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放置されたい私と何も知らない旦那様  作者: 鉤咲蓮
四章 それぞれの正体

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22/22

22.全部終わったら、また




 白銀の宝剣を納めたガラスケースには鍵がかかっている。


 なりふり構っていられなかった。

 マリアンネは脇に置かれていた蝋燭のない燭台を手に取り、心の中で謝ってからガラスを叩き割る。不思議とガラス片が載っていない宝剣を取り出し、後ろを振り返った。


 ゼイルの街と繋がった扉がある。

 マリアンネには、聖具の使い方などわからなかった。どうすれば守ってくれるのか、どうすれば力になってくれるのか。

 剣の扱いがわかるわけでもない。両腕で抱えた宝剣は重く、マリアンネでは一振りするのも一苦労だろう。

 それでも。


「お願い、聖具のもととなった神獣様。どうか、どうか力を貸して……!」


 今、どこよりも聖具を必要としているのはゼイルだった。

 誰か騎士に託してもいい、どうにか守ってくれるなら、ただ在るだけでもいい。

 せめて僅かでも助けに、一人でも多く救うために。


 震える脚を踏み出して、マリアンネはゼイルへと戻った。

 行儀が悪いとは知りながら扉を蹴り締め、音が激しい方へと走り出す。


 その時、彼女のスカートから零れ落ちたガラス片が、たった一つ。

 扉の枠につかえてしまった事には、そのせいで扉が閉まりきらなかった事には――気付かなかった。



「これって赤魔牛……?それも、二体…」


 道理で破壊の音が大きかったはずだ。

 とうに絶命しているらしい二メートル超の死骸を横目に、マリアンネは先を急ぐ。数百キロあると言われるあの巨体を倒したのは、間違いなくゼイルの騎士だろう。


 折れた剣が幾本も落ちているのが気になった。

 パッと見では人間の死体も負傷者も見当たらないが、何人が犠牲になったのか。聖具、それも剣の形状であるならば、きっと普通の剣よりは脆くないのではないか。


 ――来られても邪魔だと思われるかもしれない。足手まといかもしれない。でも…でも!


 せめて、聖具を届けるまで。

 胸に抱えた宝剣が淡い緑色の光を薄く纏っている事に、マリアンネは気付いていた。この剣は既に、魔物と戦おうとしているのだ。


 動かない夫に縋りつく女将の姿を、気絶したプリスカを、血で染まったハンカチを、思い出す。

 この惨状を知って何もせずにいる事など、マリアンネにはできなかった。

 助けになるかもしれない武器を、その在処を知っていて、放ってはおけなかった。

 けれど。


 地響きと共に現れた影を見た時、「失敗」の文字が頭を過ぎる。


 固まった泥を装甲のように纏った、三メートル近くあるそれはおおよそ、人の形をしていた。

 素材になってしまえば香炉などに使われる良質な泥も、硬質化している今は敵を潰すためだけのもの。


 花泥鬼(かでいき)

 泥を纏った頭部が花の形に見えるからその名がついただけで、危険度Aクラスの凶暴な魔物である。マリアンネは既に捕捉されていた。


「あ……」


 考えが甘かった事を思い知る。

 距離はまだ十数メートルあった。あの巨体では何歩分なのだろうか。

 逃げなければと強く思う。頭の中で警鐘が鳴る。せめて建物の裏に。このままでは死んでしまう。


 しかし、足が動いてくれなかった。

 むしろ、いつの間にか地面にへたり込んでいる。


 ――どうして。逃げないと、立たないと…


 魔物が咆哮を上げる。

 マリアンネはまるで他人事のように、「花泥鬼って叫ぶのね」と思った。巨体がこちらへ踏み出す。たった一歩目がズシンと重く地面を打ち鳴らす。

 がくがく震える脚は動きそうになかった。宝剣を強く抱きしめる。


 付近の屋根から、騎士が一人。

 何の躊躇もなく飛び降りて、花泥鬼の眼球深くに剣を突き立てた。絶叫して叩き落とそうとしてくる手を彼はあっさりと避け、ついでに重い頭部を強く蹴りつける。花泥鬼の身体が後ろへ傾いた。


