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我人  作者: 雀夜
序章
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序章

 別に大した理由があって、居合道を始めた訳じゃない。

 確かに進学のときなんかは、"礼儀作法"だの"体力作り"だの"伝統文化"だの、それらしい理由の言葉を口にしてきた。しかし、僕が居合の稽古に励んだ本当の理由は、そんな風に大人を納得させるものでは断じてなかった。

 単純にして明快、僕は居合という技術以上に、刀が好きなのだ。格好良いから、好きなのだ。ただただ、見た目が琴線に触れているから好きなのだ。とても大好き。


 しかし、現代において刀を振り回すことは犯罪だ。模擬刀であろうと、正当な理由が必要になる。だから、僕は居合道を習い始めた。

 刀は見るだけでも楽しいが、手に持ち振るのは、もっと別の心地良さがある。つまり、僕にとって居合とは僕の心を慰める為のものであり、一般的に言われるような礼儀作法、体力作り、伝統文化、等を掲げる人とは真面目さが違うのである。向こうが真面目で、こっちが堕落している。

 ――当然、こんなことを他の誰かに言うことはない。言えば最後、地獄耳の師範からお叱りとお説教、拳骨の二つ三つくらいは飛んでくるだろうから……


「太郞くん、気持ちは察するけど……一旦妄想から帰ってきてくれるかな」

「……僕、もう少しだけ現実逃避しても許されると思うんです」


 独白にもならない頭の中の現実逃避を止める。そして、視界に映る景色に目を向け……大きく溜息をつく。


 ――彼方に見えるのは、あまりに巨大な山岳と、その山岳に巻き付く非現実的な巨体の蛇――


 なにあれおおきいなぁ……ひぇ。


「ここ、本当に何処です? 僕たちいつの間に異世界なんかに来ちゃったんですか?」

「知らないし、あんまり冗談に聞こえないから止めて。君が妄想トリップしている間に、ざっくり周りを観察してみたけど……よくわからなかった。とりあえず、あの蛇が怖いことくらいかな」


 つまり、現実逃避していた僕と情報量はあまり変わらないと。まぁ、これは当然だろう。

 何せ、僕たちはさっきまで、学校の裏山で居合の稽古をしていた筈だし、きっとここは元々いた場所ではない。

 見える景色が異なることもそうだが、何より雰囲気が違う。不気味で異質、まるで知らない外国にでも来たかのような、今まで自分たちが過ごしてきた場所とのギャップを強く感じるのだ。


「とりあえず、遭難にしては変な感じもするし、動かない方がいいかもしれないけど……一旦、下山しようと思う。幸い、山の出口の方角だけは掴んでるから」

「賛成です、山で迷えば動かない、が定石ではありますが……山を巻く蛇なんてものが見える場所に、いつまでもいたくはないですからね」


 既に山の出口の方角を掴んでいる辺りには何も突っ込まないし、あの蛇を化け物と仮称するのであれば、他にあの化け物がいないとも限らない。……下山した先にいる可能性も確かにある。しかし、山の中で遭遇するより遙かにマシだ。


 しかしまぁ、二人揃って白昼夢でも見ているのか。富士山ばりに存在感のある山岳もそうだが、何より巻き付いている蛇の巨体さは、どう考えても現実のそれじゃない。だからこそ、今見える山も蛇も、全部ただの夢と思い込むことができればよかったのだが……


「風の音。湿気、匂い、肌に日差しが触れる感覚。私の五感が狂っていなければ、少なくとも今感じている光景は夢じゃない。現実だよ」

「人の心をさらっと読まないでください」

「読んでないから。君の顔を見て察しただけだよ。……それに、君はこういうときに、安易に夢と決めつけない人でしょう?」


 まぁ、確かにその通りではあるが、相変わらず察しの良い……もとい、人をよく見る人だ。この人の観察力が健在なら、たぶん何とかなるだろう。二人とも、居合の稽古中だっただけに、幸い居合刀程度ならば互いに持ち合わせている。


 もっとも、熊みたいな獣が出ようものなら殆ど意味はないけれど。それでも心強い相棒が手元にあるのは、多少なりとも心の支えになる。裏山での稽古だったから、今は道着ではなくジャージで動きやすいし、熱中症対策で水筒と塩ぐらいならあるから、今日明日で死ぬことはないだろう。……たぶん。


「さて、と。それじゃあ下山しましょうか、先輩」

「そうだね。あと、木の根っこに躓かないように気を付けてね」


 そこまで不注意な奴でもないというのに……まったく。本当に、相変わらずこの人は僕のことを子供扱いして――と、そこまで考えて。

 唐突に視界の景色が切り替わる。次に、身体に激痛が走り、呻き声をあげてしまう。そして耳は、先輩の呆れるような溜息と言葉を拾った。


「言わんこっちゃない……だよ、太郞くん」


 母なる大地に寝そべりながら、僕は空を見上げた。どうやら、木々や空の色なんかは、普通と感じることのできる色をしているようだ。夏らしい翠の木々に、雲一つない爽やかな青空が視界の中に広がっている。

 暫く惚けていると、先輩の可愛らしい顔がひょっこりと視界に入り、大丈夫?と心配そうな声をかけてきた。


「どうしてこうなったかなぁ……」


 忠告されていたにも関わらず、木の根に足を引っかけ盛大に転んだ僕は――柳川太郞は、これまた大きな溜息とともに、もう一度現実逃避を試みるのであった。

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