8 奥歯グラグラいってんだけど
どれくらいそうしていたのかよくわからない。時間なんて概念は別次元に転移されてしまっていた。その後、作業を再開した赤い目の俺と茉莉子の間にはさすがに微妙な空気が流れていて、昨日とほぼ同じ時間に茉莉子が充電切れたみたいになって眠るまで一言も口をきけなかった。イコールまともな手がかりはみつからなかった。今日は一旦起こすのも気が引けたので、俺は茉莉子をそっと抱き上げて、幅の狭い階段を静かに上って、迷わず俺のベッドに寝かせた。俺ももう寝ることにして、洗面所で歯を磨いた。いま親父の布団で寝るとまたいろいろ込み上げてきて泣いてしまいそうな気もしたが、でもうちにはそれ以外に布団のストックはなく、茉莉子の隣にもぐり込むわけにもいかないので、俺は覚悟を決めて親父の布団に入った。で、案の定、泣きながら眠った。
そして今日は親父の夢を見た。夢の中の俺は何故かボクサーで、トレーナーというかジムの会長は常に一升瓶持ってる小柄なじいさんで、その孫娘が茉莉子だった。ミット打ちを終えた俺に茉莉子がタオルとドリンクを差し出してくれたり、川岸を走る俺の後ろから茉莉子が自転車でついて来たりとか、そういう運動部員とマネージャーの恋的な恥ずかしい感じの爽やかな展開が続き、そのくせ俺は晴香ちゃんと同棲していて、そういう夜のシーンとかがあって、次の試合に勝てたら結婚することになってたりして、俺は来るべきタイトルマッチに向けてハードなトレーニングを積み重ね、ついに迎えた試合当日、十万人収容のコロシアムでタイトルマッチに挑むのだが、俺の対戦相手のメキシコ人が親父だった。タコス食ってたから間違いない。どうやら親父は五十戦無敗の伝説のチャンピオンらしく、レジェンド永友龍太郎とか呼ばれていて、しかも洗脳されて俺のことがわからなくなってるらしく、試合が始まり、グローブを合わせ、俺はとりあえず挨拶代わりのジャブを繰り出してみるのだが、親父はしゃがみこんでそれをかわし、ひたむきに、親父はひたむきに俺の無防備な向こう脛を激しく蹴り始めた。俺がレフェリーに『ちょっと待ておい!ボクシングじゃねーのかよ!』って胸倉掴んでアピールしても、タキシード姿の黒人の審判は半笑いで『ノー』とか言うだけで、マジかよって思ってたら今度は親父が俺の足にタックルかまして引き倒しやがって、馬乗りになって顔面ボコボコ殴り始めた。しかもすっげー楽しそうな顔で。俺は最初っからこれは夢だってことがわかってたから、もう別にいいやって思いながら殴られてたんだけど、それにしても体が重く感じられて、それは夢にしてはいやにリアルで、どうやら現実の俺の腹の上に何か重たいものが乗せられているようで、あーこれはもしかしたら親父が腹の上に乗ってんのかなあとか思って、半透明の親父なんか見たくないし気持ち悪いし、もうちょっと寝てたほうがよさそうだからそのままじっと耐えてたんだけど、今度は殴られてる顔の痛みが結構やばいことになってきて、口の中に血の味まで広がってきて、『起きろよこの野郎!』みたいなことを親父じゃない声が言ってて、そこでようやく寝込みを襲われていることに気付いた。俺は両手で顔を覆うみたいにしてガードして、指の隙間から俺を殴ってるヤツを見た。未来だった。めちゃめちゃ怖い顔してた。
「とっとと起きろやオラ!」
さらに右の拳が振り下ろされる。ガッチガチのグーだ。
「ちょ…、やめろって」
「うっせんだよゴミカスが!」
未来は俺の指の間に自分の指突っ込んでガードをこじ開けようとしてくる。すなわち長い爪で俺の顔ガリガリ引っかいてくるからマジ泣きそうに痛いんですけど。
「ちょ、お前落ち着けって」
「うっせんだよ!死ね!」
俺は大きく息を吸い込んで、腹筋に力を込めて思い切り体を跳ね上げた。俺に馬乗りになっていた未来がバランスを崩し、俺はその隙に体を横に転がして退避に成功した。布団とか俺のシャツに血が付いてる。あ、ちゃんと赤いよ。
「お前ふざけんなよ!なんか奥歯グラグラいってんだけど」
「知るか」
未来は畳に膝を立てて肩で息をしている。手の甲に付いてる俺の血が怖い。
「脩平は?」
「いつも一緒にいるわけじゃねえよ」
