第1話:『契約終了のお知らせです ――不採算国家からの撤退プロセス』
本作をお手に取っていただき、ありがとうございます。
この物語は、魔法という名の「借金」が消えた後の世界を舞台に、
一人の不眠症の財務官が、数字とペンだけで神や宇宙と渡り合う「実務無双」ファンタジーです。
「愛よりも帳簿の整合性」
そんな冷徹な主人公が、かつて自分を捨てた世界を、
物理的・経済的に「買い叩いていく」カタルシスをお楽しみいただければ幸いです。
※本作には、過度な経済用語が含まれますが、
主人公がすべてを「わからせて」くれますので、安心してお読みください。
「クロエ・フォン・アインツベルン! 貴様との婚約を破棄し、この国から追放する!」
王太子ジュリアンの怒声が、夜会の広間に響き渡った。
シャンデリアの結晶が微かに震え、着飾った貴族たちの視線が、獲物を見つけた獣のように私に突き刺さる。
私は、手元の懐中時計の蓋をそっと閉じた。
「……三十八秒です、殿下」
「あ……? 何がだ」
「殿下がその『宣言』を終えるまでに要した時間です。私の時給に換算すると、金貨八枚分の損失ですね。事前のアポイントメントもなしに、随分と高くつくお喋りを選ばれたようで」
扇子で口元を隠すこともせず、私は淡々と告げた。
ジュリアンの隣では、いかにも『守ってあげたい』という風情の少女――聖女セラフィナが、勝ち誇ったような、それでいて怯えたような瞳でこちらを見ている。
ジュリアンが顔を真っ赤にして、指を突きつけてくる。
「貴様、まだそんな可愛げのないことを! セラフィナを苛め抜き、国費を私利私欲のために使い込んだ強欲女め! 衛兵、この女を今すぐ地下牢へ――」
「お言葉ですが、殿下。その前に『清算』を済ませていただきたいのですが」
「清算だと?」
私はドレスの隠しポケットから、一冊の薄い手帳を取り出した。
それは魔導具によって厳重に暗号化された、私専用の『個人帳簿』だ。
【案件:王太子ジュリアンによる一方的な契約破棄】
【状況:不当解雇および名誉毀損】
【対応策:全アセットの即時回収】
私の脳内にある『事務処理用メモリ』が、爆速で状況を整理していく。
悲しい、という感情は発生しなかった。
そもそも、この婚約は六年前、破綻寸前だった王家が、我がアインツベルン家の『資金力』と『実務能力』を欲して結んだ経済協定に過ぎない。
私は、周囲に聞こえるように声を張り上げた。
「殿下、貴方は私が『国費を使い込んだ』と仰いましたね。では、この六年間、王宮の運営費、騎士団の装備更新費、そして貴方がセラフィナ様に贈られたあの『光輝の首飾り』……それらの原資がどこから出ていたか、ご存知ですか?」
「ふん、税に決まっているだろう! 我が王国の民が納めた血税だ!」
広間の貴族たちが頷く。そうだそうだ、と蔑みの声が漏れる。
私は、本日一番の、そして最後となる『事務的な微笑』を浮かべた。
「残念ながら、不正解です。我が国の税収は、六年前の時点で貴方の父上――国王陛下の浪費により、人件費すら賄えない赤字状態でした」
「な、何を馬鹿な……」
「現在、この国が運営できているのは、私が個人資産を元手に『裁定取引』と『遠距離貿易への投資』を行い、その運用益を無利子で国庫に貸し付けていたからです。いわば、この国は私の『個人融資』によって延命されている、巨大な不良債権物件なんですよ」
静まり返る会場。
私は手帳のページをめくり、最後の一行にチェックを入れた。
「婚約が破棄され、私が追放されるということは、すなわち『融資契約の打ち切り』を意味します。殿下、今この瞬間をもちまして、私名義の全資産――総額八億ゴールド、および私が管理していた全決済権限を引き揚げさせていただきます」
