6 一緒にどっか消えてよ
親父のにおいが染み付いた布団で寝たからといってかならずしも親父の夢を見るわけではないし、当然枕元に立たれたりもしない。いつもよりも不快な寝汗をかいているのは、親父の部屋のエアコンの効きが弱いからだ。たぶん。普段なら夕方くらいまで寝ちゃってもおかしくない時間に眠り始めたのに、俺が目を覚ましたのは十二時半で、もちろん昼で、しかも一発で見事に覚醒していた。二度寝なんか請われてもできそうにない。俺は上半身を起こして肩と腕の筋を引っ張って、立ち上がってアキレス腱を丹念に伸ばして、親父の部屋を出て俺の部屋に入った。当たり前のようにそこには誰の姿もなく、ベッドは俺がセットしたときよりもきれいに整えられていた。俺はカーテンを開けて窓開けて、手すりにもたれてタバコをくわえて火をつけた。非常にいい天気なんだ、今日も。で、結構張り切ってたりするんだ、俺。でもうちの前に停まってる黄色いミニクーパーはなんだろ。ツレにあんなの乗ってる奴いないし、シャッター閉まってるからって勝手に人ん家の前に停めんなよな。まあいい。すぐにでも茉莉子の本探しを手伝ってやりたいとか思ってるんだけど、『おはよー!お待たせ!よーし、じゃあ今日もバリバリやりますか!お母さんの本、絶対見つけような!』みたいな感じを出すのもそういうふうに思われるのも恥ずかしくて嫌で、ごく普通にいつもどおりぐっすり熟睡してからだらだら起きましたみたいな感じで、寝ぐせも直さず頭の後ろを掻きつつあくびをかみ殺すふりまでしながら階段を下りていくと、暑いからかシャッターの下半分が開いてて、メガネな茉莉子が昨日からさらに本棚二つ分進んで左の壁面の入り口側の棚の前で脚立に上って分厚いハードカバーに目を落としてて、でもすぐに俺に気付いて顔を上げた。
「あ、おそいよー、虎太郎くん」
あい?なによその呼び方。
「おそいよ。永友くん」
別に茉莉子が言い直したわけじゃない。カウンターの親父椅子で脚組んでたんだ。フリフリ白ピンクなキャミソール着て、茶色い髪をアップにしてる、プラダのトートバッグを持った、顔もスタイルも完璧なお姉さんが。
「あれ、晴香ちゃん?」
「おはよ」
晴香ちゃんはにこーっと俺に笑いかけた。あー、とりあえず俺も笑おうとするんだけど、なんか顔ひきつる。やっぱり寝ぐせ、直せばよかった。
「おはよう」
「メール返してくれないから、迎えに来ちゃった」
「あ、そう」
うえ、気まず。顔見れん。
晴香ちゃんはゆっくりと首を動かして、茉莉子にきれいな顔を向けた。茉莉子はさっきからこっちをちらちら見てたんだけど、晴香ちゃんと目が合うと慌てて本に目を戻した。
「いとこ、なんだって?」
「うん。母さんの妹の子どもだから」
「それは間違いなくいとこだね」
「うん」
晴香ちゃんはカウンターに頬杖をついて、アイスシャーベットみたいな微笑を浮かべてじいっと俺を見上げてて、やっぱり全然目が合わせられません。そしたら茉莉子と目が合って、茉莉子はため息ついて脚立から下りて本を裏向けて置いて、メガネを外しながらこっちに向かって歩いてきた。
「虎太郎くん、お風呂の窓が閉まらなくなっちゃったんだけど、見てくれない?」
えらい微妙な助け舟だな、おい。たぶんわざとだ。
「おーおー、それは大変だな茉莉子。晴香ちゃんごめん、ちょっと風呂の窓閉めてくるから待ってて。すーぐ戻ってくるから。ちょっとしたコツがいるだけなんだ、俺ならすぐに閉められるけど、慣れてないと難しいんだよ。ついでにコツも教えてくるからさ」
聞いてる晴香ちゃんの表情に特に変化は見られなくて、何の言葉も発さず、一ミリもうなずかなかったけれど、とにかく俺は茉莉子と一緒に風呂場に向かった。
「なんなのあの人?」
「なんで入れたんだよ」
「だってめちゃめちゃ押しが強いんだもん」
茉莉子はパッツン前髪をかき上げてそのままてのひらで押さえてた。あー、おでこ初めて見たかも。
「二時間くらい前に来て、虎太郎くんはまだ寝てます、って言ってるのに起きるまで待つって言って聞かなくて。しかも私がいとこって全然信じてないっぽくてなんかいろいろ聞いてくるし、ずーっとあそこから私のこと見張ってるの。すっごい緊張する」
「マジか」
「昨日言ってた晴香さんでしょ?」
「うん」
「約束、してたんでしょ?」
「してねえよ」
「うそ。約束したのに連絡くれないって言ってたよ」
したのか?約束したのか俺?ひょっとして酔っ払ってて覚えてねえとかそういうことか?