未来は路上に唾を吐くように言った。未来のマジギレなんて見るの高校以来だな。まあ仕方ないけどさ。俺はティッシュを二枚抜き取って、鼻と口に突っ込んだ。うわ、ティッシュ赤。すげーでかい口内炎できそう。
「晴香ちゃんのことだろ?」
「お前なんつーこと言うんだよ?」
「昨日はちょっと感情的になりすぎた、と思ってる」
「アタシら売春婦じゃないんだけど」
「ごめん」
未来は立ち上がって俺の肩を思いっきり蹴った。俺は防御しなかった。それから未来は深呼吸をした。
「晴香はね、ちゃんと素の宇野晴香として虎太郎と会ってたんだよ。店で会うときはあんたに対しても『ひなの』だった。でもプライベートは全然別物。それくらいわかんない?アタシだって『くるみ』で脩平と付き合ってるわけじゃない。てかアフターなんかしたことない」
「未来のことはわかってるよ。でも晴香ちゃんは高校の頃とあまりにも印象が違うから、なんか根本的に変わっちゃったんじゃないかって勝手に決め付けて、誤解してた」
「晴香、本気で虎太郎のこと好きだったんだよ」
俺はてのひらで口の血を拭う。
「そうみたいだけど」
そう。全然信じられないんだが。
「高一のときから」
「え?」
俺は顔を上げて未来を見た。未来は険しい顔して俺の腹の辺りを見ていた。
「高一のときから。虎太郎が『晴香ちゃんかわいいかわいい』ってうるさかった頃から」
「マジ?」
俺がにやけたら未来が嫌そうな顔をした。
「残念ながら、超マジ」
「んだよ、だったらあの頃とっとと告っときゃよかった」
馬鹿みたいな仮定を持ち出して悔しがる俺を未来が睨む。そりゃそうだ。あの頃俺の彼女だったのは未来なんだから。
「虎太郎、いまならまだ間に合う」
俺は枕元に落ちてたタバコの箱から一本抜いて口にくわえた。まあ、反射的ににやけてはみたものの、未来の言ってることわかんねえ。間に合うって何がどう間に合うっていうんだ?俺はもうあほで無鉄砲でトイレで隠れてタバコ吸ってる男子高校生じゃないんだし、晴香ちゃんだっておっとりかつしっかり者で学級委員な女子高生はとっくに卒業してるんだ。あの頃の俺は晴香ちゃんが好きで、でもそれってたとえば、今週のヤンマガの表紙のこの子が好きだとかいうようなもんで、部屋にピンナップ貼るような好きで、彼女にも隠さずに言えるような好きで、俺晴香ちゃんのDVD出たら絶対買うわみたいなもんで。いやそりゃアイドルに告られたりしたら大喜びで付き合いますけどさ。でも実際の当時の俺はいつも仲間とくだらないことわいわいやってて、その中で何人かの女の子との関係は短いスパンで変化したりして、俺は未来と付き合ったり、他校の子と付き合ったり、後輩と付き合ったり、そんでまた未来と付き合ったりとか、してた。だからそういう俺をあの頃から変わらず好きでいてくれたっていう晴香ちゃんはまぎれもなく俺が憧れてた晴香ちゃんそのままで、こんなに距離が近づいたのにそれに気付かない俺もあきれるくらいに俺なのだ。
「遅えよ」
俺はタバコに火をつけて、部屋を横切って窓を開け、煙を外に吐き出した。今日もよく晴れている。親父が俺を起こしに来る日曜の朝だ。
「もう五年前と同じ気持ちじゃねえし」
未来は窓の外に顔を出して、俺の目の前にピースの指を突き出した。俺は未来の指に吸いかけのタバコを挟ませる。未来はそれを一回だけ吸って、また俺に返した。こんなことをするのも未来が俺の彼女だったとき以来だな。お前らそんなに俺をノスタルジにさせるなよ。
「なあ虎太郎」
「あん?」
「お前いつからそんなになっちまったんだっけな」
「そんなにってずいぶんだな」
「だらだらどろどろふにゃふにゃぷにょぷにょ、骨なしゼリーのスライムみたい」
「俺はガキの頃からこうですよ」
未来は自嘲するように笑う。
「アタシが唯一、二回付き合った男がそんなゴミくずなわけないだろ」
「あの頃はどうかしてたんだよ、みんな。誰かがぴったりくっついててくれないと、不安で仕方がなかったんだ」
ふいに口をついたそれは、まるで俺の言葉じゃないみたいだった。どうしてそんなことを言ってしまったんだろう。そんなこと、思ったこともないはずなのに。どうして俺が俺たちの過去を否定するようなことを言わなくちゃいけないんだろう。俺の後悔とクールな沈黙が親父の部屋をじわじわと侵食していく。未来は黙ってうつむいて、自分の足の指とか見てた。
