12・鍵盤ハーモニカ
雪乃の写真の前に飾られたカーネーションは、なかなかしぶとく咲き続けていて、いつしかしとしとと湿気を帯びる季節へと移り変わり始めていた。
まだ梅雨入りしたとは言っていないが、夕介はもう天気予報を信じない。だが朝の時点で晴れているのに傘を持っていくほど用心深くはないので、そんなときは大抵、駅までひなたと陽太が迎えに来るようになった。
新しい傘が気に入ったので、使い倒したいのだろうと思うことにしている。
自宅は駅からほど近いが、二人してわざわざ雨の中やって来るなんてと、夕介は毎回感心していた。
この日は一緒にぬれながら帰ってきていた岡が、ひなたと陽太を目にすると、にやにやとしながらからかい口調で言った。
「いい奥さんですね」
「……雨が好きなんだろ」
「そんな、カエルじゃあるまいし」
カエルでなくとも、雨降りが好きな人間だっているだろう。
夕介を見つけた陽太が、パパ! と手を振りながら駆け出そうとするのを、ひなたが血相を変えて引き止めた。前回の経験を踏まえ、手を握りながら慎重に靴の底を地面につけてこちらまで歩いてくる。
あの転倒がそれほど深く心に傷を残したのだろうか。
そうしてやってきた陽太だが、パパと呼んでいたくせに、真っ先に飛びついたのは岡の足だった。
「だいき、おかしかって!」
陽太はよく人を見ているので、岡にお菓子をねだるという最善の選択をした。三人の大人の中で、誰が一番甘えれば利益があるのか瞬時に見極めたのだ。
結果その判断は正しく、
「お菓子くらいならいいけど」
岡は駅構内にあった駄菓子屋へと、ぐいぐい引っ張られていった。
一度文句がありそうな顔が振り返ったが、夕介は気がつかなかった風を装い目を逸らす。
そんな二人を目で追いながら突っ立っていたひなたの持っていた傘の先から、ぴちょんと滴が落ちるのを視界の端に止め、一応言っておくことにした。
「わざわざ雨の中来なくてもいいんだぞ」
左に頭を傾がせてから軽く頷いたが、どうせまた来るのだろう。
話が途切れるのを嫌ったのか、ひなたは陽太のことを話し始めた。
「陽太くん、今日は鍵盤ハーモニカの練習をしたようです」
「陽太は確か、その他のものは苦手だったな」
母親に似て大雑把な性格なので仕方ない。千香に自宅で練習するよう再三命じられたが、戸倉家において一音も鳴ることはなかった。
「家で練習するよう、千香先生に言われました」
「ちょうちょやキラキラ星が弾けるようになったところで、将来なんの役にも立たない」
「……練習するという過程に意味があるんじゃないですか? 跡はできたときの、達成感とか……」
ぐうの音も出ず、夕介は渋面のまま、ちょうどお菓子を買って戻ってきた二人へと目を移した。
レジ袋を手に下げて、陽太は幸せそうに歩いて来る。こまごまとした駄菓子を、いくつか買ってもらったようで、「ひぃちゃんにもひとつあげるね」と、おすそ分けする意思を見せた。
ひなたは屈んで、ありがとうと微笑む。
マカロンやパウンドケーキみたいな洒落た焼き菓子が好きそうな雰囲気なのに、意外とスナック菓子や着色料や添加物のえぐいお菓子なんかも好きらしく、普段から陽太のをもらっては嬉しそうに食べている。
「じゃあ、俺はこれで。陽太じゃあな」
「だいき、ありがとう! ばいばーい」
岡は手を振る陽太に手を振り返し、さりげなくひなたにも振って寄越した。
ひなたは顔の横で小さく手を振り、しみじみとした呟きをもらした。
「いい人ですね」
岡は軽薄だがモテるタイプなので、ひなたも好意を抱いているのかもしれない。
ふいに訪れた息苦しさに、苦笑をこぼせず顔をしかめた。
この嘘のせいで、自由にしてやることが出来ない。
好きでもない男とその子供に縛られ、ひなたは――。
「今日の夕飯はカレーライスとサラダです」
「レタスはぼくがやったんだよ!」
笑顔の二人の後に続き、夕介は傘を広げて、罪悪感を覆い隠した。
「ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷらんらんらーん!」
食後のご機嫌な陽太が、スプーンでカレー皿を楽器のように叩く。マナーうんぬんについて夕介が叱ることはなく、ひなたに至っては笑顔で拍手をしている。
だめな親にならるなと、自分のことを棚に上げて夕介は呆れながらカレーのおかわりをしていると、
「陽太くん上手上手! じゃあ次は鍵盤ハーモニカでもやってみようか?」
うまいこと言いくるめて鍵盤ハーモニカの練習に絡める気のようだ。
「あれはむずかしいから、できないよ?」
いくらひなたが気分を乗せようとしても、陽太自身が出来ないからと、はなから諦めてしまっているのでどうしようもない。
「ちょっと待っててね」
それでも鍵盤ハーモニカを取りに行ったひなたの背中を眺めて、陽太がぽつりと呟いた。
「ひぃちゃん、おこられてたからかなぁ?」
「うん?」
「チカせんせいが、おこってた」
千香はいつも怒っているではないか、と口を滑らしかけたが、陽太経由で本人に伝わることを恐れて夕介は固く口をつぐんだ。
しかし、千香に怒られるひなたの姿は容易に想像がつく。
そうこうする内に鍵盤ハーモニカを抱えて戻ってきたひなたは、食卓テーブルの前に立つと、なぜか丁寧に一礼した。
何をする気だと訝っていると、
「陽太くん、お好きなお歌は何ですか?」
まるで子供番組の歌のお姉さんのように、マイクも持っていない手を、陽太へと向けた。
陽太が目を輝かせて、アニメ映画のキャラクター名を挙手して答える。
「じゃあ陽太くん、聴いててね」
にっこりとしたひなたは立奏用の吹き口をくわえると、右手でメロディーラインを弾き始めた。しかも前奏からという、手の込みようだ。
陽太は曲に合わせて歌い出し、見学する夕介はちょっとしたお遊戯会を観ている気分だった。
嬉々として一番を歌い終えると、陽太はひなたへと惜しみない拍手と羨望の眼差しを贈った。
「すごーい! ひぃちゃん、チカせんせいみたい!」
それが褒め言葉なのか、疑わしいものだ。
「ありがとう。陽太くんも、弾けるようになったら楽しいよ?」
陽太はこの高揚感に流されているのか、曖昧に頷く。もしかしたら出来ないからと、俯いたのかもしれない。
「無理にやる必要ないぞ」
音楽は無理やり押しつけても楽しくはないだろう。
陽太はちらっと夕介を仰いで首を傾げた。
「パパはできる?」
「できなくはない、というか……」
大昔すぎて記憶がない。が、音楽は得意ではなかった。
だが子供相手に見栄を張ってしまった。しかし、パパやってと頼まれたら困るのは夕介自身だ。
すかさず言い訳じみた言葉を続ける。
「鍵盤ハーモニカは卒業した。小学校ではリコーダーをやる。だから、つまりそういうことだ」
内心しどろもどろになりながらも、何とか論点をずらすことに成功し、陽太は未知の楽器の名称に、興味深そうな顔でひなたへと問いかけた。
「りこーだーって?」
ひなたは、たて笛を吹く仕草をする。
「細長い、笛……みたいなものだよ」
ざっくりとした説明に、陽太はわかったのかわかっていないのか、とりあえず、うんと頷いていた。
「陽太くんがやりたくないなら、やめようか?」
ひなたが肩を落として情けない表情で笑って鍵盤ハーモニカを置きに行こうとすると、陽太がためらいがちにその袖口を握りしめた。
「ちょっとだけなら、やってもいいよ?」
陽太がおずおず見上げたひなたは、ぱっと表情を明るくした。
「いいの? じゃあ、あっちで練習しようか?」
そうして陽太はひなたと手を繋いで、子供部屋の洋室へと消えていった。
しばらくすると、綺麗な形の星といびつな形の星が、交互にキッチンまで流れてきた。
ひなたが片付けを後回しにしたので、夕介は久しぶりに皿を洗う。気づけばもう、流水が心地よい時期だ。
雨粒とキラキラ光る星が、音を奏でては、溶けて日常に染み込んでいく。
夕介はスポンジを泡立て、たどたどしい旋律のキラキラ星を、ハミングした。