「メールも返してくれないって。なんで返さないの?」
てかこの子なんで怒ってんの?
「なんか、めんどくさくて」
「なにそれひどい」
確かに。茉莉子は腰に手を当てて、脱衣場の床を足の裏でぺしぺしと叩いた。
「とにかく、どうにかしてよ。見られてると作業効率が著しく低下するの」
「帰れなんて言えるわけないだろ」
「そんなこと言えなんて言ってないじゃない。一緒にどっか消えてよ」
俺を見上げる茉莉子の目が据わってる。で、俺微妙にへこむ。
「俺、今日は一日本探し手伝う気になってたんだけど」
「そう思ってるんだったら、あの人連れてどっか行ってきて。それ以上の助けはいらないから」
連れてけったって、これから晴香ちゃんと二人きりになるなんて想像しただけでも胃が痛むんだが。でもたぶん、そうするしかなさそうな状況なのはわかる。昨日のうちに俺が断りのメールを入れておけばよかっただけの話なのだ。すべては俺の怠慢ゆえに。
「……わかったよ」
俺はため息をついて脱衣場を出た。
でもここ、俺の家なんだけどな。
店の前にあったピカピカイエローのミニクーパーはやっぱり晴香ちゃんので、運転席に乗り込んだ晴香ちゃんは茶色いサングラスを掛けてスマートにドライブを始めた。速攻で髭剃って着替えて寝ぐせを直した俺は、まだまだ結構困惑していた。晴香ちゃんがうちに来たことなんていままでなかった。未来たちと一緒に来たこともないし、俺が晴香ちゃんと会うのは駅のキャバクラと、休日の繁華街だけだったのに。だから俺は晴香ちゃんがこんな車に乗ってることも知らなかったし、だいたい免許持ってるイメージもなかった。この車もどっかの誰かに買ってもらったのかもしれないな。すげえ新車の匂いするし。ひょっとして二台目は俺に買わせる算段なのか。怖ぇ。晴香ちゃんは走り出してから一言も口を開かない。運転に集中しているから、というわけではどうやらなさそうで、沈黙を和らげるものはステレオから高音質で流れる耳障りなポピュラーミュージックだけだった。やがて俺は空気の重さに耐え切れなくなって、ウインドウを数センチ開けた。涼しい車内にむっとする外気が流れ込む。夏だ、完璧に。
「夏だね」
先に沈黙を破ってしまったのは、俺だった。晴香ちゃんはサングラスの上の細い眉をピクリとだけ動かした。
「あの子、だれ?」
まだ黙っときゃよかった。
「いとこの茉莉子ちゃん」
「嘘」
嘘ですけど。
「嘘じゃないよ。母さんの妹の娘さんで、いま高二。昨日から遊びに来てるんだ」
「未来ちゃんに聞いたよ。こーたろーくん、だっけ?」
やっぱりそれか。
「なにそれ?」
「昨日あの子が永友くんのことそう呼んでたみたいじゃない。何回も。普通はいとこの名前って、間違えないよね」
「あー……、なんか昔からそう呼ばれてるんだよ。実名に似たニックネームっていうか」
「でもさっきはちゃんと虎太郎くん、って呼んでたよね」
「いやだってさ、未来たちの前でこーたろーって呼ばれんの恥ずかしかったからさ、昨日の夜に『もうこーたろーって呼ぶのやめれ』って注意したんだよ。お前は脩平かっつって。はは」
「ふーーーーーん」
晴香ちゃんはネイルが光る右の指先でステアリングをそっと撫でて、それから左手で髪を耳にかけた。こんなときになんだけど、一個一個の仕草がすげーきれい。
「あの子、ずーっと本めくってたけど、何やってるの?」
「―――タバコ吸っていい?」
「我慢して」
晴香ちゃんは厳格な口ぶりで言う。
「ちゃんと質問に答えてね」
「本の状態チェック」
ああ、意味がわからん。
「状態チェック?」