「かっこよかったよ、虎太郎は。でも完全に過去形だね」
「そうかい」
「でもね、晴香にとっては現在だった。二十歳のぐだぐだの虎太郎を高校生の虎太郎を見る目で見てた。だからこんなことになった。でも全部があんたのせいだとは言わないよ。虎太郎の気持ちと晴香の気持ちがずれてるのは仕方が無いことだし。晴香は五年前の虎太郎を見てて、虎太郎はキャバ嬢のひなのを見てた。どう考えても無理ね」
俺は体をそらして目を見開いて、涙がにじむまでまばたきなしで太陽を見た。それから窓の手すりに置いてあったビールの空き缶にタバコを捨てた。部屋の中が真っ暗に見える。未来は自分のバッグから細いタバコを取り出してくわえて、金色のライターで火をつけた。窓枠に長い脚を組んで腰掛けて、しゅーっと煙を外に吹く。その仕草とか、膝に当たる陽の光とかがかっこよくて、ちょっと見惚れた。未来は昔からタバコを吸うときが一番魅力的なのだ。脩平はそのこと、ちゃんと気付いてるのかな。
「女子高生に手ぇ出したの?」
くすぶる灰を空き缶に落としながら、未来が言った。
「いとこだって言っただろ?」
「それはもういいから」
未来が真面目な顔して言った。俺は目を閉じて、いまだ眩んでいる眼球をまぶたの上から時間をかけて揉みほぐした。また涙がにじみ出た。こんなの目を傷めるだけだ。
「たしかにいとこじゃないよ。でも付き合ってるとかじゃない。ていうかまったく関係ない」
「まったく関係ない子がなんで二日前から家にいるのよ?援助?」
「違うわ。ちょっと込み入った事情があるんだよ」
未来はタバコをもみ消して、脚を組んだまま前かがみになってしばらく部屋の真ん中の何もない空間を見ていた。それから俺を見上げる。
「でも好きになりかけてる」
「なってない」
「そうかな。虎太郎かなり気が多いし、しかも年下好きじゃん」
「でも茉莉子はなんていうか、そういう感じじゃないんだ」
「妹みたいな、とかそんなふう?」
「それもあるけど、どっちかっていうと、マザー」
「はぁ?」
「母さんみたいな感じ」
未来の背中から冷たい何かが放出されているのを感じる。
「……気持ちわる」
未来はゆっくり腰を上げて、さっき見てた部屋の真ん中まで歩いていって振り返った。
「まあいいわ。これからどうしようが虎太郎の勝手だし。でもとにかく晴香には絶対に謝って。あの子相当ショック受けてるし、アタシだって、今回の虎太郎には正直幻滅したよ」
「俺も罪悪感でいっぱいだよ」
未来は小さく微笑んだ。
「そう思えるんなら、まだまだアタシの虎太郎だよ」
「お前のは脩平のあほだろ」
未来は笑いながら中指を立てた。
「虎太郎」
「おう」
「ちゃんと謝れな」
「わかってる」
「また脩平と来るから」
未来は部屋を出て行った。俺は立ち上がって襖を閉めて、ティッシュを抜き取って鼻をかんだ。鼻水は出なかったが、血が出た。最後まで未来から俺への謝罪はなかった。『なぐってごめんね』って、それだけ言ってくれたら痛みも結構和らぐんだが。
俺は携帯電話の着信履歴から晴香ちゃんの番号を表示させてみた。あんまり気にしてなかったけれど、晴香ちゃんからの着信って結構多い。ここ二週間くらいじゃ脩平より多いな。でも話した内容って特に思い出せないんだ。俺は壁にもたれてため息をついて、そんなに俺は変わってしまったのかなって思った。たしかにいまはぐーたらしてるけどさ、それよりも昔の俺ってそんなに立派だったか?ちょっと美化しすぎじゃね?どっちかっていうと恥ずかしいことばっかして、言ってたと思うのだが。でも消したい過去なんかじゃねえけどさ。まったく、晴香ちゃんもどうかしてる。そんなアホ絶頂の俺を五年も好きなんてさ。
「昔の俺、ね」
俺は親父が何にも書かないくせに書き物机って呼んでたマホガニーの机の上でほこり被ってる写真立てを手にとった。親父と、母さんと、俺が正装して写ってる、俺の五歳の七五三のときの写真だ。親父は緊張して固まってて、母さんはリラックスして微笑んでて、俺は気をつけの姿勢でガチガチに固まってた。
「親父似かよ」
俺は失笑と共に写真立てを机に戻した。