003
書き貯めたのはここまでです。
ここからは週一更新します。
少し昔話をしよう。
一人の男の足跡だ。奇跡など起きない、ただの軌跡だ。
彼は昔から小説が好きだった。それも、超がついても不思議でないほどに。中毒とまではいかないけれども、それに近い症状は引き起こしていた。
彼は香月一という小説家の書いた小説が好きだった。
彼は彼の本ならすべてが美しいと感じるレベルで、香月一の小説を読んでいた。
いつしか、彼は香月一の信者──コウヅキストになっていた。
今思えば、それは運命だったのだろう。
香月一に憧れた彼は、小説家になりたいとも思い始めていた。
彼には偶然にも──必然にも、実行する胆力があった。
度胸があった。
諦めない心があった。
精神の面で言えば、彼は小説家に必要な素養をすべて持っていた。
まさに、運命だっただろう。
彼は小説を書き始めた。
最初のうちこそ、香月一の劣化コピーでしかなかったが、今となっては彼自身の文章を確立している。
端的に言っておこう。
彼には才能があった。
文章の才能だ。
他にもいくつかの才能が彼にはあったけれど、今の話にはまったくもって関係がないので、詳細は省くことにしよう。省きすぎるのもどうかと思ってしまうが、さすがに長すぎるのもよくないので、今回は特例としておこう。
ともかく、彼には文章の才能があった。
小説新人賞の一次審査すべてを余裕で突破してしまえるほどの才能だった。
もちろん、才能だけで上り詰められる世界ではないので、彼は一次審査を通るのと同じように、二次審査で落ちていた。
二次審査。
一次審査の内容が文章であると言われていることから、二次審査は「ストーリー」を審査しているのだろう。
納得である。
彼はストーリーを書くのが恐ろしいほど、下手だった。これ以上ないほど下手だった。
なまじ文章が才能に溢れているだけあって、そのストーリー性は壊滅的だった。
彼としてはそんなつもりはまったくなかった。
そんなことを自覚していたら、新人賞になんて提出しない。
しかしながら、彼の小説への評価はすべてストーリー面でのダメ出しばかりだった。それは集中砲火のごとく、ストーリーだけに、であった。
一次を突破し、二次で抜ける。
そんな、特異すぎる性質から、彼はこう呼ばれ始めた。
一次の悪魔、と。
「それが彼──田中実の今に至る軌跡だよ」
僕はすべてを説明した。
いや、すべては説明していない。ダイジェストで説明した。
自分で自分のことを話すのに抵抗があったので、三人称っぽくなってしまった。駄文であったし、醜文だった。
「お前のその話は、俺も初耳だな」
そりゃそうだと思う。
今まで話さなかったし、その片鱗も見せないように努力していたから。
でも、それは新たな問題を浮上させるだけだった。
問題が問題としてこの場にあるだけで、それは相当幸せなことであるとは思うが、その解答まで回答せずに知りたいというのはいささか傲慢だろうか?
まあ、そうなのだろう。
僕としては、それが一番早い手というだけであって、別に自分で考えることもできる。
勇気の力さえあれば、すぐに僕の疑問は氷解するだろう。別に、僕の疑問は氷でできているわけではないけれど、解けずとも──溶けずとも、ヒビを入れることならできる。
「ねえ──」
その瞬間気づいた。思えば、今までこのことを考えるのを無視していた。完全に考えの外にいた。僕は認識すらしようとしていなかった。
僕は──、
僕は彼女のことをどう呼べばいいんだ?
僕の学校は、皆小学校からの持ち上がりで、自然と話せる状況にあった。偶然にも、今まで転入生など迎え入れたことはない。
今日彼女が来て、クラスメイト全員が困窮したのだろう。その姿がありありと脳裏に浮かぶ。
別に彼女に非はないけれど──強いていえば、今日転入してきたことか──今日は少しばかり、居心地が悪かったことだろう。
さて、本題に戻るが──本題ってなんだろう?──僕は彼女を、香月麗をどう呼べばいいんだ?
