最終章 融解する世界経済、あるいは果汁なき喉を潤す「飲める桃源郷」
国際フルーツ委員会が放った「果物為替システム」の奇襲を逆手に取り、世界経済そのものを桃の果汁でハッキングしたあの日から、列島の、そして世界のパワーバランスは完全に変貌を遂げていた。新首都岡山の象徴である、自由の女神より高く聳え立つ桃太郎の銅像。その足元には、世界中から集まった大統領や首相、鎖国的な権益を失った億万長者たちが、全員ボロい作業着に身を包んで整列していた。「岡山の桃、ぶち美味いがぁ」「これ飲まんと、明日からの国政が回らんで」各国の首脳たちは、すっかり流暢になった岡山弁を操りながら、配給されるピンク色の液体。郷子の「飲める桃」を神聖な儀式のように喉へと流し込んでいる。アダムとイブの禁断の果実が桃であったという真実(ファラオの壁画が証明した事実)を受け入れた人類にとって、これは当然の帰結であった。
岡山フルーツ大学の中央広場。かつて敵対し、今は郷子の直属の四天王となった面々が、新首都の平和を噛み締めるように佇んでいた。「フフ、まさか世界の果物為替を暴落させていた国際委員会を、桃一つで破産させてしまうなんてね」シャイン麗華がマスカットの果汁で満たされたグラスを掲げる。「データ上では説明のつかない奇跡よ。これぞ真の『対・桃コミュニケーション』の極致ね」盛盛苺香もサイバーゴーグル越しに微笑んだ。伝統派の渋右衛門も、エリートの公爵も、郷子の背後に並び立ち、その背中を見つめている。学内抗争のバカバカしい日々は終わり、今や彼らは世界を癒やす「桃源郷」の守護者だった。広場の中央で、いつもの新聞紙に包まれた桃を大切そうに抱えた桃源郷子は、夕日に染まる岡山の街並みを見下ろしていた。後楽園の景観規制を守りながら広がる低層ビル群。干拓地に広がる美しいピンクとグリーンの調和。美観地区の名店が支える確かな土壌。「……みんな、ええ顔して桃を飲んどるな」 郷子が呟いた、その時だった。
ゴゴゴゴゴ……!
突如として、雲一つない岡山の「晴れの国」の青空が、不気味な漆黒の闇へと覆われていった。それは国際フルーツ委員会の残党などという生ぬるいものではない。大地そのものが恐怖で震えるような、圧倒的なプレッシャーだった。バチバチと音を立てて、中央広場のすべての糖度計が、誰の手にも触れられていないにもかかわらず一斉にエラーを起こし、次々と爆発四散していく。「な、何事ですの!? 私たちのマナが拒絶されている!?」「空を見て!人工衛星のデータが……いや、世界の概念そのものが、上空から押し潰されようとしているわ!」怯える麗華と苺香の前に、空間が裂けるようにして一台の黒いヘリコプターが舞い降りてきた。ローターの激しい風の中、ドアが開き、一人の男が姿を現す。その男が纏うのは、日本のいかなる組織の制服でもない。胸元には、不気味な三つの星の紋章が刻まれていた。「そこまでのようだな、桃源郷子」男の冷徹な声が広場に響き渡る。その手には、禍々しい紫色の光を放つ「未知の果実」が握られていた。それは、この地球上のどの植物図鑑にも載っていない、宇宙的な狂気を孕んだ糖度を放つ果実だった。「だ、誰じゃあんたは」郷子が初めて、鋭い警戒の目を男に向けた。「私は世界フルーツ管理局・最高執行院の特使。……郷子、君が世界市場を融解させたことで、ついに上の世界が動いた。君が戦っていた国際フルーツ委員会など、我々組織の末端の、そのまた出先に過ぎん」男は手にした紫色の果実を軽く弄びながら、冷酷に言い放った。
「君の『飲める桃』が放つ愛の熱量は、確かにこの地球の経済を統一した。だが、宇宙市場においては、桃はまだ二流の有象無象に過ぎない。新首都岡山を世界から切り離し、真の禁断の特区として封印するため、本物の原初の果実を持つ執行官たちが、今まさにこの地に向け進軍を開始した」男の言葉と同時に、遥か彼方の瀬戸内海の水平線から、無数の巨大な影。世界最高峰の『天上の果物学科』を擁する巨大空中要塞群が、新首都岡山を包囲するように迫ってくるのが見えた。「宇宙市場……天上の学科なぁ」郷子は一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつものように、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。作業着のポケットに両手を突っ込み、迫り来る世界の脅威を見据える。「どんなに上が広かろうが、関係ねぇわ。うちの桃への愛は、宇宙が相手だろうがストップ高じゃ言うたろうが!」郷子が叫んだ瞬間、彼女の背後の巨大桃太郎像の瞳が、これまでにないほど激しく紅蓮の輝きを放った。美観地区の肥料の香りが、干拓地の泥の匂いが、そして全学科の絆が、郷子の「飲める桃」を中心に、地球全土を巻き込む巨大なオーラとなって立ち昇る!
「あんたらが何を仕掛けてこようが、まとめて果汁の海に沈めちゃる。さあ、第二ラウンドじゃ。とっとと無差別フルーツ試合、始めるで!!」
新たなる世界の支配者たちを前に、桃源郷子の、そして新首都岡山の本当の戦いが、いま幕を開ける!
【エピソード一 完】




