十歩目【前進】
六日が経った。
いよいよ明日、書文の試合謹慎が解ける。すでに試合の約束は取り付けているので、後は明日の放課後を待つだけだ。
馬場を立会人として立ててある、正式な試合であるので、すっぽかせば不戦敗になってしまう。もっとも、書文がすっぽかすことはありえないだろうが。
連日、飛鳥たち"先輩"に付き合ってもらっての練習で、大分癖は洗えた。染み付いたと言えるほどに馴染んだ癖をなくすのは、とても容易なことではないが、それでも時間をかければ不可能ではないはずだ。
ここ二日はただの歩法ではなく、鬼ごっこのような練習をしていた。
区切られたスペースの中で、突き出される手を避ける、という単純なものだが、それは突きを避けるための練習に、確かになりうるはずだ。まして山中のお粗末なパンチが、多分な加減があるとはいえ冷人の突きよりも早いはずも鋭いはずもないだろう。
試合を前日に控えた今日は、初日のように倒れるまでの練習はしない。疲労を抜きつつ適度に疲れる。そういう、調整のような練習量となる。
「よし、今日はこれくらいでいいだろ」
冷人のその一言で、前日たる本日の書文の稽古は終わった。
「あとは本なりテレビなりゲームなり、大人しく過ごしとけ」
「もう? 僕、まだできるけど・・・」
「前の日は、少しずつ物足りないくらいでやめといた方がいいよ。どうしても気が逸っちゃうから、癖ができたりケガをしたりしやすくなっちゃうの」
「腹八分目に医者いらず、とも言う」
「いや燃児、それは違う」
一週間近くも経つと道場にも一年生の姿が散見される。書文たちは軽口を叩きながら、汗を流す彼ら彼女らの間を抜けて、道場を出ていった。
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本格的な夏までは、まだ日がありありとあるが、それでもずいぶんと暑い。書文はうっすらと汗をかきながら校外を歩いていた。
放課後ではあるが、当然そう遅い時間ではない。高校生が出歩くにも、なんら不自然はない。
書文は日中の歩道を、最寄りの書店に向かって歩いていた。今日は書文が贔屓にしている作家のミステリーシリーズ、「還暦探偵・左文字右近」シリーズの最新刊が店頭にならぶ。
今日この日に練習が早く上がったことを、書文は密かに喜んでいた。
目的の書店はそれなりの知名度を持つ中堅の支店。一階が雑誌。二階が資格・武術・経済等の資料。そして三階が書文の目当て、各ジャンルの小説。を扱っている。下の二階には目もくれず、書文は一目散に三階へと階段を上がった。
三階で真っ先に客を出迎えるのは、目が大きく奇抜な色の髪をした頭身がおかしな肌色の目立つ女の子のイラスト。
いわゆるライトノベルのコーナー抜けて、ミステリーの、日本人作家のコーナーへ向かう。最近は昔の名作の装丁を最近のイラストレーターが務めることが多いので、ここの表紙とラノベの棚と、タイトルを見ずに見分けるのは難しくなってきている。
しかし目下書文の探しものはそのいずれでもない。そう有名でもない作品なので目立つところには置いていない。新刊の棚に平積みにされてはいるものの、地味な装丁で端のほうに五、六冊置かれているだけだった。
目当てのものを手に取り、ついでに他の新刊物色を始める書文。この手の人間は、タイトルや装丁、表紙や背表紙を眺めているだけで何時間も過ごすことができる。時間を忘れて過ごしてしまう。それを自覚している書文は、自分の書店巡りに決して友達を誘うことはないのだ。
「これも新刊出てる・・・・・、あ、この作家、新作出したんだ・・・・」
本に関しては目端が効くと自負していた書文だが、どうしても目の届かない作品もあるようだった。知らない作家の作品でも、どれも興味を惹かれるもので、あちこち目移りしてしまう。
新刊新作に飽き足らず、何度も目を通している既刊の棚にも目を移した。こちらは、まあ当然といえば当然なことに、目新しいものは目に留まらない。
見掛ける度に買うかどうか悩み、結局買わない本で今回も悩む。書文にとってはこの時間も、無駄とも言えるこの時間も趣味の一環だ。
「あっ・・・」
書文以外にも客はいる。店員もいるし作務衣を着た、業者らしき人もいる。
しかしその声は。小さく漏れた、思わず零れただけのその声は、確かに自分に向けられたものだと、書文は直感した。
いや、実際には直感なんてしていなくて、ただ急に聞こえた声に反応して顔を上げただけかもしれない。それでも、なんにせよ、その声の主は書文も知る人物だった。
東郷刃月。彼女も「還暦探偵・左文字右近」を持っていた。
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「まさか読んでる人に会えるとは思わなかったな」
「私も。しかも同じ学校だなんて」
書文と刃月は並んで談笑しつつ、寮への帰路にあった。
思わぬ同好の志に、二人ともすぐに打ち解けていた。
「東郷さん、なんていうか、もう少し怖い人だと思ってた。ごめんね」
「別に、気にしなくていいよ。よく言われるし」
刃月は落ち着いた声音で小さく笑った。その後も小説談議に花が咲く。密室トリックは本当に出尽くしたのか、良い叙述トリックは探すのが難しい、最近は小説に凶悪犯が出てこない、そんな話をしながら歩いていく。死因や毒物で盛り上がったときは、通行人に不審がられもした。
小説談議というよりミステリ談議と言うべきか。
盛り上がっていたその話を打ち切り、転換したのは、刃月だった。
「武林くん、明日リベンジマッチだよね」
「え?・・・ああ、うん。そうだよ」
書文は話題の急な変化についていけなかったが、すぐに山中との試合のことだと気付いた。戸惑いながら頷く。なぜ、急にそんな話を?