残念ながら僕に敬語は使えない。使えることは使えるのだが、決して人には見せたくない。もちろん、人以外の動物にも。
以前、勇気に見せたことがあるが、なんとも言えない表情をされた。
そうだ勇気だ。
僕は思いつきで勇気に助けを求めることにした。勇気ならばやってくれるに違いない。僕になにかを伝えてくれるに違いない。
しかしながら、僕の微かな望みは実を結ばなかった。
勇気はわけがわからない、意味がわからない、というふうに肩を竦めただけだった。
たぶん、本当にわかっていないのだろう。
僕は勇気の親友である。もう、それくらいは読めるようになっていた。
親友の手助けがないとなると僕としては不安を感じざるを得ないが、やるしかない。
端的すぎるほどに、端的に言おう。
端的に言えるのだけが、僕の取り柄と言ってもいい。いや、実際には僕の取り柄はもっとある。もっとあるはずだ。たぶん……。
僕はギャンブラーだった。
「麗」
馴れ馴れしく呼びすぎたと、最後まで発音したあとに思った。しかし当然ながら時間が戻るはずもなく、僕はただただ、後悔するだけだった。
いや、後悔はしていない。まだ後悔してはいけないのだ。もう終わったわけじゃない。まだ始まったばかりなのだ。
これは賭けなのだ。
僕の香月先生に繋がる唯一の糸をここで失うか、さらに深い繋がりにするかの。
ギャンブルだ。
おそらく、僕の人生を左右しかねないほどの力を秘めたギャンブルなのだ。
ハイリスクローリターン。
このローは単なるローじゃない。偉大なローなのだ。言うなれば、未来への投資みたいなものだ。今得るローは未来に繋がる。
いざ、参らん。
「なんですか? 田中さん」
勝った。
いや、勝ってはいない。まだ負けていないだけだ。それでも、香月麗は表情一つ変化させなかった。
つまり、僕の呼び方を受け入れたということになる。
香月先生への切符は以前、取得していないけれど、少なくとも、手に入れられない可能性がぐんと低くなったのを肌で感じる。心で感じる。
ついニヤけそうになる口を必死で引き締める。ここでニヤケたらすべてが台無しだ。すべてってほどなにかを積み上げたわけではないが、それでも一番最初の一手を無駄なものだった。そんなふうには思いたくない。
僕は口を開いた。
「どうして、僕のことを知っていたんだい?」
疑問の頂点である。
僕の想像しうる限りでは、香月先生に聞いたという可能性が真っ先にあげられたけれど、残念ながらその可能性はない。ないわけではないが、極めて少ない。
だって僕は、香月先生が所属するレーベルにはなに一つとして作品を送っていないのだから。
香月先生が知っているはずがないのだ。
僕の学校に香月先生の娘さんが転入している時点で……十分に……奇跡…………。
いや、待て。
僕はこんなことよりも先に想像すべきことが、考えるべきことがあったんじゃないのか?
「わたしが田中さんを知っていた理由、それは残念ながら秘匿されています」
香月麗がなにかを言っているが、僕の頭には入ってこない。
耳で聞いた限りだと、そこまで重要な情報ではないようだった。つまり、今僕は、僕が考えるべきことを考えるべきで、さっきの麗の発言について考察している暇はない。
麗。
香月麗。
香月先生の娘さん。
香月先生への唯一の糸。
同じ年齢。
今日、転入してきた。
転入……してきた。
つまり引っ越してきたということである。それがなにを意味するのか。それは、香月先生が同じ学区内に引っ越してきたという可能性である。
僕の情報をどこで入手したのか。そんなことなど、もうどうでもいい。些細なことだ。些細すぎて視界にすら入らない。入っても認識しない。
「もしかして、家族全員で引っ越してきたかい?」
はっきり言って、僕としてはそうあってほしいと願っている。祈っている。
心臓が、今までにないほど激しく鼓動している。
もし、麗が一人で引っ越してきたと答えたならば、誠に勝手ながら、失望してしまう。勝手に期待をしておいて、本当に勝手気ままな話なのだけれど。
祈る。神にではなく、この目の前の少女に。
「はい、そうですが……」
「そう……ありがとう」
っし!
