13・お墓参り
ついに天気予報が梅雨入りを宣言したその日は、くしくも雪野の命日だった。
降りしきる雨の中仕事を終えてから墓参りに行くのは億劫になるだろうと、夕介は朝一時間だけ早くアラームをセットしておいた。
そしてこの日ばかりは、心の中でどんな言い訳をもすることなく、すんなりと目を覚ました。隣ではまだ陽太がすやすやと眠っている。
夕介は布団を畳んで起き上がると、まずキッチンへと向かった。そこからでないと洗面所に行けないからだ。
普段しつこく惰眠を貪欲に貪る夕介が一時間も早く起きてきたことに、早くから朝食の支度を始めていたひなたが、ぎょっとした顔で二度見する。
それほどなのか。まるで幽霊でも見たような顔だ。
肩をすくめた夕介は。先に身支度を整えることにした。顔を洗って服を着替え、いよいよすることがなくなったところで、食卓にかけてしばしたたずむ。
それからようやく、重たい口を開いた。
「命日だから、陽太と墓参りに行ってくる」
誰の、とは言わなかった。それでも伝わったらしい。
「……お花とか、線香とかは」
「それはまあ、もっと天気のいい休日とかに」
この雨の中では、ロウソクの火もすぐに消えてしまうだろう。線香も出した瞬間湿気ってしまう。
ひなたもそう思ったのか、それ以上なにも言うことなく作業へと戻って行った。その後ろ姿はすっかりとこの家のキッチンに馴染んでしまっている。
雪乃の命日だというのに、家のいたるところから彼女の気配が薄れていくようだった。
申し訳ないと思ったのは、どちらな対してなのだろうか。夕介はぼんやりとそんなことを考えながら、地面を打つ雨の音に耳を澄ました。
雨がバラバラと打ちつける墓石はしとどにぬれて、冷たい色をしていた。
「パパ。ママ、ここにねてるんでしょう?」
「そうだ」
「なんで?」
陽太は毎回、同じことを訊く。夕介は一つだけため息を落としてから、しゃがんで目線を合わせて言った。
「病気で。――手を合わせて、目をつぶって、何か話したら、寝てても聞こえるかもしれないぞ」
夕介は陽太の傘を持ってやり、お参りする間ぬれてしまわないように、その小さな身体へとまっすぐさした。
陽太は素直に両手を合わせると、心の会話を口からだだもれにして話し出した。
「パパはあさちゃんとおきなくて、おやすみの日もだらだらしてるよ」
そんな報告はいらない。天国で雪乃に会った時に、バカにされて笑われてしまうだろう。
天国に行けるかどうかは、また別の話ではあるが。
「けんばんハーモニカ、ふけるようになったよ」
ここのところ毎日練習していたかいもあり、陽太は保育園で褒められたという。
ここは誇らしげな口調だった。
しかし次の言葉で、声のトーンが落ちた。
「ママはママだけど、ひぃちゃんもママじゃ、だめですか?」
夕介は虚を突かれ、目を見開いて陽太を見つめた。頭に何も考えがおよばない。
それでもどうにか口にできたのは、雨に打ち消されてしまいそうな掠れ声だった。
「……ママ、何だって?」
陽太は夕介の手からさっと自分の傘をもぎ取ると、
「ないしょ」
笑顔でそう言い、傘で顔を隠した。
その笑顔が、仕草が、雪乃にあまりにもそっくりで、瞳が揺らいだ。
その日から、陽太が時折、ひなたのことをママと呼ぶようになった。
どろりとした闇がひたひたと足元に広がっていく。逃げないといけないのに、足が動かない。
――嘘つき。
誰かの声がした。
雪乃だろうか。それとも、ひなたか。陽太かもしれない。
もしかしたら全員だったのだろうか。
嘘つき。嘘つき。
責められる自覚がある。夕介は嘘をついた。陽太と自分を守るためだけの嘘を。
認めると足の下から闇が現れる。このまま地獄へ落ちるのだろうか。
天国に行けなかったな、と、雪乃ともう会えないことに嘆息をもらしたところで、夕介ははっと目を覚ました。
見上げた先は毎日見ている慣れ親しんだ天井。もちろん足元に闇もない。当たり前だ。全部、夢なのだから。
布団はしっとりと湿っていて、全身に汗をかいていた。このところ、眠っていてもまるで疲れが取れない。夢見が悪いせいだ。
夕介は、ぼぅっとする頭のまま上半身を起こして、布団の上にあぐらをかいていると、そばから控え目な声をかけられた。
「怖い夢でも、見ましたか?」
なぜわかったのだろうか。
すやすや眠る陽太の向こうで、ひなたが目をこすりながら身体を起こす。
わざわざ起きなくてもよかったのにと思いつつ、夕介は正直に「そうだな」と、どこか他人事のように答えた。
汗で気持ちの悪いパジャマを着替えるために一度シャワーを浴びに立つ。戻って来たときにはまだ、ひなたは目だけ起きていた。
木目でも数えて眠気を誘っていたのだろう、ぼんやりと天井を眺めている。
目が合うと微苦笑した彼女と、特に言葉を交わすことなく夕介は布団に入った。しかし横たわって目を閉じようと一向に眠気は訪れる気配がない。
「眠れませんか?」
「そっちもだろう」
ひなたは夕介の方に顔を向けることなく、相変わらず天井を見つめている。
「……少し、怖い夢を見て」
怖い夢を見たのかと聞いてきてのは、ひなた自身がそうだったかららしい。
ふうん、とあいづちを打ち、夕介は特に考えなしに問いかけた。
「こっちに来るか?」
口にしてから、その言葉に含まれる意味に気づき、慌てて続ける。
「いや、そういう意味じゃなくて……」
陽太が怖い夢を見たときはいつも夕介の布団に入ってくるので、ついいつものように言ってしまったのだ。下心は一切なかった。誓ってもいい。
夕介が口ごもっていると、ひなたが小さく、笑ったような、ため息のような声をこぼして、そちらを向く。彼女はごくかすかな声音で、こう言った。
「夫婦だったら、問題ないのに」
それはどういう意味の言葉なのだろうか。
夕介が考えあぐねている間にひなたはあっさりと寝てしまったらしく、呼びかけてももう答えることはなかった。
「……寝たか」
ほっとしたような、残念のような気分まま、夕介は目を閉じる。怖い夢を見ないように、もこもこのアルパカを数えている内に、次第に意識を手放していった。