「本をさ、処分するんだね、今度。で、その前にページが破れてないかとかのチェックをちょっとずつやってるんだけど、茉莉子にはその手伝いをしてもらってるんだ。手伝いっていうか、どっちかっつーとアルバイト」
「へー、あの子バイトしに来てるんだ」
「そうそう」
「じゃあ最初からそう言えばいいじゃない」
「あー、まあね」
「いくら払うの?」
「日給一万円」
「結構出すのね」
「まあ、いとこだし。お年玉みたいな」
作り笑いのしすぎでほっぺたつりそうです。
「あの子、どこから来たの?」
「え?」
「泊まりで来るってことは、この辺じゃないんでしょ?」
晴香ちゃんのくちびるがしゅるると魔的に吊りあがった。
さて、困ったよこれ。茉莉子が昨日言ってた住所は泊まりがけで来るにはちょっと不自然な距離だ。だから俺が寝ている間に晴香ちゃんが茉莉子に同じ質問をしていたとすると、茉莉子は晴香ちゃんに嘘の住所を言っている可能性が高い。ということは俺ピンチ。
「どこなの?」
赤信号でクーパーをやさしく停車させ、晴香ちゃんは勝利を確信したような笑みを浮かべて俺を見た。
どこだ?どこって言った茉莉子?考えろ。たぶんなんかわかりやすい、俺にもわかる取っ掛かりがあるはずだ。えーっと、茉莉子。大宮茉莉子。
「埼玉」
汗が一滴、頬を伝う。
「……合ってるか」
晴香ちゃんは口惜しそうにつぶやいた。なんていうかビバ大宮だ。
「タバコ、吸っていいわよ」
よーしよしよし。どうにか切り抜けられたっぽい。俺は窓を全開にして、タバコをくわえて火をつけた。あー、実に旨い。
晴香ちゃんはどこに行くのか言わなかったし、俺も特に尋ねる気がなかった。ただ、市街地とは逆方向に進んでいたので、今日はあまり金を使う心配はなさそうだなとか思いながら当たり障りのない雑談。一時間くらい走ってたら海に着いた。俺たちは海辺のお洒落なレストランで遅めの昼食を取って(もちろん支払いは俺)、サーファーの群れを眺めながらのんびりと海岸を歩いた。サーフィン。俺が中学と高校のときに二度挑戦して、その醍醐味をまるで理解できないままに終わったスポーツだ。スケボーは結構できたんだけどな。歩きながら、晴香ちゃんはよく笑った。高校時代も最近もどこかおっとりながらもクールでアジアンな美しさと上品さを兼ね備えた彼女だけれど、なんか今日は子どもみたいによく笑った。俺と晴香ちゃんは高校の頃の話をした。でもやっぱり高校時代の俺たちの間には、高一のときに同じクラスだったということ以外の接点を見出せなくて、だからあんまり話は弾まなかった。あの英語の先生がどうだったとか、そんな話しかできなかった。それがわかりきっていたから、いままでそんな話を持ち出したことはなかったのに、どうしてか今日はそういう話がしたくなって、俺から切り出してしまった。理由はだいたいわかってる。茉莉子が高校生で、俺はそれが懐かしくて、きっと、うらやましかったのだ。だから高校一年のときにこんなふうに晴香ちゃんと話せていたら、こんな気持ちで二十歳の晴香ちゃんと海岸を歩くことはなかっただろうなって思う。言うなればセンチメンタリズム。晴香ちゃんはきれいだし、並んで歩いてると自分のランクが上がったみたいな錯覚を覚えるけど、でもそれだけだ。どっちかって言うと、早く帰って本探したい。
五時前に車に戻って、来た道をまっすぐ帰った。話題はとっくに尽き果てて、俺は失礼だとは思いながらも携帯電話をいじりながら重厚な沈黙を散らし続けた。日はだんだんと暮れてきて、それでも晴香ちゃんはサングラスを外そうとしなかった。やっぱり今日は様子がおかしい。もしかするとまだ茉莉子のことを気にしているのかもしれない。でもどうして晴香ちゃんがそんなこと気にする必要があるんだろ?って、俺がスポンサー撤退するとまずいからか。