僕はガッツポーズをした。心の中ではない。実際に、現実の世界でガッツポーズを披露した。
……披露というものではないな。ガッツポーズという醜態を晒したのだ。醜態は醜態でも醜くはない。
もっと簡単に、端的に言うならば、恥を晒したと言うべきだろう。
さしもの彼女も目を丸くして、僕を見ている。
勇気に至っては口元を手で覆い、小刻みに震えている。つまり、僕は笑われている。
やらかしてしまった身なので、僕としてはその態度は甘んじて受け入れるけれど──よし、あとで殴ろう。
もちろん、親友だけ。僕は女性には絶対に手を出さないと誓っているのだ。神にではなく、僕自身に。ならば僕は今日新たに誓うべきだ。
すべての怒りは勇気にぶつけよう。
「俺はなにもしていないぞ。あと、お前じゃ俺に一発も食らわせられない」
試しに一発、全力の不意打ちをしてみたけれど、見事に掴まれてしまった。
「僕は君を殴らないよ。僕は親友を大切にする男だからね」
「じゃあ、俺もお前を殴らないようにしよう。俺はお前を大切に思っているからな」
おそらく、僕と勇気との間には、ばちばちと火花が散っているだろう。火花が散りすぎて周りまで焼きそうになっている。まあ、今回の場合その周りとは──。
僕は彼女をちらりと見る。
僕と親友の会話に少し戸惑っているようだ。
しかし残念ながら、僕と勇気に因縁はなにもない。僕と勇気の関係は極めて良好であり、今まで喧嘩をしたことすらない。
一般的な解釈を使えば、まあ、仲良しということになる。
今回のは喧嘩ですらない。威嚇もしていない。ただのじゃれあいだ。
それに鬼頭勇気は空手の有段者である。喧嘩のときですら、力をセーブしなければならない身なのだ。
しかも力をセーブしても瓦くらい割る。それはセーブできていないのではなく、限界のセーブでもそれなのだ。
末恐ろしい、というか誰かと比べることすらおこがましい。そう思われている人間はもはや人間ではない。
それが人間ならば、僕は人間の枠からはみ出てしまう。
最底辺にいる僕と、最高位にいる親友。
なんとも不思議な関係である。
ここで親友の話をすべて終わらせてしまうことにしよう。伏線になるかもしれないし、緊急時に説明するのもなんか後出しジャンケンのような気がして、気が引ける。
鬼頭勇気は空手の有段者であり、学級委員長であり、生徒会長であり、学校の支配者であり、この町屈指の情報屋である。
随分と肩書きが多い。
しかしながら、勇気の肩書きはこれだけではない。紹介できるのがこれだけと言うだけで、本当はもう僕ですら把握しきれていないほどの肩書きを持っている。
さすがに持ちすぎではないかと僕も最近、いや、一年くらい前から思っていた。
肩書きというか、異名を「一次の悪魔」しか持っていない僕としては羨ましい限りではあるけれど、僕も異名を持っている時点でそんな突っ込みをする資格などなくなっている。
いや、もともと持っていない。僕に誰かを責める権利なんてない。そんなもの僕にあるわけないのだ。僕にあるのは責める権利ではなく、思う権利なのだろうから。
話を戻そう。
本題に戻ろう。
本題からズレた、公式的な紹介をしよう。紹介の続きをしよう。
勇気が勇気たるゆえんは、数ある肩書き──称号のうちでも、たった一つに絞られる。
この町屈指の情報屋。
この町という小さい枠のなかで判断すること自体が、勇気への冒涜になりかねない。実際にはもっと範囲が広いはずだ。僕の情報範囲はかなり狭くてそして偏っているのでわからないが、少なくとも、日本全土に及んでいることは確かだろう。
どうしてなのかはわからない。
僕は勇気と出会う以前、勇気が世界中を恐怖で支配しているものだと思っていたのだが、それは違うとわかった。
わかりすぎる。
勇気はふざけている人間だが──僕はふざけていない。ふざけるまでもなく、存在自体がふざけている──決して恐怖で支配しそうな人間ではない。
そうであったのならば、わざわざ推薦で生徒会長になったりはしない。
これは僕が最近考えたのだけれど、勇気はもしかして天賦の才を持っているのではないだろうか。
いや、天賦の才というよりか、ただすべてに愛されていると言ったところか。すべてに愛されている。それは勇気がすべてを愛していることの裏返し。恩返し。祝福だと思う。
だから、嫉妬もされない。
