第1話
「リーシャ。貴様との婚約を破棄し、宮廷庭師の職を解任する」
王太子であり私の婚約者でもあるレナードは、冷酷な声でそう告げた。
彼の隣には、新しく聖女として召喚されたという若い娘が、勝ち誇った笑みを浮かべて寄り添っている。
「君のような地味で、庭の草むしりしかできない無能な女は、我が国の次期王妃に相応しくない」
「……私が毎日、王宮に住まう『精霊たち』のお世話をしていたことはご存じですか?」
私は静かに問いかけた。
この王宮に満ちる豊かな魔力と頑強な防衛力は、気まぐれな精霊たちと交信する私の能力と、彼らに贈る特別なハーブティーによって保たれている。
「ふん、ただの迷信だろう。これからは聖女の強力な『神聖魔力』で王宮を満たす。貴様の代わりなどいくらでもいるのだ。今すぐ荷物をまとめて出て行け」
「わかりました。そこまでおっしゃるなら、今すぐ退去いたします」
私は深くお辞儀をした。
長年尽くしてきた場所から、ゴミのように不要として追い出される。
悲しみよりも、これでようやく「偏屈な精霊たちの愚痴を聞く重労働」から解放されるという安堵感が勝った。
私はその日のうちに、必要最小限の荷物だけを持って王都を去った。
それから二カ月。私は辺境の「死の森」と呼ばれる開拓地にいた。
だが、そこは死の森などではなかった。
「リーシャ、今日もお茶が美味しいね。君が来てから、この領地は冬を知らない常春の楽園になった」
低く、甘く、それでいて芯の通った声が私を呼ぶ。
振り返ると、そこには銀色の髪を風になびかせた、辺境伯ギルバート様が立っていた。
鋭い双眸は私を見つめる時だけ、とろけるような蜂蜜色の優しさを湛える。鍛え上げられた長身のシルエットが、夕日に照らされて神話の英雄のように輝いていた。
「ギルバート様。野生の精霊たちが、お礼にと新しい果実を届けてくれたんです。……あ」
私の指に付いた果汁を、ギルバート様が自然な所作で指先を取り、その唇で吸い上げた。
「……甘いね。だが、君の淹れるハーブティーの香りの方が、私は好きだ」
心臓が跳ねる。王都では「泥臭い」と罵られた私の手。その指先に、彼は至宝に触れるような敬意を込めて接してくれる。
私の「精霊対話」という地味な技術。それを彼は「世界を変える奇跡」と呼び、収穫量が三倍になった領地を歩くたび、私への感謝を言葉にしてくれる。
ここでは私の努力が、100%の愛情と、宝石のような言葉になって返ってくる。
私は今、人生で一番幸せな時間を噛み締めていた。
一方その頃、王都の夜会会場。
レナード王太子は、新しい聖女を自慢げに披露していた。
「リーシャがいなくなって、ようやく王宮の空気も綺麗になった。なぁ、聖女よ、王宮の魔力の調子はどうだ?」
「ええ、私の神聖魔力で完璧ですわ、レナード様!」
聖女が胸を張った。
そのころ、王宮の庭園に飾られていた精霊の加護の石碑に、目に見えないほどの小さな「ひび割れ」が走り始めていた。
ペキペキ、ピキピキ、……。
不穏な高音が、夜空の下、王宮の庭園に響き続けた。
だが、夜会で浮かれる彼らはまだ、その破滅の予兆に誰も気づいていなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
辺境の森での暮らしは、驚くほど快適だった。
私の仲裁技術のおかげで、森の精霊たちはすっかり温厚になり、土地を豊かにする最高の魔力を提供してくれている。しかも、わたしが住んでいる一帯だけでなく、周囲までも土地が豊かになっていく。
「これはすごい。リーシャ殿、君が来てから我が領地の作物の収穫量が三倍になった。君は奇跡の庭師だ」
そう言って私に微笑みかけるのは、この辺境を治める若き辺境伯のギルバート様。
王都の人間たちとは違い、私の精霊対話の技術を心から尊敬し、温かく迎えてくれた大切な人だ。
「お役に立てて嬉しいです。精霊たちが、ギルバート様のために頑張ってくれたんですよ」
「君は謙遜するが、精霊とこれほど深く心を通わせられる者は世界に君しかいない。どうか、これからも私の側でその力を貸してほしい」
ギルバート様に優しく手を握られ、私の頬がほんのりと赤くなる。
長年尽くしても罵られるだけだった王都とは違い、ここでは私の努力が100%の優しさと報酬で返ってくる。
私は今、間違いなく人生で一番幸せだった。
一方その頃、王宮の庭園。
かつて私が管理していた、精霊たちが集うガゼボ(東屋)の前に、レナードたちが集まっていた。
「おい! なぜ王宮の魔力がこんなに低下しているんだ!? 聖女の魔力を注いでいるのだろう!」
レナードが血相を変えて叫ぶ。
庭園の美しい花々はすべて枯れ果て、王宮全体が不気味な冷気に包まれていた。
「そ、そんなはずはありませんわ! 毎日、私の特別な神聖魔力をたくさん与えているのに……!」
聖女が真っ青になって言い訳をする。
彼女は知らないのだ。
精霊たちは、ただ一方的に魔力をぶつければいいだけの道具ではない。
日々、彼らの理不尽な「声」を聞き、彼らが好むハーブを絶妙なブレンドで与え続けなければ、他人の魔力を「不快な攻撃」とみなして暴走を始めてしまうということを。
「リーシャだ……! あいつが毎日作っていたあの『ハーブ茶』がないと、精霊たちのご機嫌取りができないのか!?」
「すぐにリーシャの部屋からブレンドのレシピを探し出せ! 急げ!」
レナードの命令で、魔術師たちが私の元部屋をひっくり返して捜索する。
しかし、リーシャが残したノートはすべて、精霊語を交えた彼女にしか読めない特殊な記号で書かれていた。
「読めません! 何が書いてあるのか見当もつきません!」
「バカな……! あいつ、ただの草むしり係じゃなかったのか……!?」
レナードの背中に、冷たい汗が流れ落ちる。
その日の深夜。
――ゴォォォォォォン!!!!