もうすこしで地元の駅を通過する、というところで晴香ちゃんは無言で車を横道に入れた。その意図はわからなかったけれど、俺たちはもう一時間くらい黙りっぱなしだったから、なんとなく声かけづらくて、俺は何も言わなかった。晴香ちゃんはホテルの駐車場に車を入れた。
「あの、お嬢さん、何してるですか?」
「ちょっと休憩」
晴香ちゃんはようやくサングラスをとって、シートベルトを外しながら俺を見た。地下だから薄暗くて顔が見えにくいけど、なんか笑ってるっぽい。
「もうちょっといいよね?」
結局それかよ。
俺はなんかイラっとして、へらへら笑った。
「今日はいいよ。何も買ってないし」
「え?」
「だから、お返ししてもらうようなことしてないからさ」
「……永友くんの言ってる意味がよくわからないんだけど」
晴香ちゃんは右、左、とメトロノームのように順番に首を傾けた。あー、なんかキレそう。
「ああ、それともそのバッグのお礼は分割なんだ」
俺は窓枠に肘をついて、バックシートのプラダのトートを指差しながら言った。
「ねえ、さっきからなに言ってるの?」
晴香ちゃんはまだ笑ってる。でも笑顔の質は少しずつ変わってきてた。
「金づるは定期的に餌与えないと飛んでっちゃうもんな」
「……そんなんじゃないよ」
「そんなんじゃねーだ?」
晴香ちゃんがビクッと肩を震わしたのがわかったけど、でももう止まらない。
「よく言えるよ。せっかく無視してんのに人ん家まで押しかけてきやがって。ふざけんなよ、なあ!お前俺がバッグとか買ってやんなかったらぜってー俺と寝ようとか思わねーだろ!つかそんでもやらせねーもんな!マジでいい加減にしろよ!今日だって俺は一日中茉莉子の手伝いするつもりだったんだよ。それなのにわざわざ海まで連れまわして何の意味もねーカスみてえな話してさあ、やっと帰れると思ったら今度はホテルだ?やってらんねっつの。今度はなに買わす気だよ?フェラーリか?ああ?この車はどこのエロ親父に買わせたんだよ?」
溢れた感情過剰にぶつけて、明らかに言い過ぎなのはわかってたけど、後で自己嫌悪になるのもわかってたけど、止められなくて、止める気なくて、てかちょっと気持ちよくなってきてて、晴香ちゃんは体こっちに向けたまま、うつむいて鼻すすってた。
「………自分で、買ったもん」
晴香ちゃんは指の背で涙を拭った。
「……いっぱい働いて、お金貯めて、やっと今週納車してもらって……、だから、うれしくって、永友くんとどこか行きたくって……」
「そんなん信じるかっつの。俺も『ひなの』のスポンサーの一人なんだろが」
「違うよ…」
「だったら二十万もするバッグせびんなよ!」
「買ってなんて言ってないよ。いいなって言ったら永友くんが買うよって、私はいいって言ってるのに……」
「じゃあ返せよ。ヤフオク出すから」
晴香ちゃんは泣きながらバックシートにぶるぶる震えてる手を伸ばして、俺が買ったトートバッグを逆さにして中身をばら撒いた。で、それを俺に突きつける。
「……やっぱいらねーよ」
でも晴香ちゃんは俺にバッグをぎゅーって押し付けてくるから、俺はそれを抱えるようにして受け取った。晴香ちゃんは俺を見ながらくしゃくしゃの顔して無理矢理笑った。
「……今日は、ごめんね。本当にごめんなさい。どうしても最初に助手席に乗ってもらうのは、永友くんがよかったの。本当に無理言ってごめんなさい。茉莉子ちゃんにも謝っておいてね………」
二人きりでいるときに女に泣かれて冷たくできるような男には赤い血が通っていないと思う。きっと俺の血は紫だ。俺は空っぽのバッグを持って助手席を降りて、タバコを吸いながら歩いて帰った。