愛を与えるものが愛を与えられるのは、当たり前のことだからである。
僕はすべてを愛していない。僕が愛するのは身近な人だけだ。それを考えると、僕は特別な幸せ者にはなれないのだろう。
勇気はその幸せをまんべんなくすべて利用し、情報を集めた。
愛されているからだけでもない。勇気の人格が完成されていたから、みんなは情報を渡すのだ。この情報が鬼頭勇気役に立てばいいな、そう思いながら。
実際、役に立たない情報もたくさんあったことだろう。
しかしながら、鬼頭勇気という人格者はそのすべてを受け入れた。受け入れ、その上で感謝した。僕がいつも言っているような上部だけのものではない、心の底からの、心の奥深くからの、本当の言葉。
だから、勇気はこの町屈指の情報屋となったのだ。いや、なったのではない。情報屋に上り詰めたのだ。
僕の語彙力不足が露呈してしまうので、勇気の話はここまでとしておくけれど、それでもこれだけの説明で勇気の一割も説明できたと思えない。僕の知っている部分だけでも半分にも満たないだろう。
逆に考えれば、半分も知っているというのは勇気の情報という観点からするとすごいことなのだけれど、僕が語っているせいだろうか、いまいちすごさが伝わってこない。
つまり、僕の話が下手ということなのだ。ラノベ作家を目指しているのに説明が下手とは……。
ショックを受けている場合ではないのだ。
戸惑っている彼女にこの状況を説明しないといけない。
ちなみに──ちなみにすぎて、もうちなみにではない気がするが、ここは大人しくちなんでおこう──ここまでにかかった時間は、思考時間は総合しても、まだ十秒程度しか経っていない。
説明説明。
東西東西。
カクカクシカジカ。
「仲が良いんですね」
どうやら納得してくれたようである。仲良しの説明のために抱き合ったりしたので、また別の疑惑が麗のなかに浮上しているはずだ。それに関する疑惑は解かない。
麗の今までの態度から察するに、彼女はそこまで言いふらすことはしないと思う。それにこれがなにかの伏線となるかもしれない。勇気もそれを感じ取ったのか快く賛同してくれた。
さすが、そんな疑惑がたったところで自分の立場が揺るがないことを知っている。
いや待て。今まで勇気に彼女がいたことはない。ここまでの美形──心も含めて──が誰にも捕まらないなんて話が信じられるか?
もしかしたら…………いや、やめておこう。
これ以上詮索することは僕のなかの何かが壊れてしまうような気がしたので、僕はこの思考を即座に停止した。そんでもって永久封印した。
僕は首肯しておく。
首肯しておくついでに、あくまでついでに麗に質問する。
「今度お父さんが──いや、ご両親がいるときにお家に行ってもいいかい?」
「いいですよ。わたしの両親は常に家にいますから」
「…………」
色々と突っ込みたいことはあったが、まずこれからだろう。
もっと自分の身を大事にしよう。
僕みたいなやつだから、安全というのはわかる。本当はわかりたくないが、この際僕のことは少ししか考えなくていい。
いくら僕と言っても人間を簡単に家にあげてはいけない。
なにをするかわからないから。
その問題に関して言えば、麗がなにもかもを予測できる頭脳の持ち主で、麗自身に僕がなにもしないことを見抜いている、という決定的な抜け穴がある。
ありえないかもしれないが、香月先生の娘と言うだけで、僕は彼女がなんでもできてしまう気がしてならないのだ。
「勇気、君も一緒に行こう」
さすがに勇気さえ連れて行けば、なんとでもなるとは思っていないけれど、麗に自分の価値がどれだけ高いのかをイケメンである勇気に説明させれば、この娘も納得するだろうと思ったのだ。
「ああ、いいぞ。香月さん、俺も一緒に行っていいか?」
「はい、大丈夫です」
いい感じにまとまってきた。
そろそろプロローグが終わりそうな気配がしている。これ以上ないほど気配が高まっている。しかしながら、僕としてはプロローグを終わらせる気など毛頭ない。僕はそんなことはしない。そんなことをするくらいなら、プロローグなんて作らない。
なにか、きっかけはないだろうか?
この状況を打破できるなにか切り札と呼べるものだ。
考えろ。
考えろ田中実。
僕の脳がどれだけ回転しても構わない。
あとで頭痛に苦しんでも構わない。
なにか、ないか?