王宮の奥底から、大地が震えるような咆哮が響き渡った。
機嫌を完全に損ね、怒り狂った上位精霊たちが、王宮を「呪いの霧」で包み込み、守護を放棄して一斉に暴走を始めようとしていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
王都は、一晩にして地獄と化した。
防衛の要であった精霊の加護が消え去り、怒り狂った精霊たちの呪いによって王宮の騎士たちはバタバタと倒れていった。
「レナード様! 精霊たちが騎士たちに呪いをかけています!」
「聖女の回復魔法では、精霊の呪いを浄化できないと……!」
悲鳴のような報告が、玉座の間に次々と飛び込んでくる。
かつてリーシャが、毎日こっそりと精霊たちを宥め、彼らの怒りの矛先を逸らしていたからこそ、王宮は平和を保てていたのだ。
そのすべての仲裁が止まった今、王宮の防衛力はゼロに等しかった。
「クソッ、クソォォォ! リーシャはどこだ! リーシャを連れてこい!」
レナードは髪をかきむしり、狂ったように叫ぶ。
「あいつさえいれば、精霊の怒りも、騎士たちの呪いも、すぐに元通りになるはずだ! あいつの仕事は、こんな国を左右するほど重要だったのか……!」
ようやく、自分のしでかした過ちの大きさに気づき、絶望するレナード。
「レ、レナード様、私をお助け――」
「黙れ無能が! 貴様のせいで国が滅ぶんだぞ!」
すがりつく聖女を蹴り飛ばし、レナードはみずから早馬を駆って、リーシャの目撃情報があった辺境の森へと向かった。
――そして現在。
辺境伯ギルバート様の美しい屋敷の庭園。
私はギルバート様と、私を慕う精霊たちに見守られながら、穏やかな午後のお茶会を楽しんでいた。
そんな幸福な午後を、聞き苦しい絶叫が引き裂いた。
「リーシャ! リーシャはどこだ! 戻ってくれ、頼む!」
庭園に転がり込んできたのは、かつての婚約者、レナードだった。
だが、その姿は無惨だった。磨き上げられていたはずの法衣は泥と汗で汚れ、髪は振り乱され、かつての傲慢な美貌は見る影もない。
王宮は、私が去った後、精霊たちが暴走して地獄と化したらしい。聖女の魔力は精霊たちにとって「不快な攻撃」でしかなく、騎士団は呪いでバタバタと倒れ、国そのものが死に体となっているのだという。
「婚約破棄は取り消してやる! 第一妃として迎えてやるから、今すぐ王宮の精霊を宥めろ! それが貴様の義務だろう!」
地面を這い、私のスカートの裾を掴もうとするレナード。
その時。
ガキン、と凍りつくような金属音が響いた。
ギルバート様が、私の前に音もなく立ち塞がり、腰の剣をわずかに抜いて、その鞘でレナードの手を払いのけたのだ。
「……その汚い手で、私の最愛の婚約者に触れるな」
ギルバート様の冷徹な声は、地を這うレナードを文字通り射すくめた。
先ほどまでの慈愛に満ちた表情は消え、そこには領民を守り抜く「辺境の獅子」としての、圧倒的な強者の威圧感があった。
「辺境伯……!? な、なぜ貴様がリーシャを……!」
「彼女は、私が人生をかけて口説き落とした、この領地の女神だ。無能な貴様に捨てられ、泥を啜っていた彼女を、私がどれほどの想いで掬い上げたと思っている?」
ギルバート様は私の腰を抱き寄せ、その大きな掌で私の手を包み込んだ。
「レナード殿下。君が『代わりはいくらでもいる』と言い捨てた彼女の微笑み一つ、茶葉の一枚、精霊との対話の一言すら……今の君には、国家予算を積んでも買うことはできない」
「……」唖然とするレナード。
「お申し出はきっぱりお断りいたします、レナード様」
私はギルバート様の温もりに守られながら、はっきりと告げた。
「私はもう、私を愛し、必要としてくれる人のためにしか、この力は使いません」
「あ、あああ……」
魂が抜けたようにその場にへたり込んだレナードを辺境伯の護衛たちが引っ立てていった。
王都へ戻る道も、彼にはもうないだろう。精霊の呪いと、信頼を失った民衆の怒りが、彼を待ち受けている。
だが、そんなことはもう、私には何の関係もない。
「……リーシャ。嫌なものを見せてしまったね。お茶が冷めてしまった。新しく淹れ直そうか」
ギルバート様が私の耳元で優しく囁く。彼の整った顔が間近に迫り、甘い香りが鼻をくすぐる。
「はい、ギルバート様。精霊たちが、あなたのために一番最高のハーブを見つけてくれたんです」
彼の左手の指が私の右手の指に絡まって、私をぐっと引き寄せる。
目を閉じた私の唇に彼の唇が重なり、私にだけ聞こえる精霊たちの祝福の歌声が辺りに満ちた。
私の物語は、今、最高に幸せなページをめくり始めたのだ。
(完)
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