三歩目【経歴】
これで書き溜め全消化です。次回から投稿には少し日数がかかります。
後書きに解説を入れることにしました。
塔手とは有名なアクション映画でも使われた形式の散打で、お互いに容易に手が届く範囲から攻防を始める。そのため問われるのは相手の動きを読む技術と相手より速く動く技術。
つまり塔手は、武術家としての実力を、実にわかりやすく表す方法だと言える。
「・・・それって、挑発してるの?」
書文は小さく笑いながら右半身になり、右の手を開いて顔の高さに上げた。飛鳥も笑顔で応じ、同じく右半身。互いの右手の甲を触れ合わせる。
開始の合図はいらない。どちらか動けばそれが合図になる。
「・・・・・・」
他の生徒も息を殺して二人に見入っていた。それは中国武術への興味か、クラスメイトの実力への興味か。
書文は顎を引いた状態で飛鳥の右腕を凝視している。すぐに動けるようにという準備だろうか、自分の右腕は指先まで緊張していた。
二秒四秒と静止が続く。射殺さんばかりに睨み据える書文に対し、飛鳥は微笑みすら浮かべているように見えた。
やがて書文が攻めに転じようとした。出した右手で拳を作り、飛鳥の顎を打とうとした。
しかしそれよりも早く、書文は一メートルほど吹き飛ばされ、着地も出来ずにゴロゴロと床を転がった。
「いっ・・・・てえぇぇ!」
したたかに打ち付けた腰をさすりつつ、後頭部を押さえて床を転げ回る。さっきは縦回転、今度は横回転。
飛鳥は書文の醜態を見ても特になにをするでなく、口をポカンと空けて呆けているようだった。
燃児が書文を助け起こし、冷人は興奮した様子で飛鳥に尋ねた。
「すげえじゃん飛鳥! なに、今なにやったの?」
冷人同様、周りで見ていた生徒にも何が起こったのかわからなかった。人なんて殴ってもそうそう跳ぶものではないし、まして両足が地面から浮くほど殴り飛ばすなんて尋常ではない。
明るい少女にしか見えない植芝飛鳥は、実は異常な怪力の持ち主だったのか? そんな視線が飛鳥に集中していく。
当の飛鳥は目を真ん丸に空けたまま、
「いや、あたしが何したっていうか・・・・・、拍皮球?」
と自分の手をマジマジと観察している。今起こったことが信じられない、とでも言いたげな仕種だが、信じられないのは書文の方だ。なにか衝撃を感じたわけでもないのに跳ばされていた。何が起こったのか、何をされたのか、書文には想像もついていない。
「書文くんってもしかして、素人・・・?」
●
書文が飛鳥に吹き飛ばされた直後、教室に馬場教士がやって来た。なにやら大きな箱を抱えている。
「ここに人数分のグローブと肘・膝のサポーターが入ってる。付ける付けないは任せるが、まあ付けたがらない奴は少ないと思う」
馬場の言葉に数人の生徒が笑った。何がおかしいのか、例によって書文にはわからない。
馬場はその箱のサポーターはひとりひとりに配った。これはあくまで暫定的なもので、のちに各員のサイズにあったものを支給してくれるという。
「では各自それを着けて体育館に移動」
馬場はそれだけ行ってさっさと教室を後にした。
体育館に移動しながら、書文は飛鳥たちに自分のことを話していた。武術歴八年は嘘ではないと。この学校に来たわけを。特に大きな志があるわけではないと。
「僕に八極拳を教えてくれたのは父さんだったんだけど、僕が基礎を覚える頃に病気で死んじゃって・・・・、それからは遺品代わりにって八年間ずっと基礎だけを続けてきたんだ。対人なんて素人も素人、人と向かい合って構えたのなんて初めてだよ」
「八年、基礎だけ・・・・」
「はぁぁ・・・」
冷人も燃児も飛鳥も、奇特とも言える書文の武歴に驚きを隠せないでいた。
八年間基礎と基本だけをやり続ける。
八年間同じことをやり続ける。
それをリアルに想像出来ない。
「この学校に入ったのだって、武術経験者は学費が安くなるからなんだ。母子家庭だからね、できるだけ負担をかけたくないんだよ。実家からは離れたけど、寮もあるっていうし」