「そう言えば田中さん」
麗から声がかけられた。
「なんだい?」
訊いてはみるが、おそらく頭には入ってこないだろう。聞いたことが頭に入ってこないほど考えに集中しているということだ。
麗に話しかけられてから、なにかがうずいている。なにかを伝えようとしてきている。
しかしながら、いくら考えてもその答えは出てこない。出てこようとしていないのか。それとも出てくるものが存在しないのか。
「どうして小説家になろうと思ったんですか?」
思いもよらない質問だった。
思考を停止してまで麗のことを見てしまう。
「先ほどの説明のなかにあった理由ではないですよね?」
理由の一つではある。
思い返してみれば、僕が小説家となったのはなにが原因だったのだろう。原因というよりか理由だが。
僕は今、本気で小説家になりたいと思っている。僕はこういう性格なので本気になろうと思ったものにしか本気になれない。
逆に言えば、やろうと思えたらやれる人間なのだ。実力が伴っているかは定かではないとしても、少なくとも及第点は得られるレベルでやれるのだ。
小説家に憧れ、自分自身がそれになろうとしている。
趣味を仕事にするのは良くないこと──あまりおすすめされないことだが、僕はそれを相手にしようと思っている。好きなことを仕事にしなければ毎日が楽しくならない。毎日がエブリデイにならない。
毎日はもともとエブリデイではあるが、ここは気分の問題だ。
気分が楽になるのだ。馬鹿になった感じもする。
とりあえず、僕は馬鹿ではないと言っておこう。そうじゃないと勇気が僕のことを全身全霊をかけて煽ってきそうだ。僕は煽るのは好きだけれど、煽られるのは嫌いだ。
完全に自分勝手な言い分だが、これが通らないことももちろん知っている。知っているからこそ、ふざけられるのだ。
それにしても、楽……か。
楽に生活をしたいから小説家になろうと思ったのだったか?
いや、違うはずだ。僕はそんなことを思う人間ではない。
そもそも楽に生活をするのならば、公務員のほうが収入は堅実である。
小説家は売れないと儲からないのだ。その点からするとクリエイターだけではなく、芸人にも通じる部分がある。
仕事の形態は違うけれど、人を、楽しませなければ給料として成立しないのは同じである。
そこから金という概念を外して発言すれば、僕の好感度も少なからず上がったとは思うが、そんなことができないのが──いや、できてもしないのが僕という人間の魅力だ。
他にも、一般的な回答として自分が読みたい本がなかったから書いた。
そんなものもある。
しかしながら、それはすぐに却下される代物だ。
僕は香月先生の本が読みたいのだ。コウヅキストである僕が、他の作品に浮気するはずもなく、香月先生の本さえ読んでいれば、人生満足であったと言える。
ちなみに、香月先生の作品は多岐に渡っているため、香月作品があればインプットには困らない。
まあ、香月先生以外の作品も読んだことはあると言えばある。作者名は言いたくないけれど、個人的にはストーリーは好きだった。
つまるところ僕は読む本には困らないのである。
いくら考えても、それらしい答えは出てこない。はたして僕が小説家を心目指すきっかけになったのはなんだったのだろうか?
それにしても、考えることが多いな。
ともかく、まずは麗の質問に答えなければならないのでさっきまでのプロローグ継続法はあとで考えるとしよう。僕がそのときまで覚えていればの話なのだけれど。
というわけで僕は最初の思考を放棄し、今考えるべきことに集中することにした。
僕の思考速度からして、もう少しだけなら考える時間があるはずである。集中してしまうと時間の感覚がおかしくなってしまうので確かなことは言えないけれど、少なくとも一分以内だろうと予想できる。
結論から先に言おう。
いや、結論というか、僕が考えた末、今までのなんのきっかけもなく記憶力のない僕の記憶で思い出そうとはしていたけれど、薄々は気づいていたことだ。
気づかないほうがおかしい。
気づいていなければ、僕の脳は世界一必要のないものだったということになるレベルだ。
自分のことに気づかないのは正直よくあることだが、自分のことを気づきすぎていたというのも正直言って……うん、まあ、よくはないかな。
そうなのだ。
結論から先に言うと言ったが、もしかしたら僕は無意識に願っていたのかもしれない。僕のなかになにかがあることを、僕のなかにも、なにかになりたいと思えるような熱いストーリーがあるかもしれないと。
そんなことなどありはしないのに。
いくら偽っても僕が僕であることになんら変わりはない。