 建物が倒壊したかと思うほど豪快な音を立て、三メートル近い巨体が仰向けに倒れる。

 蹴った反動で後方へ跳んだ騎士は空中でくるりと回転し、マリアンネに背を向ける形で着地した。


「流石に固いな。抜けなかった」


 低い位置で結った赤髪が揺れる。

 独り言を呟く背中を、マリアンネは呆然と見上げていた。堪えていた涙がぼろぼろと溢れ出す。


「立てるか?生憎と剣は今のが最後でな…取り戻すところからに――」

「レオン、さん」

「うん?」

 ようやっとマリアンネを振り返り、レオン・エーヴェは左目を丸くして瞬いた。

 見慣れない髪色だったため、てっきり火祭りへ訪れた観光客と思ったが、よく見れば顔立ちも体格も着ている服も、事件前に広場で見かけた彼女と同じだ。


「…シーラさんか?」

「ええ。立てるわ」

 差し出された手を支えに立ち上がりながら、マリアンネはこの時、プリスカが気絶した事の弊害にまだ気付いていなかった。

 長い髪も涙に濡れた瞳も、本来の浅緑色に戻っていたのだ。レオンの頭には妹から届いた手紙が思い出されていた。


《長い髪は春の陽に照らされた若芽のような色であり、瞳はエメラルドが敗北を悟るだろう神秘的な――》


 花泥鬼がまだ苦しんでいるのをちらと確認し、マリアンネはレオンの手を離して涙を拭う。

 淡い光を纏う宝剣を躊躇いなく差し出せば、彼はますます目を見開いた。


「…なぜ君が、これを…」

「使って。夫の家から持ち出してきたの」

「夫?」

 まじまじとマリアンネを見つめるレオンに、こくりと頷いてみせる。

 本当は今すぐにでも「怖かった」と泣きついてしまいたいと、あんな恐ろしい魔物と戦わず一緒に逃げてほしいと、そんな考えが浮かんでいた。


 ――貴方に、死んでほしくない。生きていてほしい。たとえ私と一緒にいられなくたって。


「罰を受けるかもしれないけど、少しでも街の助けになるなら構わないわ。貴方になら託せる」


 はらりと、涙が頬を伝う。

 極限状態の今、これまで必死に抑えてきた感情がどうしようもなく心に溢れていた。


 ――なんて醜いの。私とっくに、レオンさんを愛してしまっていた。


 真面目なのにどこか抜けていて天然なところ。

 一生懸命で、ずれていて、不思議そうに瞬く表情が少し可愛らしくて、時折見せる優しい微笑みは温かくて。その気遣いが、真摯な思いが、好きだった。


 ――ごめんなさい、ユリウス様。貴方の妻である限り決して口にしません。全て心に秘めます。だからどうか今は、彼に聖具を渡す事をお許しください。


 心臓が締め付けられるように痛むのは恐怖か、罪悪感か、彼を心配する心なのか、わからなかった。

 たとえ許しがなくとも、自分が後でどうなろうとも構わない。

 その覚悟を持って、マリアンネは聖具を手放した。


 ――私きっと、今この時のために。貴方に届けるために、魔法を授かったから。


「だから使って。……そして、戻ってきて。ちゃんと自分で、私にそれを返して。レオンさん」

「…わかった。ありがとう」

「死なないで。絶対に…無事で帰ってきて。」

「約束する。マリアンネ嬢」

「はい――…、へっ?」

 声が裏返る。

 聞き違いだろうかと目を丸くするマリアンネに、レオンは眉尻を下げてくすりと微笑んだ。後方で花泥鬼が膝をつき、立ち上がろうとしている。


「流石に予想外だった。貴女の嫁ぎ先がヴィンケル伯爵家とは」

「なっ…なん、どうして、それを」

 マリアンネが言い切るより早く、レオンは彼女の手を取った。

 手の甲に軽く唇を触れさせる。その姿がふわりと変化し――低い位置で結んだ髪が、艶のある青紫色になる。右目の眼帯は霧のように消え、切れ長の両目には澄んだ水色の瞳、そばかすのない綺麗な肌。


