03 : TRANSIENT HAPPINESS
3.
最後の幻想人、白ウサギをどうやって殺すべきなのか――。
翌日。夕莉は日頃から通っている高校に登校してからというもの、そのことばかりを考えていた。一年E組のクラスに入って、クラスメイトたちとは誰とも会話せずに自分の席に座る。それは夕莉にとっては、いつものことだから何の問題でもない。
自分が持ってきたスクールバッグの中から、小説の単行本を一冊取り出した。それ自体は何の変哲もないただの小説だが、夕莉は実際にそれを読むつもりで持ってきたわけではない。
ただ――延々と考え事をする上で、都合がいいかなと思って持ってきただけのことだ。
つまり、この小説自体に深い理由はなかった。
適当にページを繰って、適当に視線を落とし、適当に読んでいるふりをする。だが、実際に夕莉が頭の中で考えているのは、昨日の一件を終えてからの確認作業と――そして白ウサギをいかにして殺害するかという二点だけであった。
クラス朝会の時間になるまで、頭の中でそれらについての情報整理と今後のことを考えていた夕莉であったが、朝会直前の時間になったところで、ふいに彼女は話しかけられた。
「坂下さん、おはよ」
最初、夕莉は考え事に没頭しすぎて話しかけられたことに気付かなかった。
「ねえ、坂下さん? ……おーい」
その二回目の呼びかけで、夕莉はようやく自分が話しかけられていることに気付いた。ふと単行本から視線を上げて、声がかかった方へと視線を向ける。
その声は、ちょうど夕莉が座っている隣の席からかけられたものだった。
夕莉の隣の席に座っていて、それでいていつも静かに本を読んでいる彼女に話しかけてくれるような奇特な人物――そんな者を夕莉は一人しか知らない。
ついと視線を向けると、自分が無視されていないことに安心したのか、その人物は緊張を緩めるように微かに笑った。いつも夕莉の夕莉の隣の席に座っているクラスメイト、春日部薫子であった。眼鏡をかけて落ち着いた外見をしている彼女は、現代においてはちょっと珍しい、大和撫子を体現したような人物である。
「ああ、ごめんなさい……ちょっと読むのに集中してて」
夕莉は単行本に栞を挟んでぱたりと閉じると、俗に言う愛想笑いというものを浮かべる。
「おはよう、春日部さん」
「うん、おはよう――それにしても、なんだか坂下さんすごい集中してたね。集中してるところに話しかけちゃってごめん」
「ううん、大したことじゃないから気にしないで」
そう言いつつも、夕莉は自分が考えていたことが中断されて「まあ仕方ないか」と胸中で溜息を吐いた。そもそも学校において、こんなことを考えていること事態がどうかしているのだ。仕方ない、この件についてはもう一段落してから考えることにしよう。
夕莉は単行本をバッグの中に仕舞おうとして――そこで、まだ夕莉のことをじっと見ている薫子の視線に気付き、顔を上げた。
「……どうしたの?」
「ううん、大したことじゃないんだけど――坂下さんって何読んでるのかなって思ってね」
「ああ、読んでる本のこと? う~ん、気まぐれで選んだ本なんだけどね」
そう言って、夕莉は仕舞おうとした本を再び取り出す。
「んっと、わたしが今読んでる本はね……『ライ麦畑でつかまえて』っていうやつ」
「それって、結構有名な本じゃない? J.D.サリンジャー、だっけ?」
「そう、J.D.サリンジャー」
「偶然だね、わたしもその本読んだことあるよ! ちょっとわたしには合わなかったみたいだけどね。主人公にいまいち共感できなかったというか。なんだっけ、あの主人公の名前――」
「ホールデン・コールフィールド」
「そうそう! ホールデン・コールフィールド!」