実際の家計はそこまで切迫していない。書文の学費を払って生活する分を書文の母は稼いでいるし、特別金がかかる事情もない。それでも、母親に極力無理をして欲しくないという、書文なりの親孝行だった。
「だから僕には、冷人や燃児みたいな目標ってないんだ。気を悪くしたらゴメンね・・・」
自分の夢、目標を応援し合う冷人と燃児。中国武術家に会えたとはしゃいだ飛鳥。彼等と自分とを比べ、書文はバツが悪くなって顔を背けた。
なんとなく、自分が彼等をけなしてしまったような気がしたのだ。
重い表情の書文に、冷人は至極軽い調子で言った。
「別に悪事を働いたわけで無し、謝らなくていいんじゃね?」
と。
慰める意図のない慰めの言葉に、飛鳥や燃児も続く。
「どんな理由ではじめても、どんな理由で続けても、武術は武術だよ。武に貴賎なし。武林是一家!」
「形こそ珍しいが、それは紛れも無く武に依った人助け。ならば咎められる謂れもあるまい」
武術がやりたくて武術をしている彼等に比べて、自分は不純なのではないか。勝手にそう思い込んでいた書文には、三人の言葉は深く染み入った。
思えば今日会ったばかりの人に話すような身の上でもない。それなのに話してしまったのは、冷人らの磊落さに書文が当てられてしまったからかもしれなかった。
「しかし、書文よ」
思わず感じ入っている書文に、冷人がニヤリと笑みを向けた。
「武術の道、つまり武道ってのは坂道なんだ。突っ立ってるだけだったりノンビリしているだけならまだしも、本格的に一歩を踏み出したら大変だぜ?」
書文には冷人が何を示唆しているのかがわかった。
突っ立っている、とはおそらく基礎だけを繰り返してきたことを言っている。
ノンビリしている、とは多分無人の練習だけを重ねてきたことを言っている。
本格的な一歩、とはきっとこの学校への入学を示して言っている。
「険しい坂を登るには、体力とか精神力とかが必要、ってこと?」
それは書文にもわかっているつもりだった。安い学費目当てで入ったとはいえ、だから手を抜くつもりなど書文には毛頭ない。入ったからには父の八極拳を徹底して鍛え、実力を磨くつもりだ。
冷人や燃児に比べてあまりに儚く、また短期的な目標ではあるものの、ここ数時間でより強固になった『最初の一歩』である。
書文の返答に、しかし冷人は首を振った。してやったり、という笑顔だ。
「そういうのも聞くけどな。だがよ書文。武道ってのは上り坂じゃねえ、下り坂だ」
「下り坂?」
「おおよ。それもとびっきり急な下り坂だ。一度勢いがついたら止まれねえ、大きな滑り台みたいな急坂だ。
怪我に倒れても、病に臥せても、止まれねえ。例え死んでも死体が転げ落ちる。そういう坂だ。死ぬまで下って死んでも下る」
そこで冷人は一度燃児を、飛鳥を振り返った。燃児は付き合いの長さで冷人の言いたいことを悟り、飛鳥は"武道を下る"一員として、冷人の話の先を悟った。
二人の様子を見て、冷人は我が意を得たりと尚大きく笑った。
「オレたちはもう止まれない。落っこちてる最中だ。書文は・・・」
「武道を落ちる覚悟はあるか、って?」
「いいや、もうお前も落ち始めてるから。オレらと一緒に果てまで行こうぜ」
「・・・・・」
そこに落ち着くならさっきの長い話はなんだったんだろう。竹を割ったような性格の冷人に呆気に取られ、書文は苦笑も出来ずにいる。
横から聞いていたらしい他の生徒まで苦笑している。当の冷人は言い切った感ありありで、腕を組んで満足げに頷いて。
わずか一日で、書文の武歴はクラス公然となった。触発されて、周りでは武歴自慢が始まる始末。道中、とても賑やかしいものになった。
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拍皮球【はくひきゅう】
日本で言う鞠突き遊びのこと。
塔手でいう拍皮球は、相手に軽く触れるだけでゴムボールのように吹き飛ばしてしまうことを言います。
拍皮球されてしまうということは、両者の功夫には大きな差があるということ。
書文の功夫は飛鳥の功夫に大きく劣っているということです。