で挫折はしなかったようだけど」
「物語も中盤ってところかな。まあ、悪くはないね」
「そりゃよかった」
随分と素直でない褒め言葉だこと。別にいいけどね。少なくとも私が作業している間に飽きるほどでは無かったようだし。
さて。頭もだいぶ疲れてきた感じだし、切りがいいから今日は此処までにするかな。
「……ね、」
「んー?」
「これ、借りていい?」
拡げていたルーズリーフや筆記具を片付けていたら、そんなことを言われた。その顔を上げると、ダメ?と首を傾ける彼が目に入る。……その胡散臭い笑みが無かったらまだ可愛くなりそうなのに。いや、別に可愛さ求めてる訳でも無いけど。
「まぁ、別にいいけど…」
「じゃあ、次回返すね」
ちょうど読み終わってたやつなのでまぁいいかと思って頷くと、そんな言葉が返ってきた。いや、普通の流れなんだけど、さらっとまた会うことが決定したよ。
―――――ま、いっか。