 以前会った時より数年分は大人びていて、それでも彼が誰なのか理解する。

 マリアンネの夫であるユリウス・ヴィンケルがそこにいた。


「――…!?れ、レオンさ…」

「ユリウスだ。後ほど、約束通り話をしよう。」


 大混乱、とはこの事である。

 目が白黒してしまいそうなマリアンネの耳に花泥鬼の咆哮が響いた。すらりと慣れた手つきで剣を抜いたユリウスに、片目を潰された巨体が突進してくる。


 軽やかに、ユリウスは地面を蹴った。

 白銀の刃が纏う輝きが強くなる。


 一閃。


 柔らかい土人形でも切るように花泥鬼を一刀両断し、ユリウスは危なげなく着地した。

 ズズンと音を立て、死骸となった塊がマリアンネを避ける形で落ちる。


 ――……えっ、終わり?一瞬過ぎない?


 自分の涙は、必死の願いは何だったのか。

 呆然とするマリアンネの元に、いつの間にかもうユリウスが戻ってきた。

 どうにも見慣れない顔のはずなのに、「どうかしたか?」とでも言いそうに少し、首を傾げてこちらを見つめる姿にひどく見覚えがある。


 ――どうかしたかじゃないでしょう。私もっと、決死の戦いになると思って。


「大丈夫。実は粗方、討伐は終わっているんだ。騎士も配置についた頃で…」

「……色々と、聞きたい事があるのだけど。もちろん、後にするけれど」

「そうだな、俺もすごく色々と聞きたい。不思議だ」

「今は一つだけ。」

 人差し指をぴんと立ててから、マリアンネは胸元で両手を握った。

 死ぬところだったのだ、自分は。彼が駆け付けていなければ。今思い返しても涙が滲む、あの恐怖の中で。見えた背中がどれほど、心強かったか。


「私を助けてくれて、ありがとう。」

「こちらこそ。ちょうど剣が尽きたところだったんだ。非常に助かった」

「…言ってたわね、そういえば。」

「隊長にかなり出してもらったんだがな。固いのが多くて次々折れて」

 どうやら、道中で見かけた剣の残骸達は彼の物だったらしい。

 剣を届けられてよかったと安堵の息を吐いたマリアンネは、さらりと流れた自身の髪色に今更驚いた。


「あら?私、色が…」

「うん?気付いてなかったのか。」

 レオンが、否、ユリウスが瞬いて尋ねてくる。

 それにこくりと頷きながら、プリスカが気絶したのだから当然かと考えた。彼女は今頃、伯爵邸で治療を受けているだろう。


「今は戻しておくか。互いに」

「戻せるなら……、戻せるの?」

「ああ。」

 いとも簡単そうに言って、ユリウスはマリアンネの頬にそっと手を触れた。

 決して色のある手つきではなかったのに、心臓が小さく音を立てる。彼と両方の目が合うというのは、不思議な感覚だった。


「【全てはまやかしに過ぎない】」


 ユリウスの姿がレオンになり、マリアンネの髪と瞳は紺色に染まる。

 彼自身の魔法だったのかと驚いていると、花泥鬼がやってきた方向が騒がしい。遠目に確認できるだけでも十数体の魔物が迫っていた。中級程度が殆どのようだが、何せ数が多い。


「まだあんなに…!」

「大丈夫だ、ちょっと隠れて待っていてくれ。俺は女性の扱いこそよくわかっていないが――魔物の倒し方なら知っている。」

「笑うところ?」

「一応。」

 真顔で何を言っているのか。

 まったく貴方はいつも通り過ぎると、マリアンネは自然と笑顔になっていた。


「ふふっ――わかったわ、信じてる。いってらっしゃい、レオンさん!」

「ああ、任せてほしい。シーラさん」


 柔らかく微笑んだユリウスを見て、安心させるための冗談だったと察する。

 思えば彼の、レオン・エーヴェの武勇伝は幾度も噂に聞いていた。走り出した背中を、見間違いかしらと思うほどあっさり切り捨てられていく魔物を見ながら、マリアンネは瞬いた。


 ――そういえば、さっきのが固有魔法という事は……あの方ずっと、素で戦っているのよね?今は聖具があるとはいえ。


 赤魔牛の死骸があったこと、平気で花泥鬼の前に飛び出し、正確に目を突き刺したこと。

 つくづく、常人離れした旦那様である。

 何だか可笑しくなって、マリアンネはくすりと笑った。


「全部終わったら、また二人でご飯に行きましょう。」




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