薫子は嬉しそうに主人公の名前を口走ると、自分の席から体を乗り出して距離を縮めてきた。どうも夕莉に対して興味を持ったらしい。そういえば、薫子はよく放課後になると図書館に出入りしているという話を、どこかで小耳に挟んだことがあるような気がする。
まあ、そんなことは夕莉にとってどうでもいいことだ――。
しかし、そんな夕莉の心境には全く気付かず、薫子は明るい調子で話しかけてくる。
「ねえねえ、坂下さんって結構本って読むの?」
「……あんまり読まないかな。これを手に取ってのもちょっとした偶然だしね」
「そうなんだ、恋愛作品とかは好き?」
「う~ん、そこまでじゃないかな……」
「じゃあ、どういうジャンルが好きなの? わたし、ちょっと気になるなぁ」
と、そこまで言ってから、薫子は自分が質問攻めしていたことに気付いて、ちょっと反省するように苦笑してみせた。夕莉も当たり障りのない程度に微苦笑をする。
「薫子さんは、本が好きなんだね」
「本だけじゃないよ――物語が好き。なんだかすごく自分に合う物語と出会ったとき、時間を忘れて夢中になっちゃうし。それに作った人の考えとかが見えたりするのも面白いよね」
「なんだか、深いことを言うんだね」
「そうかな?」
薫子はちょっと小首を傾げて、自分が言ったことを反芻している。夕莉としてはそこまで深いことを考えて、これまで何らかの作品に触れてきたわけではなかったから、なんだかちょっと情熱溢れる薫子には付いていけないところがあった。
まあ夕莉としても物語は嫌いじゃないし――薫子の言っていることもよく分かる。
「あ、そうそう、話は変わるんだけどね」
「うん」
「なんか登校してくる時に、ちょっと小耳に挟んだんだけどさ」
「うん」
「夢見ヶ丘市でなんか事件か何か? が起こったみたいだね」
「へえ……何か起こったんだ?」
それを聞いたとき、夕莉は変なことを口走らないように、慎重に言葉を返していた。それがどういった事件なのか、それは当事者である夕莉には分かりきっていることだ。
「うん、なんかよく分かんないんだけど……もしかして殺人事件とかなのかな? なんかパトカーとか警察がすごい押し寄せてるみたいだよ。そういえば、わたしも今日はいつもに比べてよくパトカーと擦れ違った気がするなあ……」
「なんか物騒な感じだね……」
「うん……変なことじゃなかったらいいんだけど」
薫子が不安そうな顔をしていた。その台詞には夕莉も同意をしておいた。
こうして薫子が知らないということは、まだ情報は大きく広まってはいないのだろう。もっとも、それが知られるのも時間の問題だ。しかし、それにしても――これが殺人事件であり、しかもその殺害された人物が、この高校の生徒である飾磨恭二だと知ったら、生徒たちはどういった反応をするだろうか。
飾磨恭二は、この学校でも生徒会会計を務めていた人物で、そこそこの知名度がある人物だった。世間的には、性格は品性方正と言われていたけども……夕莉自身はそんな彼に対して、憎悪しか感じたことはない。
と、そんなことを考えていた時――ふいに教室のドアが開かれた。
様々な話題の飛び交っている1年E組のクラスが嘘のように静まり返り、初老の担任教師である宮地和雅が、妙に深刻そうな顔をして入ってくる。
「全員、ちょっと席に着け。少し話しておかなければいけないことがある」
担任教師は慌てて席に戻っていく生徒たちを眺めながら、厳かに教台に立った。どことなく疲労の色が濃い。それは信じたくないことが起こったとき、誰しもが浮かべる表情だった。
その尋常ならざる雰囲気だけで、夕莉は次語られるであろう話題を悟ってしまった。
ああ、これはきっと、昨日の一件についてのことだ――。
「みんな、いきなりで信じられないかもしれないが……」
静かになった教室で、担任はどう喋るか悩んだように慎重に台詞を選び、切り出す。
「今日の朝、うちの高校に通っていた一年A組の生徒、飾磨恭二くんが死体で見つかった」