「は……? 八億……? 引き揚げる……?」
「はい。今さっき、王都にある中央銀行へ魔導通信で指示を送りました。今頃、王家の口座残高は『ゼロ』になっているはずです」
ジュリアンが呆然と口を動かしたその時。
広間の重厚な扉が勢いよく開き、顔を蒼白にした財務官たちが駆け込んできた。
「で、殿下! 大変です! 王室の金庫が……魔法認証が全て弾かれ、残高が消失しました! このままでは明日の騎士団への給与が払えません!」
「なっ……なんだと……!?」
会場に激震が走る。
私は、困惑するセラフィナの横を通り抜け、出口へと歩き出した。
途中で立ち止まり、肩越しに振り返る。
「あ、言い忘れました。王宮の結界を維持している魔導触媒も、私の私物です。あと一時間もすれば魔力切れで消滅しますので、夜風で風邪を召されぬようご注意くださいね。引き継ぎ書類は、机の上に置いておきました。……もっとも、貴方たちの語彙力で解読できれば、の話ですが」
「待て! クロエ! そんな勝手が許されると思うな!」
背後でジュリアンの絶叫が聞こえるが、無視だ。
私は広場を出て、夜風の吹く王宮の門へと向かった。
胸の中にあるのは、清々しさよりも、奇妙な『空虚』だった。
六年間。
不眠不休で数字を追い、この国を黒字にするために捧げた時間。
それに対する報酬が、この冷たい夜風だけ。
(……ああ。私は、誰かに『お疲れ様』と言ってほしかっただけなのかもしれませんね)
そんな非合理な渇望を、私はすぐに脳のゴミ箱へ放り込んだ。
感情はコストだ。今は次の『職場』を探すのが先決。
門を出ると、そこには豪華な、しかしどこか禍々しい威圧感を放つ『黒い馬車』が停まっていた。
馬車の扉が開き、一人の男が降りてくる。
漆黒の軍服。冷徹な、しかし知性を湛えた金色の瞳。
隣国の皇帝――『合理的すぎる暴君』、アラリック・ゼノ・バレンシアその人だった。
「清算は終わったか、帳簿の魔女」
皇帝は、私の手にある『錆びた印章』を一瞥し、不敵に笑った。
その印章は、追放される際に私が唯一、形見として持ち出した、母の遺品だ。
「ええ。不採算部門(この国)は切り捨てました。……それで、陛下の提示された『年俸』の条件に変更はありませんか?」
「ああ。俺の国の帳簿を好きにしろ。その代わり、世界中の金を俺の足元に集めてみせろ」
私は、彼の差し出した手を取った。
それは温かい手ではなく、契約書よりも固い、鉄の信頼を感じさせる手だった。
「承知いたしました。……陛下、一つだけ条件を」
「なんだ?」
「新しいオフィスには、寝心地の良いソファを置いてください。どうやら私、しばらくはぐっすり眠れそうにありませんので」
私は黒い馬車に乗り込んだ。
背後で、魔力が尽きた王宮の結界が、ガラスの割れるような音を立てて崩壊していくのを、私は一度も振り返らずに聞き流した。
さて。
新しい帳簿を開く時間だ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
婚約破棄された瞬間に「よっしゃ、イグジット(投資回収)だ!」と切り替えるクロエ。
彼女にとって、愛は「変動相場」であり、信頼は「資産残高」です。
でも、そんな彼女が唯一捨てられなかった「錆びた印章」には、実はこの世界の根幹を揺るがす秘密が隠されています……。
王宮を破産させた彼女が、隣国の「合理的すぎる皇帝」の下で、今度はどのように世界経済を掌握していくのか。
「実務で世界を屈服させる」快感を、ぜひこれからも一緒に味わっていただければ幸いです。
次回、隣国編スタート。
「皇帝の最初の命令は、まさかの……?」
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