変わらないからこそ、変わりたくなる。偽りではない本当の力を使って、自分を変えたくなる。
僕は本当の力がなかったから、偽り──いや、言葉という壁で自分の真の姿を見えないようにしていた。
言葉でできた壁が、感情までを覆い隠してくれないことを知らずに。
無知は罪ではあるが、救いのきっかけになる。
そう、どこかで聞いた。どこで聞いたのかは忘却の彼方だけれど、その言葉に感銘を受けたのを覚えている。そしてそれが、僕にはまったく似合わないことも。
救われる価値がないから、なんの理由も目的も持たずに生きている僕には。みんなみたいな熱い思いなんてないから。それに対して、嫉妬すらも浮かんでこない僕はどこかで普通ではないのだろう。
自己嫌悪なのか、自己愛が強いのか、それとも──。
こんなときに言葉が出てこないのが、僕だけれど、本当に出てこないと若干情けないな。
つまるところ、今までの話まとめると──、
「小説家になろうと思った理由かい? 残念ながらないよ。僕には小説家になりたい理由なんてない」
ということなのだが、僕の脳内ではどれだけの思考が繰り広げられたのだろう。
ちなみに、僕の今までのマイナス思考はすべて、嘘だ。
嘘とは言っても、本音ではないだけで嘘というわけではないのだけれど──戯言と言ったほうがこの際正しいのかもしれない──本音がないのが話し合いにおいて、思考において、最も悪質なことだった。
僕は自分でも自覚している通り自己愛が強い人間なので、どれだけ自分で自分を貶めることを言っても決して本音ではないのだ。僕は僕が一番大切なのだ。
誰もがみんなそうだと思う。そうでなければ、そいつは死んでいるだろう。死んで、自殺している。
自己愛とはそこまで重要なことなのだ。まあ、僕のように極端になっても逆にダメなのだけれど。
ダメというか……腐る。僕の精神が驚くほど腐っているように。
冷蔵庫のなかにも、僕より腐ったものは存在しないだろう。存在、というか、実在か。
冷蔵庫のなかで腐っている食物と人間社会のなかで腐っている僕。
それに大した差はないのかもしれない。
生物としての大差、いや、存在としての大差は確実にあるだろうけれど、それでも本質的にはまったくもって変わりはないと言える。
「そうなのですか?」
僕は目一杯首肯した。
首肯するのにそこまでの勢いはいらないはずなんだけれど、なんとなく気分でやってしまった。予想しよう。明日起きたら首が痛い。首の痛みが今からでもわかる。明日から少しは運動しよう。
いや、明日と使っている時点で明日も「また明日」と言うのだろう。そんなことだから慢性的な運動不足に陥るんだ。
小説ばかり書いていて運動する時間も、体育以外にはまったくと言っていいほど取っていなかった。ただの怠け者である。やっていることとして小説を書いているので極めて生産的な行動をとっているわけだが、運動をする時間が取れないのは致命的である。
小説家はある意味、体力勝負でもあるのだ。明日提出用の原稿を書いていて昨日徹夜し、結果的に今日寝坊したのが良い例だ。体力を使い果たして、死ぬように眠った。
まあ、だからと言ってはなんだけれど、今日の朝の出来事はおおむね予想はしていたという感じだ。
「…………」
「…………」
無言になってしまった。会話が見つからない。
このままでは本当にプロローグが終わってしまう。別に終わっても大したことではないのだが、いつまでも終わらないで続いてほしいというなかなかに自分勝手で、乙女チックな考えによるものだった。
本音で言えば、プロローグにしては長すぎやしないか、とも思っている。僕の場合、思っていても口にしないのだ。僕の考え全部を口に出して言えば、とうに日が暮れてしまう。
このようにいつまでもモノローグを語っていれば、もっと長くプロローグを続けられるが、しかしながら、現実の時間はほとんど進んでいないのだ。モノローグはただの時間稼ぎにすらなっていない。
別に、モノローグは時間稼ぎにするものではないのだけれど。どちらかと言えば、文字数稼ぎか。まあ、僕には関係がないことだ。
早くなにかを考えなければならないな。
いや、実のところ、とっかかりというか、発想自体はもうできている。できまくっている。小説という言葉を聞いたとき雷が落ちたように、ひらめいたのだ。
まあ、これが正しい作戦なのかどうかはわからない。正しさなんて誰にもわからない。もちろん、数多の情報を有する勇気にだって。
「ねえ、お二人さん」
僕は声をかけた。
とある目的のために動いている。
目的なんてそんな大それたことじゃないけれど、僕にとってはじめての試みだった。
僕が僕のことに関して初めて──初めてではない──自分の意思で託そうとしているのだ。
