七歩目【選分】
試合場へ上がる前に、書文は緊張をほぐす意味を込めて念入りにウォーミングアップを始めた。
開門式から打開までの大八極を二度、三度と繰り返す。重ねる毎に少しずつ力を込めていく。ズシン、ズシンと震脚の音が響いた。全身にうっすらと汗をかき、太股に心地好い疲労がたまる。
体が適度に温まったところで、書文は調息で終わらせた。ふぅ、と長い息を吐く。
「やっぱ迫力あんな、八極拳は」
「叩き付けるような震脚。俺たちの足元まで揺れたようだったぞ」
「あたしの金剛搗礁だって、震脚すごいんだよ?」
「べ、別に震脚の強さを競うつもりはないけど・・・」
そもそも『震脚は余計。あれやってる内は強くならないよ』と言う達人もいる。震脚のタイミングにしても、打つ前、打つと同時、打った後、と解釈は分かれる。書文は震脚と打撃を同時に行うが、それではダメだと言う達人だっている。
「武林、早く試合場に上がれ」
「あ、はい」
教士に催促されて、書文は試合場へ上がった。
「頑張ってこいよ」
冷人たちの応援を背中に浴びて、書文は体に気息を充実させた。
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試合場で書文と向かい合った男は、これまでの誰とも違う雰囲気を持っていた。雰囲気も、服装も、今までの生徒とはまるで違った。
伸ばした金髪。顔に付けたアクセサリー。ズリ下ろしたズボン。踵を潰した上履き。
今まで試合場に上がっていた武術家や格闘家の見習い達とは明らかに違う、素人。
それが、書文の相手だった。
「金的、目潰しは無し。ダウンは10カウント。一本勝負だ」
教士の定型句を聞き三才式を取りつつ、書文は当惑を隠せずにいた。
武校には稀にあるのだ。ケンカがしたいだけの、出来そこないの不良などが入学することが。
これが本当に路上で行われるだけのケンカなら、あるいは彼らもいいところにはいくかもしれない。しかしことはそう単純ではない。
向かい合って始める以上不意打ちはない。多対単で囲むこともない。
人と闘うため、人を殴るために何世代重ねて研究した武術家と、自分一代で客観的な視点もない叩き上げ。それで成功しうるのはよほどの天才神童か、年月をかけて研鑽したものだけだ。
書文の相手は、素人のケンカ屋だった。
「あ? なんすかセンセー、俺はこのヒョロイのと同じ扱い、ってことっスか?」
相手の男、山中太一は、教士に不平を漏らした。しかしそれは書文こそ言いたいことである。
八年間も練功を積んだ自分が、ろくに格好も調えられないただの素人が同格扱い。これは、書文のなけなしのプライドをいたく傷つけた。
体に力が入り、指関節が強張る。
教士に諌められた山中が構えをとった。一見するとボクシングのように見えるが、べた足で、体が開いて、拳はガチガチに握られ、腕はただ縦に縮こまっている。見るも無惨な素人構えだった。
教士が右手を掲げ、振り下ろす。
「始めっ!」
開始の合図があり、先に動いたのは山中だった。せっかく取っていた構えを崩して右手を大きく振りかぶり、ドタドタとやかましく間合いを詰めていく。
「おらぁ〜!!」
気合いというとり最早ただの大声を上げ、山中は書文へ迫っていく。三才式をとっていた書文はそれを小さく横に避けようとして・・・。
「う、うわわっ!?」
足をもつれさせ、ろくに受け身も取れずにずっこけた。
スリップということで教士が間に入り山中に距離を開けさせる。不服そうな山中と、一方書文は、半ば愕然としていた。
まさか、転ぶなんて・・・。
三才式を基本の構えにしている書文は、当然そこからの歩法も幾度となく反復した。梱鎖歩、三才歩、反三才歩。それを、たったの一回で失敗するなんて、やはり緊張してるのだろうか。
書文も立ち上がり、初期の立ち位置に戻る。
「改めて、始めっ!」
教士の仕切り直しを聞き、今度は書文から前に出た。前足の左を滑るように運びだし、体を沈み込ませる。一度足を止めて素早く右足を寄せ、左足で跳ねて頂心肘(肘打ち)。
「はっ!」
ドシン! と床を大きく踏み鳴らして打たれた裸門頂肘は、しかしあっさりと躱された。距離が空きすぎていたのだ。
「おらぁっ!」
大きいだけの声を肺から絞りながら、山中は肩が先行し過ぎた大きすぎるフックを繰り出した。
頂心肘の残心から右手で内に払い、払った反動で逆に捻り右拳で山中の腹を打つ。
「はっ!」
今度は、当たった。
「う、ごぇっ」
我流の素人にありがちなことに、山中も防御はひどいものだった。おそらくは、ただの腹筋だけで鍛えたつもりになっていたのだろう。書文の拳はあっさりと柔らかい腹肉にめり込み、その中の内臓の様子すら想起させた。
「が、はっ、ごほっごほっ・・・!」
腹を抑えて苦しげに喘ぐ山中に、しかし書文は追撃をかけられずにいた。
殴った姿勢のまま、残心でもなく呆然とした様子で拳を見詰めている。
人を殴った。
その実感が己の拳に生々しく残っている。
砂とは違う。木とも違う。肉を打つ感触。その感触が指の間に絡み付くように蟠る。
生まれて初めて人を殴った人体は、温かく、柔らかく、そして気持ち悪かった。
「かふっ・・・、てめぇ・・・!」
山中が口を拭い、怒りに満ちた目で書文をねめつける。肉の感触にわずか萎縮していた書文は拳を振り抜くことができていなかった。加えて人を殴ることへの精神的抵抗。その分威力が激減していたのだ。
山中の回復は、早かった。アドレナリンが沈痛したのかもしれない。
「うおらぁぁああっ!!」
「っ!?」
もう一度、今度はすぐ近くで発せられた大声、怒声に、書文はビクリと体を硬直させた。人を殴って呆然とした心に、急な怒声は抜群の拘束力を発揮した。
まずい、と思ったころにはもう遅い。山中は体を捩るようなオーバーアクションで大振りのフックを繰り出し、それは書文の左頬を激しく打ち抜いた。
倒れるまではしなくとも、三歩四歩とよろめいてしまう。
「こっ・・・ぉああ・・・・」
痛い。
舌を噛んだ。痛い。頬の内側を切った。痛い。
痛い。痛い。痛い。
歯がぐらつく。痛い。顎関節がジャリジャリする。痛い。
視界が明滅する。涙が滲んできた。口の中に血の味が充満する。
生まれて初めて、人に殴られた。
殴られた頬よりも、歯で切った口腔内の傷が痛みとして突き抜ける。足がふらつくのはダメージによるものか恐怖によるものか分からない。
辛うじて三才式をとろうとする気はあるが、自然と肩が上がって上手く構えられなかった。
そこからの試合はひどいものだった。
山中が振りかぶる。書文が硬直する。殴られる。
山中が大声を出す。書文が萎縮する。殴られる。
顔を殴られ、腹を殴られ、膝をついたら蹴られもした。
書文がダウン10カウントをとられるまで、ただ一方的に殴られるだけだった。
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「そこまで! 山中太一、武林書文。二人とも下位から始めなさい」
書文の試合結果。
それはそれは無様な敗北だった。
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