14 店長のばか!
言っても海で潮風に当たったし砂まみれになったし、体がべたついて気持ち悪いから風呂沸かした。なんだかんだで茉莉子も入った。最初に俺、次に茉莉子。茉莉子は最初の日よりは長風呂だったけど、それでも十分くらいで髪の毛から水たらしながら出てきて、そのまま本棚の前に戻った。
「茉莉子ー」
「なにー?」
「ちゃんとお湯抜いてきたかー?」
「抜いたよー」
こういう会話も本当にスムーズだ。なんだろう。会ってからまだ三日しか、たった三日しか経っていないのに、茉莉子はすでに俺の生活の巨大なワンピースとしてバッチリはまり込んでいるみたいだ。本が見つかろうが見つかるまいが、明日の今頃にはきっと俺は一人で、一人でスーパーの弁当食って、一人で一番風呂に入って、一人でお湯抜いて、本を探すこともなく、部屋でタバコ吸いながらクローズの続きでも読んで眠るんだろうなって思ったら絶望的な悲しみが込み上げてきた。俺は気づかれないように後ろを向いて、タオル被ってる茉莉子を見て、いなくならないでほしいなって、そう思った。こういう感情は抱いたことがなかった。恋とか愛とかそういう次元じゃない気がする。茉莉子は母さんみたいに優しくて、妹みたいにかわいくもある。家族だ。茉莉子に家族になってほしいんだ、俺は。母さんが死んで、じいさんが死んで、親父が死んだ。そして茉莉子もいなくなって、俺はまた一人に戻る。茉莉子が帰った後、俺は孤独に耐えられるのか。孤独死すんじゃねえか。考えないようにしてたけど、どうやら俺はこの家の中に俺しかいないということがたまらなく淋しかったらしい。いっそ本を処分するのをやめにしようか。そうすればたとえ明日までに見つからなくても、来週末にはまた茉莉子がうちに来てくれるかもしれない。その次の週にはたぶん夏休みに入るだろうから、そしたらもっとまともな時間に海に行ったりもできるかもしれない。でも父親が見つかったら、茉莉子はもう俺に会いになんか来てくれないかもしれない。来ないだろうなって、思う。そしたら茉莉子は父親と暮らすのかな。茉莉子の父親にも家庭があるかもしれないし、どういう状況かはまだわからない。でも、まともな、立派な父親だったら、娘と暮らそうとするんじゃないか。ましてや茉莉子だ。こんなにできた娘はなかなかいない。茉莉子と新しい生活を始める茉莉子の父親のことを考えてたら、なんかすげー悔しくなった。嫉妬だ、嫉妬。俺はまだ見ぬ茉莉子の父親に嫉妬すら覚え始めている。ったく、マジでどうかしてるよ。茉莉子のためを思えばきっとそれが一番いいのに、茉莉子が別の家族を持つことを認めたくない俺がいる。いや、別の家族って茉莉子は俺の家族でもなんでもないんだけどさ、でもそばにいてほしいんだよ。いっそのこと、「好きだから一緒にいてくれ」とか言ってみるか。いまなら、「いいよ」な気がするし。でもそういう感じじゃないんだよな。そんなこと死んでも言えないけどさ。だから、俺は心のどっかでこのまま茉莉子の父親がみつからなければいいなって思ったりしてる。どうせならこのまま、もう朝が来なくてもいいんだ。このままずっと、背中越しに、「茉莉子」って名前を呼んでいたい。俺はもうそれだけでいいんだよ。とか考えながらも時計は回り、最後に見たときは五時半。いつの間にか俺はへたり込んでて、寝てた。
バタン!バタン!バタン!
開かないまぶたを擦りながら壁時計に目をやると、十時半。意外と冷たくて気持ちがいいタイルの床から頬を引き剥がす。この状況で五時間はどう考えても寝すぎだな。茉莉子に怒られそうで、なかなか顔が上げられない。てか、この『バタン!バタン!バタン!』てなに?視界の上隅に開かれたまま乱雑に折り重なってるハードカバーが入ってるんすけど。何かが飛んできて俺の真横の本棚にぶち当たった。何かっていうか本だけどさ。何やってんだあいつ。
「茉莉子!」
俺は跳ね起きて本棚の裏側にいる茉莉子に駆け寄った。茉莉子は本の山の中にいた。ページをパラパラマンガでも見るみたいにざーっとめくって肩越しに放り投げている。泣きながら。てか号泣しながら。俺は茉莉子の細い手首を掴んだ。
「お前何してんだよ?」
「放してよ!」
茉莉子は腕を上下に激しく振って、俺の手を振り解こうとする。俺は握る力を強めて押さえつけ、もう片方の手で茉莉子の肩を掴んだ。茉莉子は赤い目で俺を睨み上げ、はぁはぁと息を切らしている。
「……痛いから」
小さな声でささやくように言われて、速やかに手を放す俺。自由を取り戻した茉莉子はまた本棚に手を掛けて、今度はろくに中も見ずに投げ始めた。
「やめろよ!全然見落としてんぞ?」
「だってみつからないんだもん!」
茉莉子は叫びながら本を撒き散らす。
「もう時間ないのに、店長寝ちゃうし!」
「だったら起こせよ!」
「起こせるわけないじゃない!」
「いまさら気ぃ使うなっつの!つかそんな気使えるなら散らかしてんじゃねえよ」
「もうすぐ業者さん来るんでしょ?」
「来るよ。たぶん昼からだよ」
「でも時間ない!みつからない!」
「だからってこんなことしてても見つかるわけないだろ?」
「でもどうしたらいいの?本売られちゃったらもうお父さんにたどりつけないよ!」
「じゃあ売らねえよ!本売るのやめるから落ち着けよ!」
「でも店長にこれ以上迷惑かけられないよ!」
「だからいまさら気ぃ使うなって言ってんだろが!」
「使うよ!店長関係ないのに一生懸命手伝ってくれて、私もう罪悪感でいっぱいなんだよ!」
「っだから関係ねーとか言ってんじゃねえよこら!」
パシーン!って。あれ?うわやっべ。殴っちまった。やーべーやーべー、茉莉子ちゃん、ほっぺた押さえてうつむいて。すげー泣かれそうだし。てか殴んなよ俺。寝起きでテンション上がりすぎだって。ほら、そんな涙ぽろぽろの目で睨まれたらさ、心臓チクチクするんだわ。
「茉莉子ごめん茉莉子」
茉莉子は一番下の棚からでっかい画集をひきずり出して両手で振り上げ、俺の頭に叩きつけた。
「店長のばか!」
いや、ばかってさ。でも頭押さえてる俺と、ほっぺた押さえてる茉莉子の真ん中を何かがひらひら舞って、花びらみたいに本の上に落ちた。俺の頭から出てきたのかと思ったけど、そんなはずはなく、茉莉子が振り下ろしたルノワールの画集から飛び出したそれは、サービス判の写真だった。若くてきれいな女性と、一言では言い表せない風貌の男が、ぴったり寄り添って写ってる。茉莉子はゆっくりと膝を落とし、金魚すくうみたいに慎重な手つきで、そっと写真を拾い上げた。
「……店長」
茉莉子は写真を見つめながら、かすれた声で言う。
「……これ、お母さん」