第三話:やばい、これ。だめだだめだ……
「……えええっ!? 澪……それは、やっちゃいましたなあ」
カラン、と杏奈の持つグラスの中で氷が間の抜けた音を立てた。
彼女は元々大きな瞳をさらに見開き、信じられないものを見るような顔をしている。
あの金曜日の夜から一週間近くが経った、仕事終わりの居酒屋。
二人でカウンター席に並んで飲みながら、私はお酒の勢いを借りて、あの夜の芦田くんとの出来事を打ち明けてしまった。
杏奈が驚くのも無理もない。
ついこの間まで、私は元彼の拓巳と五年も付き合ってきたのだ。
私にとって交際経験は拓巳だけで、穏やかで真面目だった彼とは、最後の最悪な浮気事件を除けば特にこれといった問題もなく、ゆるゆると平和な関係を続けてきた。
だから、恋愛のことで杏奈に込み入った相談事をしたり、こんな風に度肝を抜くような報告で驚かせたりしたことは、今まで一度もなかったのだ。
「……わーどうしよう!」
私は両手で頭を抱え込み、テーブルに突っ伏した。
ほぼ面識のなかった相手と、一晩の関係を持ってしまうなんて。
「まあ、よくあるんじゃない? そういうことは」
あっけらかんと励ましてくれる杏奈の声が頭上から降ってくる。
(『よくある』のか……)
拓巳とずっと付き合っていて、当然そういう関係になったのは彼だけだった私にとって、この状況はキャパシティを完全に超えている。
そもそも、なんであんなにすんなりと彼の部屋へついて行ってしまったんだろうか。
自分でも理由はよくわからない。
ただ……彼の纏う空気に吸い込まれるように、抗えず引き寄せられてしまったのだ。
あの夜、そして朝方も。
思い出そうとするだけで、頭がおかしくなりそうになる。
あんな感覚は全部、経験したことがなかった。
私は終始、自分を保つことができなかった。
彼が経験豊富で、女性の扱いに慣れていて、だから、その……、『上手だった』ということだろうか?
外では気怠げだった彼が、シーツの中でだけ見せた、熱を帯びた切実な表情。
それが脳裏をよぎるたび、顔から火が出るんじゃないかと思うほど頬が熱くなる。
芦田くんの方は……誘い方も自然だったし、ああいうことに、慣れてるのかな。
あんな時間を、彼は他の人ともいつも過ごしているのだろうか。
そう想像しただけで、息が詰まるように苦しくなった。
(やばい、これ。だめだだめだ……)
一晩のことだと思ってきっぱり忘れないと、とんでもない沼にハマってしまう。
底なしの暗闇に足を取られるような錯覚に陥り、思わずブルッと身震いした。
「まさか……好きになっちゃった!?」
黙り込む私の心中を察したかのように、杏奈が身を乗り出して聞いてくる。
「えっ!? いやいや、それは確実にダメってわかってるから……!!」
慌てて顔を上げ、全力で首を横に振る。
「大丈夫……たぶん。連絡先も交換してないし……このままフェードアウトすれば……」
自信なさげに声が小さくなってしまったが、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
接点さえ持たなければ、一度きりの熱はいつか冷めるはずだ。
「ちょっと確認してみよ」
杏奈はおもむろに自分のスマホを取り出すと、迷うことなく誰かに電話をかけ始めた。
相手は一、二コールですぐに出たようだ。
「あっ、藤崎くん? ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
電話の相手は、先日の飲み会で一緒だった藤崎くんだった。
芦田くんと仲が良く、そして明らかに杏奈に好意を寄せている彼。
「芦田くんって、女遊び激しかったりする? ……うん、うん。あ、そーなんだ」
杏奈は悪びれる様子もなく、彼に関する軽い身辺調査を始めた。
「いや、ちょっと気になっただけ。ありがとう、バイバイ!」
ピッ。
なんだか、向こうの最後の挨拶も聞いていなさそうな速さで、杏奈はあっさりと通話を切ってしまった。
藤崎くん、今頃ガッカリしてないかな。
急に意中の杏奈から電話がきたと思って飛びついただろうに、聞かれたのは芦田くんの話題だけで、あげく秒で切られてしまって……。
不憫な彼に、心の中でこっそり手を合わせる。
「『わかんないけど、そこまでだらしないわけではないと思う』っていうのと、『あと今は仕事で忙しくて彼女はいらないって言ってたから、彼女いないのは本当だと思う』だって」
スマホをテーブルに置きながら、杏奈が探り立ての情報を共有してくれた。
「そうなんだ……」
同性の藤崎くんから見て、百パーセント遊び人というわけではないらしい。
その事実に、少しホッと胸を撫で下ろしている自分がいた。
「それから、連絡はとってないんだ?」
「うん。テンパってて、連絡先も聞けなかった。……でも、テンパってなくても、聞かないほうがよかったかも」
グラスの表面についた水滴を指先でなぞりながら、ポツリとこぼす。
これ以上変に関わりを持ったら、あの温度を思い出して、また彼の腕の中に戻りたくなってしまうかもしれない。
まだ残っているこの熱が落ち着くまで、ただ待つしかない。
冷えたレモンサワーを一口飲み込み、私は必死に、心の奥で燻り続ける小さな火種に蓋をした。