僕の命を。
僕の魂の結晶を。
結晶らしくはないかもしれないが、僕は二人に託したい。託して、そして二人と思いを共有したい。
二人の気持ちを一切考えない。傲慢と言われれば反論は到底不可能だろう。だってそうなのだから。
言い訳をしてまで自分の身を守ろうとしている僕だけど、みんなと仲良くなりたいというか気持ちに差異はない。
さあ、あと一つの台詞で、僕にとっての初めての試みが成功するんだ。
勇気を出して、一歩を踏み出そう。
「よかったら……読む? 僕の小説」
まあ、僕が司会を務めるこの物語が、勇気を出した程度でなにかが変わるわけがなく、ふざけている僕が真面目になることもあるはずがなく。
「…………小説?」
勇気が首を傾げた。
おそらく、いや、絶対にわざとだ。忘れたふりをして、僕から小説家になりたいという夢を引き出すのが目的だろう。
夢を告白する勇気を無駄に出力させているのだ。勇気は勇気を出している人間が好きなのである。
しかしながら、今回はいつもの勇気の手には引っかからない。勇気の手段も通用しない。今回に限って言えば、イレギュラー、香月麗がこの場にいるのだ。麗の前ではさすがの勇気も、僕をいじり倒すことはできない。
これは二人の対話なのではなく、三人による会話なのだから。対話と会話の意味の違いすら知らない僕がなにを言っているのかという話はこの際、横道に捨てておくとして、このいじりはまず成功しないだろう。
「小説家志望の小説ですか──読みたいです」
素直にそう言ってくれるほうが好感が持てる。好感度に変化は一切ないけれど、どうせあとから「読ませろ」なんて上から目線で言ってくる親友に比べたら、好感度が例外的にでも上がってしまうのは当然のことと言えた。
「じゃあ」
僕はそう言って、机に歩みより、引き出しを開けた。
そこに入っていたのは、十数個にも及ぶ「SDカード」だった。だったというか、もともと自分で入れたのだけれど。
僕はそのなかから、SDカードを全部取り出した。
もちろん全部とは言っても、絶対に見せたくないものもあるので厳密に言えば全部ではないが、見せられるものに限れば、全部と言えるだろう。
「これ全部ですか?」
麗が驚いたようにこちらを見る。
確かに驚くのも無理はない。
この作品たち──僕の子供たちは全員、一次で落とされたもの含めて落第作品なのだから。別に、子供たちは悪くない。僕が悪いのだ。
こんなクズな作品に仕上げてしまったから。こいつらは日の光を浴びることなく、引き出しのなかにしまいこまれていたのだ。
「少なくとも五十作品くらいはあると思う」
具体的な数を伝えられたかはよくわからない。三十以降数えるのが面倒になったので、まったく数えていないのだ。この数字が正しいのかすらわからない。当てずっぽうて言ったため、必ず間違っているだろう。
一応ながら、「少なくとも」という枕詞で保険はかけておいたけれど、少なかったならともかく、多すぎていれば、麗と勇気への負担が半端ないものとなるだろう。心配だ。
「それ全部が二次落ちなんだな」
「勇気そこは一次通過作品と言ってくれよ」
取ってつけたような心配だったけれど、このタイミングでまさか煽ってくるなんて誰にも予想できないだろう。ナチュラルな煽りすぎて普通に返答してしまったではないか。
まあいい。
僕はSDカードを懇切丁寧に専用──かどうかは知らないけれど、おそらくSDカードしか入らないだろう──ケースにSDカードを入れた。
思えば、ここまで何度も「SDカード」と口走っているが、実際のところ、僕はSDカードのことをなに一つ知らない。
いや、なに一つ知らないわけではないけれど、起源や、発展、現状すらも知らないのだ。もはやそう表現してもいいレベルである。
まあ、僕がSDカードを知っているかどうかなんてこの際どうでもいいことなんだけれど、それよりもやることが多すぎるのだ。
いや、やることは少ないが、やらなければならないことが多すぎるのだ。やることは「やるべきこと」とも、言えるが、やらなければならないことが決してそれを勝ることはないだろう。
やらなければならないことが、本当にやらなければならないことなのか。その真相は僕以外にはほんの数人にしかわからないだろう。
そのなかには親友と転入生は入らない。
入るはずがないだろう。いずれという期待のこもった、希望こもった言い方ならすることができるけれど、それを今したところで大した意味はない。意味はあるが、大したことにならない。
単に小説を書くのが忙しいので、読んで誤字脱字とかをチェックしてほしいと、言うだけのことに、どうしてここまで言い訳をしてしまうのだろう。
