二話 絶望、希望、絶望、そして
「――ほう、勇者……勇者か」
虚しく溶けるはずであったその誰かの一言を拾ったのは、魔王エスティラその人。
エリザから視線を外し、その紅の瞳は、床に描かれた紋様を見ている。
「……勇者、様」
エリザの口から、囁くような声が漏れる。
勇者の伝承に関しては、エリザも先代の王である父から直接話を聞いたことがあった。
謁見の間であるこの部屋の床に描かれた紋様が、まさに勇者召喚のための魔法陣であるというのを知ったのも、その時だ。
伝承は嘘ではないだろう、と先代の王としての父は言った。だが、異なる世界の者を無理に連れてくるのはどうか、と父としての先代の王は言った。
エリザも、それに同意しつつ――しかし、心の底では憧れていた。伝承に語られる、かつて魔王を打ち倒し、世界を救った勇者という存在に。
大国などは、伝承はさておき、異なる世界の者など我が国の勇士に比べればあてにならん、と鼻で哂った。
しかし、そんな国ほど、新たな魔王エスティラ出現の脅威を目にして、あっさりと勇者召喚に走ったものである。
そんなことを考えていたから――いや、考えずともであったろうが、エリザは、
「よかろう。ならば、召喚してみせよ」
「……今、何と?」
魔王のその言を、思わず聞き返していた。
「機会を与えてやろう、と言ったのだ。仮に、我の興味を引く勇者が呼ばれたなら、何もせずに退こうではないか」
「……しかし」
メーディスにとっては、希望とも言えるものをちらつかせる魔王。
それは確かに、絶望の奈落に差し込んだ、一片の光。
だが、エリザは動かない。いや、動けない。
「どうした? 我が折角機会を……ああ、そうか。確か、勇者召喚には魔法陣だけでなく、いくらかの魔力も必要であったか」
そう、魔王が口にした言葉が、答え。
もっとも、仮にそれがあったとして、エリザは是としなかっただろうが。
結局は、何も変わらない。変わらないのだ。
「ならば、我が協力してやろう」
だからこそ、エリザはその一言に耳を疑った。
驚きを隠さず、目を見開いて魔王エスティラを見やる。
そんな彼女の視線を意に介さず、エスティラは床に描かれた紋様を観察しており。やがて、コツコツ、と足で叩いた。
「ふむ、どうやらある程度の魔力は注がれているようだな」
「……魔力が注がれている?」
その言葉に、またしてもエリザは驚く。
なにせ彼女は、女王としてその様な指示を出していない。
――では、誰が?
「ならばどれ、これで……」
そんなエリザの困惑を待ってくれず、事態は動く。
一つ、納得したように頷いたエスティラが、床の紋様に手を翳せば。
いっそ無慈悲なまでに大きく、そして恐ろしい漆黒の波動が放たれ、紋様に注ぎ込まれていく。
そこらに転がる石ころならもちろんのこと、人体や強固な鎧であっても耐えきれず崩壊するであろうその暴虐的な魔力。
大地が、城が、大気が震え、己が立つ地面など今にも崩れてしまいそう。
しかし紋様の描かれた床は崩壊するどころか、次々と魔王の魔力を吸い込み。そして自らの存在を主張するかのように、淡い光を放ち始めた。
「っ! だ、だめっ……」
茫然とそれを見るだけであったエリザは、暫くしてようやく我に返り、慌てて否定の声を上げた。
この時、エリザは確かに、魔王エスティラの行為を止めようと、口を開いた。確かに喚ぶための魔力が不足していたのは事実だが、無関係な異なる世界の者を無理矢理連れてくることに賛同しかねていたからである。
だが、同時に、心の奥底で思ってしまった。
――どうか、応えてくれるのなら。
――この国を……メーディスを、護ってください。
「……っ!」
淡かったはずの光は、しかしてすぐさま眩しい極大の閃光へと変わり。
エリザは思わず目を瞑ってしまう。
静寂。
まるで先程の空間の震えが嘘であったかのように、一転。
瞼の裏をも照らすような光の奔流が止んだのに気付き、エリザは恐る恐る両眼を見開く。
人影が、あった。
しかし……一つである。
もし、喚ぶことに成功していたのなら。紋様のすぐ傍らで魔力を注ぎ込んでいた魔王エスティラを加え、人影は二つでなくてはならない。
だが……一つであった。
――応えて、くれませんでしたか。
消沈しなかった、といえば嘘になる。
賛同しないとしておきながら、縋ってしまった。駄目と口にしながらも、祈ってしまった。
相反した、二つの願い。
――それでは、我先にと勇者を喚んだ他国と全く変わらないではないか。
だから、これでよかったのだ。
そうエリザは自身に言い聞かせつつ。しかしその頬を伝う、一滴の涙。
刹那。
「ふむ、成功したか」
魔王エスティラの、嗜虐を含んだ声。
だがそれは、正面に位置する、紋様のあたりから発せられたものではなく。紋様から少し距離をとった上空に、魔王が滞空していて。
その事実に気付いたエリザは、流れる涙を拭うことを忘れ、凝視した。
――では、あの人影は?
もしや、とエリザの瞳が無意識の内に、光を帯びる。
だが、涙で滲んだ眼が正体不明の人影の姿を鮮明に捉える、その間際に。エリザの脳裏に雷光の如き閃光が、走った。
いや、そもそも何故、魔王エスティラは紋様から離れて――。
「……ならば、死ねぃっ、勇者!!」
エリザがその結論に至ったと同時に。
床の紋様に、その上に立つ人影に降り注ぐ、禍々しい複数の魔力。
漆黒の凶弾は次々と床に着弾し、人影に何かをさせる間もなく炸裂した。
爆風が弾け、風塵が舞う。
「な、なんて……ことを」
その凶行を目の当たりにしたエリザは呆然とし、項垂れる。
元々、魔王はその気であったのだ。僅かでも希望を与えたのは、すぐに絶望へと叩き落すため。
召喚と同時に有無を言わさず、それこそ見極める必要もないと、圧倒的な魔力で殺す。
いかに伝説に記されし勇者とて、突然異なる場所に連れてこられ、敵のろくな目視も叶わないまま備えなしにその身に魔王の攻撃を受けては、どうしようもできないだろう。
いくら謝罪したところで、届かない。深くしたところで、今後忘れることなく胸に抱いたところで。それは絶対に届くことはない。
それでも、ごめんなさいと。見も知らぬ応えてくれた勇者へ、エリザは心から思う。
「ククク……もはや、肉片すら残っておるまい」
響く、魔王エスティラの冷笑。
あの膨大な魔力を何発も打ち込んだのだ。言葉通り、人の身など灰も残らず消し飛んでしまうであろう。
それはエリザも、事の成り行きを倒れ伏しながら力なく見守っていた城の者達も、否定できず。
希望は、打ち砕かれた。
再びの絶望が、胸に去来する。
だが、せめて。
この涙だけは魔王に見せてやるものか、となけなしの意思を振り絞ってエリザが裾で顔を拭った、その時であった。
――コツ、コツ、コツ。
未だ晴れぬ、風塵の中。
生者などいるはずもない場所から、特別大きくもないその音は、不思議とよく響き。
まるで足音を思わせる、その物音。
はて、と誰もがつい己の立場を忘れ、動きを止めた。
それは、絶望の中にあったエリザであれ、そして嗜虐な笑みを浮かべていた魔王エスティラであれ、変わらず。
徐々に風塵が薄れゆく中、それが見えたその瞬間。
対極に位置していたはずの両者の表情は同じ色に彩られることとなった。
即ち――驚愕一色に。