「どう? 勝てる?」
そう問い掛ける刃月の目は、静かななにかが満ちていて、書文の目を捉えて離さない。
勝てるだろうか。
書文だってそれを考えなかったわけじゃない。
いくら練習に、冷人たちを付き合わせたと言っても、なにか特別なことをしたわけじゃない。今までもしてきた練習とほとんど変わらない。
負ける前までと同じような練習を重ねて、勝てるのだろうか。
そんな不安は常に、書文を苛んでいる。
書文の揺れる瞳を、刃月は見逃さなかった。
「仕上げ代わりに、ちょっと私と立ち会ってみない?」
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寮までは戻らず、広大な校庭の片隅で、書文と刃月は向き合っていた。
直撃なしの寸止めルール。
「東郷さん、着替えなくていいの?」
刃月の格好はとても動きやすいものとは言えないそれだった。上は大人しめとはいえ、下はくるぶしまで届きそうなロングスカートをはいている。動きやすい動きにくいでなくとも、汚してしまうかもしれない。
そう思っての気遣いだったのだが、刃月はすぐに首を振った。
「大丈夫。元々私の流派って、私服平服で稽古とかしてたから。ブーツ履いてても戦えるよ」
「へぇ〜・・・」
ブーツを履いたことがない書文は、長靴の動きづらさを思い出して感心した。
刃月の手には節くれだった棒きれがある。どこかの木の枝だったのだろうそれは、とてもではないが扱いやすい代物には見えない。竹刀を取りに行かなくていいのか、と書文が問い掛けても、やはり刃月は首を振った。
「私の流派は"こう"なんだ。刀を持ってても、刃が潰れたり、折れたり、曲がったり。それに必ずしも刀があるときに戦えるとは限らない、って。なんでも武器として扱えるように鍛えられてるの」
これにも書文は感心した。聞いてみればなるほど、道着袴に刀を差すのを待って襲って来る敵などいるはずもない。刃月の流派は、実践志向なのだ。
「さて、じゃあそろそろ・・・・」
「あ、うん」
刃月の声に促され、書文は慌てて構えを取った。左半身で手は上下。右手は開いて臍の前。三才式。
書文の基本の(というかそれしか知らない)構えだ。ここ六日の指導で構えもずいぶん安定してきた。両足に等しく体重がかかり、すぐにでも動き出せる。
対する刃月の構えは、対燃児戦で見せた脇構え、では、なかった。
柄頭から切っ先までを垂直に、大上段よりも高く構える。
書文は知らなかったが、これは"蜻蛉"と呼ばれる構えだ。凪がず、払わず、切り下ろす。二の太刀要らずと謡う流派の一刃必殺の構え。
初太刀で決めるという意地を掲げる構え。
前述の通り書文はその構えを知らないし、どういう構えなのか分析する余裕もなかった。
「ぁ・・・ぅぅ・・・・・」
喉が干上がる。膝が震える。刃月が構えた瞬間から、書文はまともに立つことすら出来ていない。今書文の心を占めているのは、ただ一色の恐怖。
斬られる。
自分が斬られる。その恐怖。
そんなはずはない。刃月が持っているのは刃なんてついていないただの棒きれ。叩かれたとしても棒の方が折れてしまうだろう脆弱な棒。
それが分かっていても、しかし心が理解しない。頭では安全を確信していても心が戦く。
刃月自身は一言も発していなくとも、書文は完全に威圧され、畏縮しきっていた。
書文が生まれて初めて感じる、これが、剣幕。
ピク、と刃月が身じろぎ、フッ、と書文は気絶した。
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「斬られるかと・・・・、斬り殺されるかと思った」
保健室で目を覚まし、自分の体をまさぐり無傷であることを確認し、安堵の息を深々と吐いたのち、書文はそう言った。相手はもちろん東郷刃月である。
「ごめん、ちょっとやり過ぎたね」
今の刃月には先程までの剣呑さは見当たらない。話に花を咲かせていたときの、穏やかな、大人しやかな態度だった。
「別にいいけど、どうしたの、いきなり」
「同好の志への、お節介、かな?」
「同好の志?」
「うん」
二の太刀要らずの少女から、二の打ち要らずの少年への、気遣い。心遣い。
どちらも未熟でありながら、圧倒的な経験の差と、圧倒的な実力の差からなされた言葉なきアドバイス。書文からすれば、なにもされないうちに気絶させられたという情けない記憶でしかないが、それでもこの経験は役に立つことになる。
山中との試合どころか、後々にまで深く。いずれ完成する"武林書文"という武術家に、この経験は欠かせないものである。
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