僕は気が弱いわけではないのに、言い訳ばかりをしてしまう。遠回りをして、本題をずらして、わかりにくくする。自分でもどうしてそんなことをするのかよくわからない。
それとも、わかっていて無視しているのだろうか。無視することで、無知を装う。そんなことなのだろうか。無知は罪であるけれど、無知を装うことこそが最も罪であると僕は提唱したい。
「どうぞ、二人で分けあってくれ」
こういう場合はどちらに渡せばいいのだろう。僕的にはどっちでもいいけれど、本人たちにとってはそれがどうかはまったくわからない。
順当にいけば親友に渡せばいいのだろうが、しかしながら、勇気に渡せば最も酷い状態になるかもしれない。
かといって麗に渡すのもなんかなという感じだ。勇気のほうはこの一日で随分と信頼関係を築いたようだけれど、僕は麗との信頼関係は未だに築けていない。
勇気との信頼関係を築くのにも相当時間をかけたのに今会ったばっかりの人に素直に渡すこともできない。
だがしかし、ここで渡さない。どちらにも渡さないという結果に至るわけにはいかない。
それに至ってしまえば、僕の出した勇気はただの無駄だったのだと証明されてしまうから。
僕は無駄を嫌う。無駄なものを嫌う。僕自身の人生が無駄だから、無駄にしないようにしようと決めたのだ。一週間前に。
結局僕は、二人の中間に差し出した。これで行動派のどちらかが取るだろう。
まあ、そんなことをのうのうと思っていたわけだ。
五分後。
SDカードケースは未だ、僕の手元にあった。どういうことなのだろう。まさか、僕からは受け取れないという意思表示か。
いや、その可能性は低い。決して高くないだけで存在していることには変わりないけれど、もっと高い可能性があるのだ。前者を一パーセントとしたら、九十九パーセントにも至る後者の可能性が。
僕の脳も麻痺しているらしい。
どうして可能性が低いほうから先に紹介するのだろう。いや、高いほうから紹介するとあとから紹介するのが低いってレベルではないほど、低く見えるからなのだろう。
無意識にそう判断しているのだとすれば、僕はもしかしたら、いや、もしかしなくても、有能なのかもしれない。
可能性としてもう一つあるものを言わなければならない。
言わなければ、僕の腕が痺れてしまう。もう半分ほど痺れていると言っても過言ではないけれど、本格的に痺れ始めるまで待つのは僕が辛いのだ。僕の腕が辛いのだ。
もしかしたら二人は──勇気と麗はお互い遠慮しあっているのかもしれない。
その可能性が異常なまでに高い。
勇気は勇気のない人間だし、常に敬語を使っている麗はもしかしたら引っこみ思案な性格なのかもしれない。
まあ、敬語というだけではなにも確信は持てないのが現状だ。あくまで可能性というだけであってそれが真実とも限らない。
僕なかで可能性が高いというだけで、鳥瞰してみればまたなにかが変わるかもしれない。可能性に変化が訪れるかもしれない。まあ、訪れたとしても僕がそれに気づけるかどうかそれすらも怪しいところだ。
長々と話をしてもしょうがない。僕の腕が痛くなっていくだけだ。早く解決しよう。
この場合、勇気を動かせば早いのだ。
そして僕は勇気の親友である。
親友のことは知っているものだ。現に僕も勇気が優しいことを知っている。困っていれば、勇気を出して助けてくれることを知っている。
だから、僕はそれを利用する。
いや、言い方が悪い。もっと優しく言い直そう。僕は勇気の優しさを有効活用する。
……もっと酷い感じになってしまった気がするが、目をつぶって、見なければ済む話である。
というわけで、僕は発言した。
「どうしたんだい? いいかげん、僕の腕も疲れてきたんだけれど」
結果は、僕の予想外のものとなった。
本当にこの展開は予想していなかった。
予想できていたらそれはそれで僕の推測力が高すぎるということになるのだが、しかしながら、僕はこの展開はまったくもって予想していなかった。同じことをついさっき言った気もするが、まあいいだろう。
驚愕した。
鬼頭勇気、香月麗。
この二人は案外気が合うのかもしれないと思わせるくらいには、驚愕した。魂が抜けたという表現もあるけれど、実際にそこまでは驚いていないし、驚いたとしても目を向いたくらいである。
二人はまったく同じタイミングで、まったく同じ速度で、対照的ではあるもののまったく同じ軌道で、僕の差し出したSDカードケースを掴んだのであった。
きっと、十年後の僕は言うのであろう。
この瞬間が、僕の人生を一変させたものである、と。
僕の人生における最初で最後の転換点だったのだ、と。
一章終了です。




